第14話:冬の手術まで。僕たちの時間が、今だけ止まる。
二学期の校舎には、目に見えない砂時計が置かれているようだった。一粒一粒、音もなく、けれど確実に落ちていく時間の砂が、生徒たちの焦燥を煽っている。夏休み前の、どこか浮足立った開放感や、祭りの後のような気だるさは霧散し、廊下の掲示板は「進路」という二文字に侵食されていた。
指定校推薦の枠、全国模試の偏差値ランキング、大学のオープンキャンパスの日程表。壁に貼られたそれらの紙切れは、未来への切符のように見えたが、凪にとっては、自分だけが読み解けない異国の言葉で書かれた暗号の羅列に過ぎなかった。
教室のあちこちで交わされる会話は、凪の耳には不協和音として届く。
「お前、文系にするか理系にするか決めた?」
「僕は東京の私大狙いだから、冬期講習申し込まないと」
彼らの視線は、五年後、十年後という、遥か彼方の地平線を見据えている。そこには希望があり、選択があり、無限の可能性が広がっているのだろう。彼らにとっての時間は、未来へ向かって真っ直ぐに伸びる滑走路だ。
だが、凪の視界は、常に足元にある「今」で手一杯だった。今日をどうやり過ごすか。他人の視線からどう身を守るか。発音の失敗をどう隠すか。それが彼にとっての「生きる」ということであり、十年後の自分など、想像の及ばない霧の向こう側にあった。
放課後、喧騒から逃れるように写真部の部室に入ると、ようやく肺の奥まで酸素が入ってくるのを感じた。
現像液特有の、鼻を突くツンとした酢酸の匂い。暗室の微かなカビの匂い。一般的には不快とされるその匂いが、凪にとっては世界との境界線を引いてくれる結界の香りであり、唯一の安息だった。ここには、彼を値踏みする視線も、未来を急かす声もない。
「みんな、すごいね」
暗室の赤いセーフライトの下ではなく、夕暮れ時の部室の窓辺で、葉月がポツリと言った。
彼女は机の上に広げられた写真を整理していた。凪が夏休みに撮った、廃墟や雨上がりの水たまりの写真だ。西日が彼女の横顔を照らし、その美しい輪郭を琥珀色に染め上げている。
しかし、その横顔には、ステンドグラスの破片のような鋭い憂いが混じっていた。彼女もまた、教室の空気に当てられ、疲弊しているのだ。
「五年後、十年後の自分を、どうしてあんなにはっきりと描けるんだろう。私には、来年の桜さえ、どんな顔をして見上げているのか想像できないのに」
葉月の言葉は、空気中に漂う塵のように、静かに、けれど重く部室に沈殿した。
彼女は優等生だ。成績も良く、教師からの信頼も厚い。周囲から見れば、彼女こそが最も輝かしい未来を約束された生徒の一人に見えるだろう。だが、その内実は、凪と同じ場所で立ち止まっている。
「……僕たちは、『今』で手一杯だから」
凪が静かに答えると、葉月は作業の手を止め、少し驚いたようにこちらを見た。それから、ふわりと、自嘲を含んだ柔らかい笑みを浮かべた。
「そうね。冬を越えること。私にとっては、そこが世界の果てみたい」
「冬」。その言葉が持つ意味は、二人にとって季節のことではない。
葉月が口を開くたび、凪の目は無意識にその口元へと吸い寄せられる。彼女の口の中には今、複雑で冷酷な金属の迷路が築かれている。冬に控えた顎矯正手術――正式名称、ル・フォーI型骨切り術および下顎枝矢状分割術――に向けた、術前矯正だ。
単に歯並びを整えるだけではない。骨を切った後、顎の位置を固定するためのフックがついた、重々しい装置。それが彼女の舌の動きを制限し、口腔内の柔らかな粘膜を常に傷つけていることを、凪は痛いほど知っていた。
彼女が微笑むたび、キラリと光る金属の冷たい光が一瞬だけ覗く。それは彼女を「完璧な美しさ」へと導くための準備であり、同時に、彼女を逃げ場のない手術台へと縛り付ける鎖でもあった。
未来の話をするクラスメイトたちの声は、ガラスの向こう側の出来事のように遠かった。ここは琥珀色の迷路。傷を抱えた二人だけが、息を潜めてうずくまる場所。
外の世界では時間が未来へ流れているが、ここだけは時間が止まっている。いや、むしろ逆行して、幼い頃の病院の記憶へと二人を引き戻そうとしているようだった。
九月の最終日。空は高く澄み渡り、鰯雲が刷毛で掃いたように広がっていた。秋の訪れを告げる冷たい風が、二人の足元を駆け抜けていく。
凪は今日、一つの決意を持って葉月を誘い出していた。
駅前の家電量販店。煌びやかな照明と電子音が溢れる店内を抜け、凪は小さな紙袋を握りしめていた。その重みだけが、今の彼にとっての確かな現実だった。
「……これ」
帰り道、駅前の広場のベンチには座らず、少し人通りの少ない路地で、凪はぶっきらぼうにその包みを差し出した。
「え?」
葉月がきょとんとして凪を見る。大きな瞳が、夕暮れの中で揺れている。
「開けてみて」
促されて、彼女は丁寧に包装紙を解いていく。現れたパッケージを見て、彼女は目を見開き、息を呑んだ。
『Nintendo Switch』。以前、部室で彼女が「退院したらやりたいな」と、雑誌を見ながら何気なく呟いていたゲーム機だった。
「え、嘘。凪くん、これ……」
「今日、誕生日だろう」
凪は顔を背け、あさっての方向を見ながら言った。耳が熱いのが自分でもわかった。こんな気の利いた真似をするのは初めてだったし、自分の行動が正しいのかどうかも自信がなかった。
「バイト代、貯まってたから。……あげる」
葉月はしばらく言葉を失っていた。パッケージの表面を指でなぞり、その冷たい感触を確かめるようにしてから、一度唇を強く噛み締め、それから花が綻ぶような満面の笑みを浮かべた。
それは、学校で見せる「優等生の遠野さん」の完璧な仮面ではない。十七歳の、ただの少女の笑顔だった。
「貰ってもいいの? 高かったでしょう?」
「いいんだ。僕があげたいだけだから」
「ふふ。ありがとう。本当に、ありがとう」
葉月は箱を大切そうに抱きしめ、その冷たいパッケージに頬を寄せた。そして、ぽつりと呟いた。
「……これなら、入院中も永遠に飽きないね」
冗談めかして言ったその言葉が、凪の胸に棘のように刺さった。
彼女への贈り物が、そのまま「病院での孤独な時間」を連想させるものになってしまう現実。
普通の高校生なら、修学旅行のバスの中や、放課後のファミレスで友人と遊ぶためのものが、彼女にとっては「白い病室のベッドの上で、術後の痛みと孤独を紛らわせるための道具」になる。
二人が背負う運命の重さが、その小さな箱に凝縮されている気がした。彼女の笑顔の裏にある、諦めにも似た覚悟が見えて、凪は何も言えなくなった。
二人は近くの喫茶店に入った。レトロな純喫茶で、オレンジ色の照明が落ち着いた陰影を作っている。周囲の客の話し声はBGMのように溶け込み、二人のテーブルだけが小さな島のように孤立していた。
凪はブレンドコーヒーを、葉月はショートケーキを注文した。白いクリームの上にのった赤い苺が、宝石のように輝いている。
「十七歳かぁ。実感ないな」
フォークでクリームを突きながら、葉月が独り言のように呟く。
「病院のベッドで、天井のシミを数えていた頃は、自分が十七歳になるなんて想像もできなかった。大人になる前に、何か壊れちゃうんじゃないかって、ずっと思ってた」
「……僕もだ」
凪が短く同意すると、葉月は顔を上げ、真剣な眼差しで凪を見つめた。その瞳には、感謝と、そして深い信頼の色が宿っていた。
「凪くん、今日は本当にありがとう。こんなに嬉しい誕生日、久しぶり」
「大袈裟だな」
「大袈裟じゃないよ。私、誕生日はいつも、自分が『修正されるべき存在』だって突きつけられる日だったから。でも、今日は違う」
葉月の言葉は重かったが、その声音は穏やかだった。凪は言葉に詰まり、コーヒーカップを持ち上げた。湯気の向こうで、葉月が真っ直ぐにこちらを見ている。
「……冬の手術、きっと上手くいく」
凪が不器用に、けれど精一杯の願いを込めて言葉を紡ぐと、葉月は深く頷いた。
「うん。怖くないって言ったら嘘になるけど、でも、変わらなきゃいけないから」
そして、彼女は少し身を乗り出し、まるで世界でたった二人だけの秘密を共有するように声を潜めた。
「ねえ、凪くん。退院して、顔の腫れが引いたらさ……二人で海を見に行かない?」
「海?」
「そう。言葉なんか何もいらなくなるくらい、広くて、綺麗な海。今の私たちの声が波音に消されちゃうような場所へ」
その光景を想像し、凪は深く頷いた。
ファインダー越しではない、肉眼で見る海。レンズというフィルターを通さず、潮風を肌で感じ、波音を鼓膜で感じる。そこには、新しい顔と、新しい心を手に入れた葉月がいる。
それはどんなに眩しい光景だろうか。
「約束だ」
「うん、約束。……あ、あとね」
葉月は悪戯っぽく微笑んだ。その表情は、先ほどの深刻さを払拭するように明るかった。
「次は私が凪くんの誕生日をお祝いする番ね。来年の四月でしょ? プレゼント、楽しみにしてて。ものすごくハードル上げとくから」
「お手柔らかに頼むよ」
店を出ると、街はすっかり夜の帳に包まれていた。
街灯の下、二つの影が長く伸びては消え、また現れる。冷え込みが厳しくなった夜風が、二人のコートの裾を揺らす。
「凪くん、今日はありがとう。また明日ね」
「葉月さん、じゃまた明日」
いつもの交差点で別れる。角を曲がり、彼女の後ろ姿が見えなくなるまで、凪はその場を動けなかった。
「また明日」と言える日常が、どれほど奇跡的なバランスの上に成り立っているか。この穏やかな時間が、ずっと続けばいいと願った。
だが、運命の歯車は、確実に、冷酷に、冬の手術台へと回っていた。
少しリアルか忙しなかったので、暫く留守にしていましたが、また始めようと思います。
不定期投稿ですが、よろしくお願いします。




