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ガラスの聲を抱きしめて【完結済み〔全22話構成〕】  作者: 宮本Bさん
一章 ガラスの声を抱きしめて
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第22話:余談〔傷跡と、日常の温もり〕

 写真展から数年後。凪と葉月は、静かな緑道に面した古いアパートの一室で、新しい生活を始めていた。二人は籍を入れ、葉月は姓を水川に変えた。


 部屋は、凪が世界を旅して集めたアンティークの家具と、葉月が病院の患者から受け取った小さな手紙や感謝の品で満たされている。壁には、もちろん凪が撮影した膨大な量の写真が飾られているが、その中でも一番目立つのは、京都の千本鳥居の前で、屈託なく笑う葉月のポートレートだった。


 凪は、午前中は自宅兼スタジオで現像や編集作業を行い、午後は葉月が働く大学病院の近くのカフェで待つことが多い。葉月が医療ソーシャルワーカーとして働く病院では、顎変形症や口唇口蓋裂を持つ患者の支援も行っている。彼女の言葉は、かつての自分と同じ苦悩を抱える人々にとって、何よりも説得力のある光となっていた。


 ある日の夕食後。二人は畳の上に座卓を置いて、のんびりと過ごしていた。葉月は、今日の会議で話した、重い病を抱えた若い母親の話を、凪に聞かせていた。


「ねえ、凪。その方、自分が病気であることよりも、病気が子供に遺伝するんじゃないかって、ずっと怯えているの。彼女にとっての『傷』は、自分の肉体じゃなくて、未来の不安なのよね」


 葉月は、そう言いながら、無意識に自分の口元に触れた。顎矯正手術を受けて数年が経ち、口元のラインは整った。しかし、右の唇の端に残る、薄いながらも確かな縫合線は、彼女の戦いの歴史を静かに物語っている。それは、彼女が最も愛する部分の一つとなっていた。


 凪は、座卓に置かれた湯呑みを手に取り、そっと葉月の方へ差し出した。中に入っているのは、いつもの煎茶ではなく、梅昆布茶だった。


「おまじない、いるか?」


 凪の目には、冗談半分、本気半分の優しさが宿っていた。


 葉月はクスリと笑った。それは、かつての「完璧な笑顔」ではなく、親愛と受容に満ちた、人間らしい、少し崩れた笑顔だった。


「いらないよ。もう、あの頃みたいに泣いたりしない。私の中にいる『完璧を求める私』は、もう大人になったから」


「そうか」



 凪はそう言いながら、自分のお茶を一口飲む。


「……でも、やっぱり、いる」


 凪は一瞬驚いたが、すぐに微笑み、そっと湯呑みを置いた。彼は葉月の顔を両手で包み込み、そして、数年前の京都の旅館の朝と同じように、ゆっくりと唇を重ねた。


 梅昆布茶の塩気と、昆布の旨味、そして二人の唾液が混ざり合う。一分弱の、長くて短い時間。


 唇が離れると、葉月は目を潤ませていたが、それはもう不安の涙ではない。それは、深い安心感と、愛されているという確信からくるものだった。


「これで、明日も頑張れる」


葉月はそう言って、凪の胸に顔を埋めた。


 凪は、葉月の柔らかな髪を撫でながら、静かに語り始めた。


「僕たちの旅は、『治す旅』じゃなくて、『見つける旅』だったんだと思う。治らなければ価値がないと思っていたものが、実は世界で最も美しいものだと、僕たちは写真を通して知った」


 凪の視線の先には、壁に飾られた、世界各地の傷を持った人々のポートレートがあった。そして、その視線は、再び葉月へと戻る。


「葉月。君は、僕の最初の『Imperfect Beauty(不完全な美)』だった。君の唇に残るあの小さな傷跡が、僕のレンズのフォーカスを、世界で最も大切な場所に合わせたんだ」


 彼の声は、低く、しかし感情豊かに響いた。顎矯正手術で改善された滑舌は、彼の物語を語る上で、今は最高のツールとなっていた。かつての「空気漏れ」は、今は心地よい「凪の音」となって、葉月の耳を満たす。


 葉月は顔を上げ、凪の口元にそっと触れた。彼の顎の骨は、冬のあの大手術で切り、動かされ、再構築されている。見た目は完璧に整っていたが、その奥にはチタンのプレートが彼の顎を支えていることを知っていた。


「そして、凪のこの声が、私の最高の『医療ソーシャルワーカー』なのよ。あなたの声を聞くと、患者さんたちに言える気がする。『大丈夫。私たちだって、生きている証を愛しているから』って」


 二人は微笑み合った。彼らの物語は、口唇口蓋裂という共通の傷から始まり、自己受容という、普遍的で最もロマンチックな結末を迎えた。彼らの身体に残る目に見える傷跡も、心に刻まれた見えない苦悩も、今や二人の愛と、他者への共感を生み出す、かけがえのない「価値」へと昇華されていた。


 夜風が窓を叩く。


二人の日常は、今日も静かに、そして温かい光に包まれていた。傷を隠す必要のない世界で、二人はこれからも、隣り合わせで生きていく。


【完】


完結しました。


これからは、凪たちのこれから、過去編、番外編を書いていきます。



よろしくお願いします(*- -)(*_ _)ペコリ

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