表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
34/34

第7話:十七歳の四月、雨のノイズが消えるカフェで

 四月の雨は、いつも世界のノイズを半分くらい吸い込んでくれるから好きだった。

 アスファルトを叩く無数の水滴の音は、街を行き交う人々のひそひそ話や、どこか冷ややかな好奇の視線を綺麗に掻き消して、世界をただの単純な背景へと変えてくれる。

 十七歳になったばかりの水川凪は、都心から少し外れた静かな路地裏にあるカフェの、一番奥の席に腰を下ろしていた。そこは古い建物を改装した隠れ家のような場所で、コンクリート打ち放しの無機質な壁に、控えめな電球色のダウンライトが微かな陰影を落としている。


 凪は、テーブルの端に置いた型落ちの機械式フィルムカメラに視線を落とした。

 金属の冷たい質感を指先でなぞりながら、自分の少し鼻に抜ける開鼻声の響きを確かめるように、小さく息を吐く。

 高校の昇降口で、周囲の容赦のない視線に背中を刺されながらも、初めて二人で不織布のマスクを外したあの朝から、僕たちの世界は少しずつ、けれど確実に変わり始めていた。世界が押し付ける「普通」や「完璧さ」という名の息苦しいルールを拒み、お互いの傷を隠すのではなく、鏡のように映し合って歩み出そうと決めたあの放課後。まだお互いの境界線も曖昧なまま、不器用な痛みを共有していた、そんな鮮烈な季節の真っただ中に、僕らはいた。


「お待たせ、凪。雨、少し強くなってきたね」


 聞き慣れた、けれどまだどこか少しだけ空気が漏れるような、愛おしい響き。

 カフェの重い木製のドアに付けられた小さな鈴が、チリンと可憐な音を立てて鳴る。傘を畳みながら入ってきた遠野葉月は、肩のラインで綺麗に切り揃えられた黒髪のボブカットを少し雨の湿気で揺らしながら、凪の正面の席へと滑り込んだ。


 彼女が席に着いた瞬間、店内の柔らかなダウンライトの光が、その横顔を優しく照らし出す。

 葉月の右の唇の端から人中にかけて走る、一本の繊細な白い手術痕。それが一筋の誇り高い線のように、暗がりのなかに浮かび上がっていた。まだこれから先、いくつもの試練や大手術を控えた不完全な身体のまま、彼女はこの世界と地べたを這いずるようにして闘うための、瑞々しくも鋭い輪郭をそこに宿していた。


「ううん、僕も今着いたところだから。服、濡れてない? 寒くはない?」


「大丈夫。駅からのんびり、雨の音を聴きながら歩いてきちゃった」


 葉月は大きな瞳を優しく綻ばせ、少しはにかむようにして微笑んだ。まだ噛み合わせも発音も完璧ではないその口元が、凪にとってはどんな完璧な美術品よりも愛おしかった。


 やがて、控えめな足音とともに、注文していたアールグレイの紅茶と、二人の前に小さなイチゴのショートケーキが運ばれてきた。

 お洒落な白い陶器の皿の上で、絵に描いたように完璧に整えられたケーキの形は、どこかこの世界が僕らに強要してくる「普通に生きろ」という無言のプレッシャーのようにも見えた。けれど、二人がそれを小さなティースプーンで崩し、口に運ぶとき、そこには世界を拒絶した二人だけの、確かな現実の甘さが広がっていく。


「凪、十七歳の誕生日、おめでとう」


 葉月は温かい紅茶のカップをそっとテーブルに置くと、自身のトートバッグの奥から、丁寧にラッピングされた小さな四角いパッケージを取り出した。それは彼女が自分のために、一生懸命に言葉と言葉の間を縫うようにして選んでくれたものだった。


「これ、私からのプレゼント。……その、今の凪に一番似合うと思って、一生懸命探したんだ」


 葉月は少し恥ずかしそうに、けれど真っ直ぐな視線でパッケージを凪の前に差し出した。


「え……ありがとう、葉月。開けてもいい?」


「うん、もちろん。気に入ってもらえるといいんだけど……」


 凪は、自分の少しだけ震える指先で、丁寧に結ばれたリボンを解き、静かに包装紙を剥がしていった。

 中から現れたのは、上質な黒い革製のカメラストラップだった。ブランド物のきらびやかなロゴや派手な装飾は一切なく、ただ愚直なまでにシンプルで、けれどこれから何度も使い込むほどに持ち主の手や首筋に馴染んでいくであろう、独特の力強い無骨さを持っていた。


「あ……」


「凪の持っているそのカメラ、いつも首から下げる紐が細くて、擦れて痛そうだったから。革のものなら、これから凪がたくさんの景色を撮っていくうちに、どんどん凪だけの形になっていくかなって……変かな?」


 葉月は凪の反応を伺うように、少し不安そうに右の口元をそっと指先で確かめるように触りながら、凪の顔を覗き込んできた。彼女が不安なときに見せるその愛おしい癖を、凪は見逃さなかった。


「そんなことない。すごく嬉しいよ、葉月。本当に……ありがとう」


 凪は自分の鼻にかかった固有の声で、心の底からの喜びを込めて彼女を見つめ返した。その声のノイズさえ、この空間では二人を繋ぐ心地よいメロディだった。


「僕、これからもたくさんの写真を撮るよ。でもね、このストラップを最初につけて撮る写真は、もう決まってるんだ」


 凪は使い古されたナイロン製の細いストラップを手早く外し、葉月がくれた新しい黒革のストラップをカメラの金属の金具へと通した。カチリ、カチリ、と硬質な音が、雨の降る静かなカフェの片隅に小さく響き渡る。

 新しいストラップをしっかりと装着したカメラを持ち上げ、凪は慣れ親しんだ動作でファインダーを覗いた。


 フォーカスリングをゆっくりと回す。ファインダーの向こう側の世界が、じわじわと鮮明な輪郭を取り戻していく。

 レンズの向こうで、少し照れくさそうに、けれど最高に誇らしく自らの傷跡を綻ばせている葉月のプロファイル。凪はその美しさに吸い込まれるように、ピントをぴったりと合わせた。


「あ、また撮るんだね、凪くん」


 葉月はクスッと笑い、今度は「凪くん」と、少しだけ甘えるような、けれど絶対的な信頼を込めた響きで彼の名前を呼んだ。


「うん。今の葉月が、世界で一番綺麗だから。撮らないわけにはいかないよ」


 カシャリ、と静かで、けれど確かな金属のシャッター音が、雨のカフェの静寂に優しく溶けていった。

 完璧に整った世界なんて、僕らには必要ない。この不完全な開鼻声と、剥き出しの傷跡を抱えたまま、二人の泥臭くも美しい旅路は、十七歳の四月の雨の中で、静かに、けれど確かに始まっていた。


よろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ