番外編2:完璧な仮面の裏側で
「――あ、い、う、え、お。か、き、く、け、こ」
深夜二時。世界が寝静まった自室の机の上で、小さなICレコーダーの赤い録音ランプが、夜光虫のように怪しく明滅していた。
遠野葉月は、机に置いたスタンドミラーを真っ直ぐに見つめながら、自らの唇の動きを凝視していた。
「さ、し、す、せ、そ。……っ、もう一度。さ、し、す、せ、そ」
録音を止め、再生ボタンを押す。スピーカーから、自分の声が流れ出す。
『さ、し、す、せ、そ』
機械を通して聴くその発音を、葉月は外科医がメスを入れるような冷徹さで分析する。
(まだ駄目。「す」の音が、わずかに上顎の裏に擦れる。ほんの少しだけ、摩擦が足りない。空気を完璧にコントロールしなきゃ、あの『滑らかな言葉』にはならない)
葉月はごくりと唾を飲み込んだ。鏡に映る自分の顔は、どこからどう見ても、誰もが振り返るような「完璧な美少女」の形をしている。整った鼻筋、涼しげな目元、そして、不自然な歪みなど一ミリも見当たらない、滑らかな形をした唇。
だが、その唇の内側、上顎の粘膜には、幼少期から何度も繰り返してきた修正手術の痕跡が、硬い瘢痕となって今も残っている。
口唇口蓋裂。それが葉月の背負った呪いの名前だった。
普通の人なら無意識にできる「言葉を喋る」という行為が、葉月にとっては、何百、何千時間もの血の滲むような訓練の果てにようやく手に入れた「高等技術」だった。
「す……、す……。舌の、位置を、あとコンマ数ミリ下げる」
手元のノートには、言語聴覚士のアドバイスや、自分で気づいた発音の癖が、狂気的なまでの密度で書き込まれている。
『完璧でいなければならない』
それが、いつからか葉月の生きる絶対の行動原理になっていた。
なぜなら、彼女にはどうしてももう一度会いたい人がいたからだ。
七歳の夏休み、何度も入院を繰り返していたあの白い病院のプレイルーム。
手術の恐怖と激痛で泣きじゃくる自分の隣で、いつも静かに、一生懸命にスケッチブックに温かい絵を描いてくれた少年。彼の口元にも、自分と同じ痛々しい手術の傷跡があった。言葉を交わすことはなかったけれど、葉月はいつも彼の方に視線を送り、そっと彼のベッドの横に、小さなおまじないのように飴玉を置いてあげた。あの時、言葉を超えて伝わってきた彼の優しさに、葉月はどれほど救われただろう。
(私は、強くなるよ。あなたの優しさに、胸を張って隣に立てるくらい、誰にも文句を言わせない完璧な自分になって、あなたを迎えに行くから)
それからの十年間、葉月は文字通り「戦い」の中にいた。痛みを伴う術前矯正、骨を切り取る手術の苦痛、そして何より、周囲からの憐れみの視線。そのすべてを撥ね退けるために、彼女は完璧な美しさと、徹底して計算された優等生としての振る舞いという「鎧」を身につけた。
「……やっと、ここまで来たよ。凪くん」
ノートの隅に小さく書かれた『水川凪』という文字を、葉月は愛おしそうに指先でなぞった。
事前に入念に調べ、彼が通っている茨城県の高校へと転校する手続きを済ませた。しかし、喜びと同時に、冷たい刃のような恐怖が、葉月の細い背筋を駆け上がった。
(もし……私のこの『完璧な鎧』が、ありのままの彼を傷つけてしまったら、どうしよう)
自分は戦うことで傷を隠し、完璧を作り上げた。けれど凪くんは、今もあの頃のように、傷を抱えたまま静かに生きているかもしれない。私の滑らかな言葉が、彼の耳に「拒絶」のように響いてしまったら――。
夜が明ける。仮面を被る時間が、すぐそこまで迫っていた。
四月。転校初日の午前中、事務手続きを終えた葉月は、昼休みのチャイムとともに担任の教師に連れられ、二年B組の教室へと向かっていた。
教廊を歩きながら、葉月は一度だけ深く息を吸い込み、完全に胸の奥の動揺を殺した。
(落ち着いて。私は完璧。誰にも私の傷は見えない。私は、凪くんを驚かせにいくんじゃない。彼の世界に、そっと溶け込みにいくんだから)
教室のドアが開く。ワイワイと騒がしかった昼休みの教室の空気が、一瞬で凍りついたように静まり返り、何十もの視線が自分へと集中した。すれ違う生徒たちが、一様に息を呑むのがわかる。
教卓の前に立ち、担任が声を張り上げた。
「水川、写真部の活動、真面目にやってるか?」
その名前に、葉月の心臓が跳ね上がった。
教室内を見渡す。一番ろの後ろ、窓際の席。愛用のフィルムカメラを愛おしそうに撫でていた一人の少年が、びくりと肩を震わせて顔を上げた。
(……凪くん)
見間違えるはずがなかった。あの優しい目元、少し伏せられた睫毛の長さ。
彼は顔の下半分を真っ白な不織布のマスクで完全に覆い、身体を小さく丸めていた。まるで世界そのものから自分を隠すように。
「……はい」
凪の喉から出たのは、カサカサとした、蚊の鳴くようなか細い声だった。それ以上の言葉を、のどの奥の違和感に耐えるようにして必死に堪え、沈黙する凪。その痛々しいほどの自己防衛の姿に、葉月の胸が締め付けられる。
担任は深く追求せず、「こちらは転校生の遠野葉月さんだ。遠野は写真に興味があるらしい。水川、おまえ、部長だったな。放課後、一度部室に案内してやれ」と告げた。
その瞬間、凪が初めて、葉月のことをしっかりと正面から見据えた。
(あ、見てる。私の顔を、口元を、探るように見つめてる……)
葉月は舞台女優のように堂々と立ち、凛とした姿勢を保ちながら、内心では極限の緊張に晒されていた。
凪の視線が、自分の唇の上部――「人中」のあたりを必死に走っているのが手に取るようにわかったからだ。彼は探しているのだ。自分と同じ、あの過酷な修正手術の痕跡を。
(ごめんなさい、凪くん。そこにはもう、何もないの。私は戦って、消してしまったの。だけど……私はあなたと同じなんだよ)
クラスメイトたちが一斉に小さなどよめきと好意の視線を送ってくる中、葉月はあらかじめ夜中に何度も練習した、完璧な笑顔を浮かべた。
「東京から転校してきました、遠野葉月です。一年間、よろしくお願いします」
完璧な発音。一音一音に濁りがない、澄み切った声。アナウンサーのように淀みのないその言葉は、教室内で完璧な「優等生の光」として機能した。
しかし、凪の瞳に、底知れぬ混乱と、激しい敗北感が広がるのを、葉月は見逃さなかった。
あまりの眩しさに怯え、自分との違いに絶望しかけている凪。
(ダメ、そんな目で私を見ないで。私はあなたの敵じゃない――!)
焦りが、葉月の完璧なコントロールをわずかに乱した。
凪の、マスクで覆われた顔の下半分、その奥にある瞳を強く見つめ返しながら、葉月は心の中で「私はあの子だよ、気づいて」と、激しく叫んでいた。
その強い探求の視線が、凪には「冷たい探求心」のように映ってしまったのかもしれない。凪の身体がさらに硬直する。
「よろしくお願いします」
葉月は深く頭を下げた。そして、顔を上げたその一瞬。
焦燥感のせいで、口元の筋肉がわずかに引き攣った。本当にコンマ数秒、唇の端が震え、口角のわずか外側にある、光の加減でしか見えないはずの「一本の微かな縫い目の痕」が、窓からの光を弾いて剥き出しになった。
(あっ――見られた!?)
凪の視力が、その瞬間だけ異常なまでに鋭敏になったのが分かった。彼の目が見開かれ、呼吸が止まる。
さらに、担任に向き直りながら、次の言葉を繋げようとした時、葉月は最大のミスを犯してしまう。
「写真部に興味があります」
凪を意識するあまり、のどに余計な力が入り、あれほど毎晩レコーダーで矯正し続けていた「サ」行の発音の網の目が、一瞬だけ破れた。
「サ……」
声の奥底。上顎の奥の瘢痕の隙間から、ほんのわずかに、湿った空気が鼻へと抜ける。
「ス……」
それは、一般の人なら誰も気づかない、機械の露出計でも捉えられないほどの微細な息の抜け方だった。
しかし、それは幼い頃、あの白いリハビリ室で、二人がお互いに流し合っていた、世界で一番耳馴染みのある「不完全な音」そのものだった。
凪の目元が、衝撃で完全に凍りついた。彼の胸元が、ドクンと大きく波打つのが、隣の距離にいる葉月にはっきりと見えた。
(気づいた……。凪くん、気づいてくれたんだね)
凪の目の奥に、深い混乱と、それ以上の凄まじい恐怖が去来しているのがわかる。
なぜ、彼女はそれを隠し、あんなにも太陽の下で笑っていられるのだろうか。
そして、もしかして、彼女はあの時の――。
担任の指示に従い、葉月は一番後ろの、凪のすぐ隣の席へと歩き出した。
すれ違うクラスメイトたちの好意的な視線を、今の葉月は一ミリも認識していなかった。
ただ、隣の席で、心臓を鼓膜の奥で激しく鳴らしながら、自分を凝視している少年の気配だけが、世界のすべてだった。
(そうだよ、凪くん。私はあの時のプレイルームの女の子。私は、あなたに追いつくために、この完璧な仮面を作ったの。驚かせて、怖がらせてごめんなさい。でも……放課後、あの誰も来ない写真部室で、二人の本当の音を響かせよう。私は、絶対にあなたを一人にしないから)
隣の席に静かに鞄を置き、葉月はマスクの奥で怯える少年に向けて、心の中で優しく、果てしない決意を込めて語りかけた。
完璧な仮面を被った少女の、これが、世界で一番苛烈で、切ない恋の幕開けだった。
『完璧な仮面の裏側で』 了
よろしくお願いします。




