『白を脱ぐ日、あるいは色彩の始まり』【本編第18話・第19話 完全準拠版】
コンクリートの建物を満たす消毒液の匂いは、幼い頃から何一つ変わっていなかった。
年が明けたばかりの、深く澄み渡った冬の朝。病室の窓からは、雪解けを思わせる冷たく清冽な空気が入り込み、眩しいほどの晴天の光が白いシーツを鋭く照らしている。
遠野葉月は、ベッドの上で上半身をわずかに起こし、手元の小さなスタンドミラーを真っ直ぐに見つめていた。
鏡に映っているのは、およそ彼女の知る「遠野葉月」の顔ではなかった。
上顎を切り離すル・フォーI型骨切り術、そして下顎を二分割して噛み合わせを合わせる下顎枝矢状分割術(SSRO)。その大手術から数日。彼女の顔は、術後の強烈な腫れのためにパンパンに膨らみ、以前の面影をほとんど残していない。
さらに最悪なのは、上下の歯を金属のワイヤーでガチガチに縛り付ける「顎間固定」が施されていることだった。
「……っ、……ぅ」
喉の奥から声を絞り出そうとしても、鉄格子のように噛み合わされた歯列が、一切の息の自由を奪う。唇を動かすことすらままならず、ただワイヤーの冷たい感触が、口内の粘膜にチクチクと突き刺さるだけだった。
カシャ、と静かな音がして、病室のドアが開いた。
首から使い込まれたオリンパスのOM-1を下げ、静かに歩み寄ってくる少年――水川凪だった。
葉月は反射的に、手元に置いたレントゲン写真のフィルムに視線を落とした。そこには、複雑な金属プレートとスクリューの影が、まるで精密機械の部品のように彼女の頭蓋骨に埋め込まれている。
医師は「シミュレーション通り、完璧なI級咬合が得られました」と絶賛した。けれど、葉月の内面は、その完璧な結果とは裏腹に、今にも千切れそうなほど脆く張り詰めていた。
「……みた、でしょ」
ワイヤーの隙間から、掠れた声が漏れる。喉の奥にまだ麻酔と手術の生々しい痛みが残っているせいで、その声は弱々しく、ガラスのように透明だった。
「レントゲン。わたし、もう……『違う』でしょう? あの、歪んだ骨の形は、もう、ないでしょう?」
それは、不完全であった過去の自分への決別であり、同時に、まだ腫れの下に隠されて見えない「新しい自分」への底知れない恐怖だった。
凪は何も言わず、葉月のベッドサイドに静かに腰を下ろした。彼は、レントゲン写真の冷たい金属の影には目もくれず、ただ、ベッドの上に置かれた葉月の細い手を見つめていた。まだ点滴の針が痛々しく残る、震える手を。
「ああ。見たよ」
凪の声は深く、静かだった。まるで、雪が音もなく降り積もるかのように、優しく、しかし確かな重みを持っていた。
「完璧、か」
凪は静かに呟き、葉月の手の上に、そっと自分の手を重ねた。
「僕は、君のその完璧な顔を見にきたんじゃない。君を待っていたのは、完璧な結果じゃないんだ、葉月」
葉月の腫れ上がった瞼の奥で、瞳が大きく見開かれた。凪が何を言おうとしているのか、ワイヤーで縛られた脳ではすぐに理解が追いつかない。
「僕が本当に愛したのは」
凪は、彼女の震える指先に、そっと力を込めた。
「君がその不完全な自分を必死に覆い隠し、完璧になろうともがいた努力だったんだ。傷があることを隠して、発音を練習して、優等生という仮面を命懸けで守り……そして、その痛みを共有するために僕に会いに来てくれた、君のその壮絶な過程だ」
「な……ぎ……」
「完璧な結果なんて、脆いものだ。でも、君がその結果を得るために流した汗と涙は、永遠に変わらない、君自身の光なんだよ。だから、そんなに怖がらなくていい」
ワイヤーの奥で、葉月の唇が激しく震えた。
完璧な結果を出さなければ、自分には価値がないと思い込んでいた。歪んだ骨を削り落とし、チタンのボルトで固定されたこの「新しい人工的な顔」だけが、自分の救いだと思っていたのに。
凪は、自分が必死で消し去ろうとしていた、あの泥臭くて不完全な「過去の努力のすべて」を、一番綺麗なものとして抱きしめてくれたのだ。
「わたし……っ、私は、不完全だから、変わらなきゃいけなかった……。この手術は、私にとっての救済だったの……。でも……っ」
縛られた歯の隙間から、血の混じった唾液と一緒に、抑えきれない涙が溢れ出す。腫れあがった頬を、熱い涙がいくつも伝ってシーツを濡らしていく。
凪は何も言わず、ただ彼女の手を握り続けた。カシャ、カシャと、窓の外を流れる冬の雲が、病室の白い壁に二人の静かな影を焼き付けていた。
◆◆◆
術後から二週間が経ち、ようやく顎を固定していたワイヤーが外される日がやってきた。
主治医が専用の器具を使い、口内の金属線を一本ずつパチパチと切っていく。ワイヤーが外れた瞬間、葉月は数週間ぶりに、自分の意志で下顎を動かす自由を取り戻した。
「はい、遠野さん。ゆっくり口を開け閉めしてみて。まだ筋肉が固まっているから、無理はしないでね」
「あ……、あ……」
動く。けれど、顎の骨の感覚が以前とは全く違う。
ル・フォーI型によって上顎は理想的な位置にあり、SSROによって下顎は綺麗に後ろへ下がっている。鏡を見ると、あれほど強烈だった腫れは見事に引き、そこには息を呑むほど整った、対称的で美しい「新しい顔」があった。
人中にあった、幼い頃からの薄い縫合線の名残。それすらも、今回の皮膚の再縫合によって、ほとんど目立たない一本の極薄い線へと生まれ変わっていた。
「完璧だ。機能的にも、審美的にも、これ以上の結果はないよ」
医師は満足そうに頷き、病室を出て行った。
一人残された部屋で、葉月はゆっくりとベッドから立ち上がり、窓辺に寄り添った。
放課後のチャイムが鳴る頃、いつものように凪がやってきた。彼の首には、いつもと変わらずOM-1が揺れている。
「葉月」
「……凪」
葉月は振り返り、新しく手に入れた「完璧な口元」で、凪を見つめた。
「ワイヤー、外れたんだね」
「ええ。さっき、先生に外してもらったわ。……ねえ、凪。今の私、どうかしら。変じゃない?」
葉月は緊張しながら、滑らかな唇を動かした。骨格が変わったせいで、口の中の容積が変わり、舌がどこに触るべきかまだ脳が混乱している。
「……喋ってみて」
「何を?」
「何でもいい。葉月の、今の声を聴きたい」
葉月はごくりと唾を飲み込んだ。そして、かつて毎晩深夜二時にICレコーダーに向かって繰り返していた、あの呪いの音階を、そっと口にする。
「あ、い、う、え、お。……さ、し、す、せ、そ」
その瞬間、葉月はハッと目を見開いた。
骨の噛み合わせが正常なI級になったことで、今まであれほど苦労していた「サ行」の発音が、驚くほど滑らかに、何の抵抗もなく口から滑り出たのだ。
上顎の奥に擦れるような摩擦の狂いも、空気が鼻へ抜ける感覚も、まったくない。
「すごい……。私、普通に喋れてる。空気、漏れてない……?」
「うん。すごく綺麗だ。完璧な、サ行の音だよ」
凪は静かに微笑んだ。けれど、その微笑みの奥に、ほんのわずかな「寂しさ」が混ざっているのを、葉月は見逃さなかった。
凪は、ベッドの横に置かれたレントゲン写真のチタンプレートを見つめ、それから葉月の、傷ひとつのない綺麗な人中を見つめていた。
「……寂しい?」
葉月の問いに、凪は小さく肩を揺らした。
「……少しだけね。不謹慎だって、分かっているんだけど。葉月のあの、一瞬だけ『すぅ』って空気が漏れる音が、僕にとっては……僕たちの秘密の、足音みたいに思えたから。それが、医学的に消えちゃったんだな、って」
葉月は歩み寄り、凪の目の前で、わざと口元を小さくすぼめてみせた。
「バカね、凪。消えてなんかいないわよ」
「え?」
「骨の形は変わったし、ボルトも埋まっているけれど……私の口の中には、まだあの時、凪の隣のベッドで泣いていた私の感覚が、ちゃんと残っているわ。この『完璧な発音』はね、お医者様がくれたものじゃない。私が十年間、凪に会うために、のどを締め付けて泣きながら練習してきた、あの努力の続き(ルート)にあるものよ」
葉月は凪の手をとり、自分の「新しい、けれど、闘い抜いた口元」の近くへと寄せた。
「この声は、凪が愛してくれた『私の光』でできているの。だから、何も変わらないわ」
凪はマスクの下で息を呑み、それから、本当に愛おしそうに目を細めた。
「そうだね。君の言う通りだ、葉月」
二人の間で、言葉を超えた確かな調律が、静かに完了した瞬間だった。
さらに数日が経ち、ついに退院の朝が訪れた。
冬の朝の、痛いほどの青空が病室の窓全体に広がっている。
葉月は病院の支給品である白いパジャマを脱ぎ、私服の深いネイビーのニットに着替えた。鏡の前に立ち、長くまっすぐな黒髪を丁寧に梳かす。肩甲骨の下まで滑らかに流れるその髪は、冬の光を浴びて艶やかにきらめいた。
「よし」
荷物をまとめ終えた頃、ドアがノックされ、凪が入ってきた。私服のコートを着た彼は、大きな荷物を見て「持つよ」と短く言った。
「ありがとう、凪。……これで、この白い世界ともお別れね」
「うん。行こうか」
病室を出て、一階のナースステーションへと向かう。そこには、彼女の過酷な手術とその後の我慢強いリハビリを見守ってきた看護師たちと主治医が、笑顔で待っていた。
「遠野さん、退院おめでとう! 本当に大変な手術だったのに、いつも前向きで、私たちの方が励まされちゃったわ」
「ありがとうございます。先生や皆さんが、痛むたびに優しく声をかけてくださったから、私は少しも挫けずにいられました。この病院で過ごした時間は、私の宝物です」
葉月の口から出たのは、一音の澱みもない、透き通った完璧な「優等生」の挨拶だった。
完璧な顔と、完璧な声。看護師たちは口々に「本当に素晴らしいお嬢さんね」と感心し、温かい拍手で彼女を送り出す。
エレベーターに乗り込み、一階へと降りる間、二人きりになった空間で、葉月はふう、と大きくため息をついた。
「……ふう。やっぱり、ナースステーションの前を通るときは、肩に力が入っちゃうわね」
「あはは。完璧な遠野葉月を演じるのは、退院の瞬間まで手を抜かないんだね」
「当然でしょう? これが私の、世界と戦うためのドレスコードなんだから」
葉月はいたずらっぽく笑い、エレベーターの鏡に映る自分の顔をのぞき込んだ。腫れは完全に引き、誰もが振り返るような美少女の姿がそこにある。
一階の広いロビーを通り抜け、大きなガラスの自動ドアの前に立つ。
その向こうには、冬の寒気と、街の喧騒が広がる「外の世界」が待っていた。
葉月は、自動ドアの直前で、ピタリと足を止めた。
その細い肩が、わずかに緊張で強張るのを、凪は見逃さなかった。
「葉月?」
「……このドアを出たら、また始まるのね。みんなが私に『完璧』を求めて、私もそれに答えなきゃいけない、あの息苦しい世界が」
どれだけ骨を削り、声を綺麗にしても、内側にある「不完全な自分」への恐怖が完全に消えるわけではない。外界に出るということは、再び仮面を完璧に固定して戦うことを意味していた。
凪は、持っていた荷物を一度床に置くと、自分のカメラバッグから、小さな、銀色のコンパクトフィルムカメラを取り出した。使い込まれているが、隅々まで綺麗に磨き上げられた古いコニカのカメラだった。
「これ……葉月に、あげる」
「え……? 凪の、大事なカメラじゃないの?」
「古いジャンク品を、僕が自分で分解して、部品を入れ替えて直したんだ。……退院のお祝い」
「私、写真なんて撮ったことないわよ? 絞りとか、シャッタースピードとか、全然わからないし……」
凪は首を振って、カメラを葉月の小さな手のひらの上にそっと載せた。
「難しく考えなくていいんだ。言葉が出ないとき、世界が眩しすぎて息ができないとき……この四角いファインダーを覗いてみて。そこにある世界は、どんなに歪んでいても、不完全でも、全部『そのままの形』で写るから。……言葉で戦うのに疲れたら、この穴から、僕と一緒に世界を覗こう」
葉月は、手のひらに伝わるカメラの冷たい、しかしどこか温かい金属の感触を確かめるように、きゅっと指先を握りしめた。
「……凪」
彼女はゆっくりと顔を上げ、凪の目を真っ直ぐに見つめた。
そして、あえて、喉の奥の緊張を完全に解いた。
優等生の仮面を脱ぎ捨て、顎の骨を切ったあとの、まだ少しだけ動きの硬い、ありのままの筋肉と言語のままで。
「私ね、凪。……凪が私の『過程』を愛してくれるなら、外の世界で、どれだけ完璧なフリをしても、もう寂しくないわ」
彼女の声は、先ほどの看護師たちの前での澄んだ響きとは違い、少しだけ鼻にかかった、不完全な、けれど世界で一番温かい「遠野葉月」の本物の声だった。
「……うん。今の声、僕のいちばん好きな声だよ」
凪はマスクの奥で、本当に嬉しそうに目を細めた。
葉月はもう、自分の口元を引き攣らせて笑うのをやめた。人中の薄い縫合線の痕も、骨に埋まったチタンのボルトも、すべてが自分という人間の、凪と共に歩んできた人生の「かけがえのない価値」なのだと、胸の奥でストンと腑に落ちたからだ。
「じゃあ、行きましょう。私たちの世界へ」
「うん。行こう、葉月」
ウィーン、と音を立てて、大きな自動ドアが左右に開いた。
二人は同時に、外界へと一歩を踏み出した。
その瞬間、冬の凍てつくような、しかし圧倒的にクリアな風が、葉月の長い黒髪を激しくなびかせた。
「――っ、冷たい……!」
「冬の空気だからね。でも、すごく澄んでる」
病院の中の、刺激をすべて排除された「無彩色(白)の世界」から一転して、二人の眼前に、爆発するような『色彩』が飛び込んできた。
見上げるような冬の空の、吸い込まれそうなほどの深い青。
通学路の街路樹が落とした、温かみのある枯葉の茶色。
遠くの交差点を足早に通り過ぎる人々の、色とりどりのコートの赤や黄色。
世界は、こんなにも多くの不完全な、けれど愛おしいグラデーションで満ち溢れていた。
「葉月、こっち向いて」
凪が不意に、OM-1のファインダーを覗きながら声をかけた。
葉月は足を止め、振り返りながら、凪から貰った小さなカメラを構えた。そして、彼のレンズの真ん中を、真っ直ぐに覗き返す。
「いくよ。……せーの」
カシャ、という二つの静かなシャッター音が、冬の澄んだ空気の中で美しくハモるように響き渡った。
凪のファインダーの中には、完璧な優等生の仮面を脱ぎ捨て、口元の新しい傷跡を隠すこともせず、ありのままの、世界でいちばん眩しい笑顔で笑う遠野葉月の姿が、鮮烈な光とともに焼き付けられていた。
「どう? 凪。綺麗に撮れた?」
「うん。僕の人生の中で……いちばん最高の、光の色が撮れたよ」
「もう、大袈裟なんだから」
葉月は小さく笑い、凪の隣に並んで歩き出した。
彼らの身体に残る目に見える手術の傷跡も、心に刻まれた見えない苦悩も、今や二人の愛を深め、将来、写真家と医療ソーシャルワーカーとして「他者の痛みに寄り添う」ための、かけがえのない『価値』へと昇華されようとしていた。
傷を隠すための「白」を脱ぎ捨て、二人が紡ぎ出す、新しい表現の、新しい色彩の物語が、今ここから、鮮やかに始まろうとしていた。
白を脱ぐ日、あるいは色彩の始まり 了
よろしくお願いします。




