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ガラスの聲を抱きしめて【完結済み〔全22話構成〕】  作者: 宮本Bさん
一章 ガラスの声を抱きしめて
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第18話:新しい顔と、心に残された空虚の穴。

 手術から数日。季節は年明けを迎え、病室の窓からは眩しいほどの晴天の光が差し込んでいた。空は深く澄み渡り、雪解けを思わせる冷たく清冽な空気が病室を満たしていた。


 凪は、葉月の病室にいた。ここは、彼女がクリスマス・イブの夜に消えていった、白い世界の奥だ。 葉月は、白いシーツにくるまれ、ベッドに横たわっていた。その顔は、術後の強烈な腫れと、ワイヤーによる固定のために、以前の面影をほとんど残していなかった。頬や顎はパンパンに腫れ上がり、まるで別人だ。 しかし、腫れが引く前の、その変化の初期段階においてすら、凪には、ある決定的な変化を見て取ることができた。顎の位置。口元の傾き。そして、唇を閉じたときの、以前よりも自然な静的な形態。


 外見的には、葉月は大きく変化し、「完璧」に近づいていた。 術前の、僅かに下顎が後退していたプロファイルは修正され、まるで精密なデッサン画のように整っている。ワイヤーが露出した口元は痛々しいものの、その骨格の構造は、彼女が長年求めてきた「普通」に、確実に近づいていた。


 だが、葉月の内面は、その外見の変化とは裏腹に、極めて脆いままだった。 麻酔から覚めた直後の激しい痛みと、全身の消耗。そして、まだ腫れで見えない自分の「新しい顔」への、期待と恐怖が入り混じった精神状態。彼女の瞳は、疲弊しきっていながらも、わずかな光を求めてさまよっていた。



「遠野さん、痛みはどうですか。夜は眠れましたか」


  医師は直接、葉月の目を覗き込みながら尋ねた。その視線は、患者の全身状態を総合的に把握しようとする、鋭いものだった。


「少し……鎮痛剤が効いているので、耐えられます。夜も、少しずつですが眠れるようになりました」


 葉月は、口をほとんど開かずに、掠れた声で答えた。彼女の口は、ル・フォーI型骨切り術後の骨を固定するために埋め込まれたプレートとスクリュー、そして顎間を固定するワイヤーによって、上下をしっかりと拘束されていた。言葉を発するたびに、口元の筋肉が微かに動き、痛みが伴っているのが凪には見て取れた。


 医師は、葉月の顔の腫れを慎重に観察し、触診した。触診は優しく、しかし確実に腫脹の程度と皮膚温を確認していた。



「術後72時間を過ぎました。腫れのピークは概ね過ぎましたね。炎症反応としては正常な経過です。しかし、これから一週間程度は、この著しい状態が続きます。頬部から頸部にかけての皮下出血(内出血)も、時間の経過とともに黄色く変色し、徐々に吸収されます。血液が分解され、組織に再吸収されている過程ですので、心配ありません」


「痛み止めは我慢せず、指示通り、時間通りに使用してください。疼痛コントロールは順調に進める必要があります。食事は引き続き流動食のみ。水分は脱水を防ぐため、しっかりとってください。特にワイヤー固定のため、嚥下えんげに集中力が必要となりますが、脱水は術後回復を遅らせます」


 基本的な診察と指示を終えると、医師は持参したタブレットを取り出した。画面には、手術直後に撮られた葉月の頭部X線写真、セファログラムのデジタル画像が映し出されていた。


「凪くんもこちらへ」


 医師は、壁際に立っていた凪を手招きした。凪は葉月の横に進み出る。葉月の両親が見守る中、医師は画像を示す。


「これが術直後の状態です。上顎骨マキシラは、計画通り、水平に切り離され、前方に正確に移動しました。移動距離は、縦軸方向に対して水平方向に五・五ミリメートルと、術前の三次元シミュレーションとほぼ一致しています」


  医師は指で画像上の骨切り線と、プレートの配置を指し示した。その指先が示すのは、葉月の顔の骨の内部構造そのものだった。


「ル・フォーI型骨切り術のラインは、鼻腔の底と歯根の健全性を確保するため、綿密に計算された安全な位置で精密に実行されています。骨片は、四枚のチタン製プレートと多数のスクリューによって、強固に、そして確実に固定されています。この強固な固定が、骨癒合を確実に進めるための鍵となります」


 彼は画像をスライドさせた。今度は、下顎骨の画像が中心に映し出される。レントゲン上、下顎の骨はまるでパズルのピースのように分割され、再構成されていた。


「そして、下顎の下顎枝矢状分割術(SSRO)です。下顎の関節突起コンダイルと歯槽部を含む骨を縦に二分割し、正確な咬合が得られる新しい位置で再固定しました。下顎骨体部もわずかに後方に移動しており、これによって、顎関節(TMJ)に対する下顎骨の位置も、術前シミュレーション通りに適切に調整されています」



 モニターに映る葉月の頭蓋骨のレントゲン画像には、複雑な金属プレートとスクリューの影が、まるで精密機械の部品のように確認できた。骨格は、外科的な力によって、物理的に、再構築されていた。


「手術前のシミュレーション通り、上下顎の咬合は完璧に一致しています。理想的なII級咬合(いわゆる出っ歯や上顎前突の傾向)から、正常なI級咬合が得られました。これは、今後の発音機能、嚥下機能、そして咀嚼能力の改善に直結する、最も重要な成果です。ル・フォーI型骨切り術のライン、そしてSSROの骨切りラインも正確です」


  医師は、レントゲン上のプレートとスクリューの影を指し示しながら、その医学的な重要性と、手術の成功度を説明し続けた。


「このチタン製のプレートとスクリューが、動かした骨をリジッド・フィクセーション(強固な固定)で固定しています。骨はこれから、まず血餅から仮骨が形成され、その後、数カ月をかけて強固に癒合していきます。この癒合期間が非常に重要です。これが、葉月さんの新しい顔の構造と機能の土台となるわけです。プレートは通常、骨の安定化後の一年ほどで除去手術を行いますが、それまではこの状態を維持します」


 医師の言葉は、医学的な成功を淡々と示すものだった。それは、外科医として、完璧に職務を遂行し、患者の構造的な問題を見事に解決したという報告に過ぎない。しかし、凪には、それは「破壊と創造」の冷徹な工程図のように見えた。彼女の長年の苦悩と、自ら運命を選択した覚悟が、この冷たい金属と骨の結合によって、新しい形として刻み込まれている。彼女が自ら選んだ、自己変革の証明だった。


 説明が終わると、医師の目は再び臨床的な部分、すなわち術後の合併症のチェックへと移った。最も懸念されていた、不可逆的なリスクについてだ。



「神経の状態についてですが、今のところ、大きな知覚麻痺の訴えはありません。下歯槽神経麻痺、すなわち下唇から顎にかけての完全な無感覚は認められません。これは手術手技が慎重に行われた結果ですが、引き続き経過観察が必要です」


 医師は葉月の口元を指差した。


「しかし、唇や顎の皮膚の鈍麻、『知覚鈍麻』は、しばらく続きます。これは、骨移動に伴う下歯槽神経への牽引や圧迫によるものです。手術の精度に関わらず、骨を動かした以上、避けられない一時的な症状です。患者さんの自覚症状としては、お湯や食事の熱さを感じにくい、あるいは触覚が鈍い、といったものです。痺れや鈍い感覚は、神経の再生速度に依存するため、数カ月単位で続く可能性があります。焦らず、感覚が戻るのを待つことになります。リハビリも焦らず、感覚の回復を促す方向で進めます」


 凪は、葉月の顔を見た。腫れてはいるが、彼女の唇は以前よりも、遥かに整ったラインを描いている。口元の傾きが修正され、口角がわずかに上向きに見える。だが、あの屋上で見た、爪で掻きむしった傷の痕は、今は包帯と腫れの下に隠れていた。彼女の内なる痛みが、外的な修正によって覆い隠されようとしているように感じられた。


 医師は、最後に鎮痛剤の点滴を確認し、今後の口腔衛生管理とリハビリテーションのスケジュールを指示した後、静かに退室した。病室には、再び凪と葉月、そして両親の、張り詰めた静寂だけが残された。


よろしくお願いします。


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