番外編【1】ː『暗室の小さなファインダー』
六時間目のチャイムが鳴り響く教室は、ひどく騒がしかった。机を引きずる音、教科書を閉じる音、そして、意味のない笑い声。
水川凪は、それらの喧騒から自らを切り離すように、一番後ろの窓際の席で身を縮めていた。
顔の下半分を覆う白い不織布のマスク。それが、凪にとっての唯一の砦であり、同時に彼を世界から閉じ込める檻だった。
中学二年生の秋。周囲の少年たちの声が低く、大人びていく中で、凪の声だけは置いてきぼりにされたままだった。口蓋の瘻孔――上顎に開いた小さな穴のせいで、言葉を発しようとすると、どうしても鼻から「すう、すう」と、間の抜けた空気の漏れる音が混じる。
「おい、水川。次の英語、ペアワークだってよ。お前、どっちやる?」
前の席の男子生徒が、軽い調子で振り返った。悪意はない。ただの事務的な問いかけだ。しかし、凪にとっては、それが鋭利な刃物のように突き刺さる。
凪はビクリと肩を揺らし、のどを鳴らした。何か答えなければならない。頭の中で「僕が、先をやるよ」という短い日本語を組み立てる。しかし、それを口から外に出すための勇気が、どうしても足りない。
「あ……、う……」
マスクの隙間から、湿った空気の漏れる音が漏れた。前の席の男子が、わずかに眉をひそめる。その一瞬の、本当に一ミリに満たないような表情の変化を、凪の過剰な自意識は見逃さなかった。
(また、変な音がしたと思われた。笑われる。憐れまれる。だったら――)
胸がバクバクと激しく脈打つ。凪はそれ以上言葉を重ねることを諦め、ただコクコクと小さく首を振って、教科書のダイアログを指差した。
「あ、じゃあ俺が先に読むわ。お前、聞いてて」
男子生徒はすぐに興味を失ったように教科書に目を落とした。凪は深く息を吐き出し、机の下で爪が手のひらに食い込むほど拳を握りしめた。
「……すま、ない」
男子生徒の音読にかき消されるほどの小さな声で、凪は呟いた。マスクの布地が、自分の吐き出した息で惨めなほど湿っていくのを感じる。
声を出さなければ、傷つかずに済む。マスクを外さなければ、人中に残る、あの歪んだ赤紫色の縫合痕を見られずに済む。
いつからか、凪は教室での完全な「無」になることを選んだ。話しかけられても首を振るだけ。給食の時間は、誰よりも早くパンを口に押し込むか、あるいは体調不良を装って保健室へ逃げ込んだ。
世界は、完璧で、滑らかな言葉で満ち溢れている。そこには、空気の漏れる不格好な声も、歪んだ唇の少年も、居場所なんてどこにもないのだと、凪は本気で信じていた。窓の外、うろこ雲が広がる高い秋の空を、凪はただ、言葉を失った目で見つめ返すことしかできなかった。
家に帰っても、凪の沈黙は続いた。
夕食のテーブル。母親が穏やかに学校の様子を尋ねてきても、凪は「うん」とも「すん」とも言わず、ただ小さく頷くだけだった。母親の顔に、微かな、しかし隠しきれない曇りが生じる。それを見るのも、凪にとっては苦痛だった。自分の存在そのものが、家族に影を落としているような気がしてならなかった。
「凪、ちょっと書斎に来なさい」
夕食後、いつもは寡黙な父親が、珍しく凪を呼び止めた。
父親の書斎は、古い本と、少しカビ臭い紙の匂いが満ちていた。凪が部屋の真ん中で立ち尽くしていると、父親は机の深い引き出しから、ずっしりとした黒い革のケースを取り出した。
「これを、お前にやる」
机の上に置かれたのは、ケースから剥き出しにされた、銀と黒の金属製の塊だった。プラスチック製の現代の家電とは明らかに違う、冷たく、頑丈な、機械の塊。
それは、昭和の時代に作られたマニュアルフォーカスの一眼レフカメラ――『Olympus OM-1』だった。
「お父さんが、学生の頃に使っていたやつだ。機械式だからな、電池がなくてもシャッターは切れる。ずっと手入れだけはしていたが、もう私には重くてな」
凪は、その金属の塊を黙って見つめた。レンズの奥には、何枚ものガラスが重なり、深い緑色のコーティング光を反射している。
「これ……、カメラ?」
驚きのあまり、凪の口から自然と言葉がこぼれた。小さく空気は漏れたが、父親は眉一つ動かさず、ただ穏やかに微笑んだ。
「そうだ。言葉が上手く出ないなら、無理に話さなくてもいい」
父親は、凪の頭にそっと手を置いた。その手のひらは大きくて、温かかった。
「だが、お前が世界をどう見ているのか、何を感じているのか、それを全部心の奥に閉じ込めてしまうのは、もったいない。カメラはな、言葉の代わりに、お前の目を引き受けてくれる道具だ。……そういえば、お前が昔、まだ小さかった頃に病院の待合室で一緒に絵を描いてあげた、あの口元に同じ傷のあった女の子を覚えているか?」
「え……?」
凪の脳裏に、かすかな記憶の断片がよみがえる。泣きじゃくる自分に、不器用な笑顔を返してくれた、小さな女の子の姿。
「あの子の親御さんとこの前、偶然連絡が取れてね。あの子も今、自分の弱さと必死に戦うための『自分のやり方』を見つけて、一生懸命に頑張っているそうだ。凪、お前も戦う必要はない。ただ、お前だけの表現を見つけなさい」
凪は細い指を伸ばし、恐る恐るそのOM-1のボディに触れた。
ひやりとした金属の冷たさが、指先から神経を通って、凍りついていた胸の奥へとしみ込んでいく。ずしりと重い。その重みは、凪が日々抱えている、誰にも言えない孤独の重さに少しだけ似ている気がした。
「……僕だけの、表現」
自分の部屋に戻り、凪はベッドの上でひたすらカメラを眺めた。
電池を入れていないのに、ファインダーを覗くと向こう側の景色が見える。すべてがすりガラスのようにぼやけていた。凪が戸惑いながら、レンズの先端にあるギザギザとした金属のリング――ピントリングを回してみる。
その瞬間、凪の身体に電流が走った。
ぼやけていた自室のカーテンの模様が、突然、刃物で切り取ったかのように鮮明に浮かび上がったのだ。繊維の一本一本、そこに沈む影の濃淡までが、信じられないほどの解像度で凪の瞳に飛び込んでくる。
シャッターボタンを、指先で押し込んでみる。
――カシャ、チ、という、硬質で、小気味よい機械音が響いた。
その音は、凪の瘻孔から漏れる不格好な空気の音とは違い、完璧に噛み合った歯車が立てる、毅然とした音だった。
「すごい……綺麗だ」
誰もいない部屋で、凪はマスクを外し、指先で自分の唇の傷跡に触れた。精度高く噛み合う機械の音に守られるようにして、凪はもう一度カメラを構える。闇の中で、その硬いシャッター音だけが、凪の静かな呼吸に寄り添うように、何度も、何度も響き続けていた。
「シャッタースピードが光を入れる時間の長さで、絞り――この『F値』ってやつが、光の通り道の広さだ。露出計の針が真ん主に位置するように、この二つのダイヤルを合わせるんだぞ」
土曜日の午前中、父親から受けた最低限のレクチャーを頭の中で反芻しながら、凪はリュックサックの中にOM-1と、モノクロフィルム『富士フイルム ACROS 100』を2本忍ばせて家を出た。
向かったのは、学校の旧校舎だった。数年後には壊される予定の、今は物置代わりに使われている木造の古い建物だ。現校舎の華やかな喧騒から離れたその場所には、土曜日ということもあって誰も近寄らない。凪にとって、最も息がしやすい場所だった。
周囲に誰もいないことを確認し、凪は白いマスクを少しだけ下にずらした。ひんやりとした秋の空気が、剥き出しの唇に触れる。人目を気にする必要のない圧倒的な解放感の中で、凪はOM-1を構えた。
ファインダーを覗き、ピントリングを回す。
凪が最初にレンズを向けたのは、旧校舎の壁際、コンクリートの割れ目から力強く生い茂っている、名前も知らない雑草だった。
普通の人間なら、見向きもしない、あるいは「邪魔なもの」として処理される不完全なひび割れ。しかし、ファインダーの四角い枠に切り取られたその光景は、息をのむほど美しかった。
西日が斜めから差し込み、割れたコンクリートのエッジに白いハイライトを作っている。雑草の葉脈が、光を透かして黄金色に輝いている。
「F5.6……シャッタースピードは、1/125秒」
凪は声に出して数値を呟いた。不思議と、露出の数値を口にするときだけは、空気の漏れる音が気にならなかった。数字という絶対的な記号が、彼の声を守ってくれているような気がしたのだ。
カチ、カチ、とダイヤルを回し、ファインダー左側の小さな露出計の針が、ジャストのマークに重なるのを確認する。
息を止め、シャッターを切る。
――カシャ。
世界の一瞬が、光の粒子となって、暗いフィルムの表面に焼き付けられた。
「よし……捉えた」
それからの凪は、取り憑かれたように旧校舎のまわりを歩き回った。
窓ガラスについた雨の跡。図工室の片隅で埃を被った、鼻の欠けた石膏デッサン。階段の手すりに刻まれた、誰かの古い悪戯書き。
どれもが、完璧からは程遠い、傷ついた、あるいは忘れ去られたものばかりだった。
しかし、ファインダーを通すと、それらの「不完全さ」こそが、固有の深い影を生み出し、圧倒的な存在感を放っていることに気づく。
傷があるから、そこに影ができる。
影があるから、光がより一層、白く輝いて見える。
「僕の傷も……このカメラを通したら、どう見えるんだろう」
ぽつりと溢れた言葉は、風に溶けて消えた。しかし、凪の心には、自分が世界を肯定しているような、不思議な高揚感が芽生えていた。
言葉はいらなかった。声を出して他人に説明する必要なんて、どこにもない。この四角いファインダーの中だけは、凪が支配する、凪だけの静寂の世界だった。そこでは、発音の美しさも、顔の形も関係ない。ただ、光と影をどう捉えるか、それだけがすべてだった。
2本のフィルムをすべて巻き上げ終えたとき、夕日はすっかり沈み、世界は紫色の薄明に包まれていた。凪はカメラを愛おしそうに胸に抱きしめた。冷たかった金属の塊は、いつの間にか、凪の体温でじんわりと温まっていた。
日曜日、凪は父親とともに、自宅の使われていない納戸にこもっていた。
窓を遮光シートで完全に覆い、隙間を黒い粘着テープで塞ぐ。部屋の明かりを消すと、そこは完全な漆黒になった。
「匂いがきついから、無理をするなよ。気分が悪くなったらすぐに言いなさい」
父親が暗室電球のスイッチを入れると、部屋が怪しげな、しかしどこか幻想的な赤い光で満たされる。と同時に、鼻を突く独特の匂いが凪の嗅覚を刺激した。これからの作業で使う印画紙用の現像液――どこか酸っぱくて、金属的な、ツンとした薬品の匂いだ。
「大丈夫、これくらい……。なんだか、理科の実験室みたいだね」
凪は少しだけ声を弾ませた。この赤い光の暗室という閉ざされた空間は、まるで自分の「マスクの奥の隠れ家」のようで、妙に落ち着くのだった。
父親の指導のもと、前日に現像タンクでの薬液処理をすべて済ませ、完全に乾燥させておいたネガフィルムを、引き伸ばし機のキャリアにセットする。現像液、停止液、定着液。三つのプラスチックバットが、赤い光の中で鈍く液体を湛えて揺れている。
引き伸ばし機のスイッチを入れると、四角い光が遮光板の上の白い印画紙に数秒間だけ照射された。ジーというタイマーの音が消えても、紙の上には何も見えない。ただの真っ白な、味気ない四角い紙だ。
「さあ、ここからがお前の仕事だ。印画紙を現像液に入れなさい」
「うん……やってみる」
凪は竹製のピンセットで印画紙の端をそっと挟み、透明な現像液の中に静かに沈めた。
バットをゆっくりと前後に揺らす。薬品の酸っぱい匂いが、さらに強く立ち上る。現像液に浸った印画紙の表面は、ぬるぬるとした独特の触感に変わっていく。
ゆらゆらと液体が揺れる。凪は生唾を飲み込み、バットの中を凝視した。
最初の一分間は、何も起きなかった。やはり露出が狂っていたのだろうか、と不安が凪の胸をよぎる。
「お父さん、何も出てこないよ……失敗、したのかな」
「慌てるな、凪。光はちゃんと紙の中に眠っている。待つんだ」
父親の静かな声に導かれるように、さらに数秒が経った頃。
白い紙の表面に、微かな灰色の影が、じわじわと、底の方から滲むように浮かび上がってきた。
「……あ! 出てきた、出てきたよ!」
凪の口から、弾んだ声が漏れた。今度は、空気の漏れる音を気にする余裕さえなかった。
影は急速に濃さを増し、緻密な線となり、立体的な形となっていく。
それは、あの旧校舎の裏で撮った、コンクリートのひび割れと雑草の写真だった。
赤い光の中で見るモノクロームの世界は、現実よりもずっと、剥き出しの真実に満ちていた。
不格好に引き裂かれたコンクリートの傷跡が、深い, 深い漆黒の影となって紙の上に定着している。そして、その傷跡から這い出た雑草の葉が、鋭い、まばゆいばかりの白として、闇を切り裂くように主張していた。
(これは……僕だ)
凪は、直感的にそう思った。胸の奥が熱くなり、のどの奥が震える。
「お父さん、これ……僕の傷と同じだ」
「ん?」
「この、ひび割れたコンクリート。僕の口の中の穴とか、顔の傷みたいに見える。でも……すごく、かっこいい。汚くなんて、ない。綺麗だ」
言葉が、溢れて止まらなかった。鼻から抜ける空気の音さえも、今の凪にとっては、この写真が持つ「不完全なエッジ」と同じ、自分だけの固有のディテールのように思えた。
「そうだ。いい写真だ、凪」
父親が、凪の肩を強く、優しく叩いた。
「お前には、他の人には見えない世界の見え方がある。それは、誰にも奪えないお前だけの強さだ」
ピンセットで写真を停止液に移し、酸っぱい酢酸の匂いで現像を止め、最後に定着液に浸す。水洗いをして、部屋の本来の明かりをつけたとき、凪の目の前には、自分が切り取った「世界の不完全な美しさ」が、明確な、動かしようのない事実として存在していた。
「……ありがとう、お父さん。僕、もっとたくさん撮りたい」
現像されたばかりの、まだ濡れている写真をじっと見つめながら、凪は言った。
涙が、一滴だけ、写真の表面にぽたりと落ちて、水滴となって弾けた。
それは悲しい涙ではなかった。ようやく、ありのままの自分で呼吸をしていい場所を、この世界に見つけたような、深い、深い安堵の涙だった。
翌月曜日。凪はいつも通り、白いマスクを身につけて登校した。
相変わらず教室は騒がしく、クラスメイトたちは他愛のないお喋りに興じている。しかし、その喧騒を見つめる凪の胸の中は、先週までの絶望とは決定的に違っていた。
制服のポケットの中には、あの雑草のモノクロ写真が、小さく折り畳まれて入っている。
指先でその紙の感触を確かめるたび、凪の心には、あの暗室の赤い光と、OM-1が立てた毅然としたシャッター音が、確かな誇りとして蘇るのだった。
「僕は、僕のままでいい」
窓の外、どこまでも続く秋の青空に向かって、少年はマスクの奥で、本当に久しぶりに、誰にも隠さない小さな微笑みを浮かべたのだった。
暗室の小さなファインダー【了】
よろしくお願いします。




