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ガラスの聲を抱きしめて【完結済み〔全22話構成〕】  作者: 宮本Bさん
一章 ガラスの声を抱きしめて
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第17話:僕の不完全な声で、君の全てを愛してる。

  病院の待合室は、冬の光を吸って白く冴えていた。壁も床も、全てが均一なアイボリーで覆われ、清潔感はあっても、生身の感情を凍てつかせるような無機質さがある。あの日、小学一年生の僕を乗せたストレッチャーが軋んだ廊下と、全く変わらない空間だった。


 僕は硬いプラスチックの椅子に座り、葉月——遠野葉月が、この数時間後に連れて行かれる手術室のドアを見つめていた。その白いドアの向こうで、彼女の顎の骨は切られ、数ミリ単位で組み直される。顎変形症を伴う口唇口蓋裂患者にとって、外見の改善と機能の確立を最終的に決定づける、最も大きく、最も恐ろしい手術だ。


 数日前から入院している葉月は、朝一番で術衣に着替え、今、最後の準備を終えて僕の前に座っていた。


「緊張しないわけ、ないよね」


 葉月がそう言って、少しだけ微笑んだ。その微笑みは、いつもの完璧な「仮面」ではない。唇の端は震え、微かな左右の非対称性が露わになっている。彼女の顔は、術前矯正のためのワイヤーが上下の歯を覆い、そのせいで口元がわずかに突出して見え、すでに痛々しい。その上に、これから何時間も続く大手術への恐怖と、未来への強い決意が、彼女の瞳の中に、炎のように揺らめいていた。


「うん……怖い、よね」僕は、率直に答えた。


 彼女は、いつか僕に言った。「完璧になるため」にこの手術を受けるのだと。その言葉は、僕が抱える「この傷を受け入れて、諦めて生きる」という生き方への、強烈な拒絶だった。だが、僕たちは秘密を共有し、互いの弱さを屋上で目撃した夜以降、その関係は「対立」ではなく「支え」に変わっていた。


 葉月は、僕が持ってきた写真集を撫でた。「これ、入院中にずっと見てるね。凪くんが撮った、雨上がりの水たまりの写真。あそこに映ってる光が、今の私には一番綺麗に見える」


 僕はその言葉に、胸が締め付けられるのを感じた。僕の写真は、葉月の言う通り、「世界に聞かせたくても聞かせられない、誰かの声」の代わりに撮ったものだ。そして今、彼女は、自分の声も顔も、全てを変えようとしている。



 看護師さんがやってきて、葉月の腕に点滴の針を刺した。静脈に針が刺さる時のチクリとした痛みは、僕の小学校の時の記憶を呼び覚ます。術後、水も飲めない絶望の中で、栄養と水分を運んでくれた点滴。それは、僕たちから自由を奪い、病院という檻につなぎとめる鎖でもあった。


 点滴が始まると、葉月の顔色は一気に悪くなった。彼女はぎゅっと目をつぶり、自分の手の甲を見つめている。そこに、幼い頃からの注射や採血、点滴の痕が、幾筋もの歴史のように残っていることを、僕は知っていた。


「葉月さん、時間です」


 看護師の声が、静かな待合室に響いた。まるで、物語の重要な幕が上がる合図のように。


 葉月は立ち上がった。その足取りは重いが、瞳の炎はさらに激しさを増している。彼女は僕の前に立ち、深く息を吸い込んだ。


「ねえ、凪くん」


 彼女の声は、微かに鼻にかかり、少し震えていた。この声こそが、僕だけが聞き取れる「空気漏れの音」だ。彼女が完璧な仮面を被っていない、ありのままの葉月の声。


「私、これで変わるよ。今度こそ、誰にもバレない、完璧な声と顔を手に入れる。そしたら…そしたら、私は本当に、凪くんの隣にいても恥ずかしくない人間になれるかな」


 その言葉は、僕の胸を深く抉った。彼女の「完璧さ」への執着は、僕が彼女に再び会うに値する人間であるために、払っている愛の代償だったのだ。僕の「諦め」が、彼女をここまで追い詰めていた。


「葉月、違う」


 僕は反射的に立ち上がり、彼女の頬に触れた。ワイヤーのせいで張っている頬、その輪郭。幼い頃、口蓋の手術を終えた僕の頬に触れた時の、まだ熱を持ったような違和感が、僕の手のひらに蘇る。


 僕がそっと触れると、葉月は耐えきれなくなったように、涙を流した。完璧を目指す彼女が、人前で涙を見せるのは初めてだった。



 僕の喉の奥から、言葉がせり上がってきた。それは、かつて僕が最も憎み、隠し、抑圧してきた、僕自身の声だった。微かに鼻にかかり、時々子音の響きが不明瞭になる、僕の「ガラスの声」。


「葉月。君は、すでに完璧だよ」


 僕の声は、待合室の静寂を切り裂いた。その響きは、いつもより少し低く、そして、確かな意志を持っていた。これまで、僕は自分の声が、誰かの耳に届くことを恐れて、常に無難で平坦な話し方を選んできた。けれど今、僕の心は、自分の声が持つ不完全な音色を、最大限に利用しようとしていた。


「君は、僕が一番なりたいと願った人間だよ。あの時の、隣のベッドの少女が、こんなにも強く、まっすぐに僕を追ってきてくれた。自分の弱さと、世間の目と、そして痛みを、何度も何度も乗り越えて、ここまで来た」


 僕は、葉月の泣き腫らした瞳を見つめ、続けた。


「君が完璧を目指したのは、僕のためだって言ってくれたけど、違う。君は、この手術で外見がどれだけ変わっても、僕の隣にいるのに、少しも恥ずかしくない。僕が君を好きになったのは、君が完璧な笑顔を見せた時じゃない」


 僕は、手を葉月の頬から、そっと彼女の口元の傷跡に滑らせた。それは、微かだが、光の加減で確認できる、彼女の人生の勲章だった。



「僕と同じ恐怖、僕と同じ痛みを持ちながら、逃げずに戦っている。その努力の跡こそが、僕にとって、世界で一番美しいものなんだ」


 僕の言葉の途中で、僕の声は、何度か鼻に抜ける音を出した。しかし、もう構わない。これは、僕の魂が、隠すことなく発した真実の声だ。


「この手術で、君がより楽に生きられるなら、僕は心から応援する。でも、君が『完璧』になろうと努力する前の君も、僕は肯定する」


 そして、僕は、今まで一度も口に出すことのできなかった、最も大切な言葉を、自分の不完全な声に乗せて伝えた。


「葉月。僕は、君の全てを、肯定する。君の傷跡も、その声も、全て含めて」



 葉月は、僕の声を聞いて、嗚咽を漏らした。それは、苦しみからではなく、解放されたことによる、深い安堵の泣き声だった。


「凪くん……、そんなこと、言わないでよ……」


 葉月は、僕の手を掴み、自分の唇に押し当てた。その手が、冷たく震えていた。


「怖いんだ。手術が成功して、もし私が完璧になったら、君が愛してくれた不完全な私が消えてしまうんじゃないかって……。でも、手術しないと、このままじゃ、私は……ずっと君に嘘をつき続けることになる」


「大丈夫だよ」僕は、彼女の手を握り返し、力を込めた。


「君がどこまで変わろうと、君の魂の強さは変わらない。君が抱えてきた努力の歴史は消えない。その歴史を、僕は知っている。だから、心配しないで。行ってらっしゃい」


 僕は、かつて僕が麻酔の匂いを嗅いだ時と同じように、深く、甘い、消毒液と薬の混ざった匂いを感じた。それは、恐怖の匂いであると同時に、新しい始まりの匂いだった。


 葉月は、最後に力強く、僕の目を覗き込んだ。その瞳の奥の炎は、もう恐怖だけではない。愛と、自己解放への希望が燃え上がっていた。


「じゃあ……行ってくる。凪くん。待っていてね。私は絶対に、成功して帰ってくる。そして、帰ってきたら、君が愛した私と、完璧になった私、両方を君に見せる。待っていて」


 彼女はそう言い残すと、看護師に付き添われて、白い手術室のドアの向こうへと消えていった。


 僕は、そのドアが閉まる音を、心臓の鼓動のように感じながら、その場に立ち尽くした。僕の体の中には、自分のコンプレックスの声で、初めて愛を告白した熱が、まだ残っていた。


 白い待合室に、ただ一人。僕のマスクの下の傷跡は、もう隠すためのものではなかった。それは、僕が葉月と再会し、初めて真実の声を発した証、そして、彼女の帰りを待つための誓いの縫合線になっていた。


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