第15話:君の「努力」を愛してる。僕たちはもう、鏡なんだ。
十月も半ばを過ぎると、季節は一気に進んだ。冷たい雨が続き、校庭の木々が色づく前に葉を落とし始めた。
それと同時に、教室における葉月の席は、空席が目立つようになった。
術前検査、自己血貯血、麻酔科の受診、口腔外科での最終調整。病院と学校を往復する日々が、彼女の体力、そして精神を削り取っていくのが、傍から見ていても痛いほど分かった。
たまに登校してきても、彼女は常に厚いマスクをし、ほとんど言葉を発さなくなった。ワイヤーの調整がきつくなり、舌の動きが制限され、発音が困難になっているのだ。
ある日の放課後。
凪は写真部の活動としてではなく、ただ逃げ場を求めて、普段は立ち入らない旧校舎の屋上へと続く階段を登っていた。
現像液の補充をするためという口実はあったが、本当は、葉月のいない部室の静寂に耐えられなかったのかもしれない。彼女のいない部室は、ただの暗い部屋だった。
屋上へ続く重い鉄の扉の前に立った時、向こう側から、何かが聞こえた。
風の音ではない。もっと切実で、痛々しい、何かが削れるような音。
「……さ、し、す、せ、そ……」
凪は息を殺して、扉のノブに手をかけた。心臓が早鐘を打つ。
その声の主を知っていた。けれど、その声質は、彼の知っている「遠野葉月」のものではなかった。
凪は錆びついたノブを回し、扉を数センチだけ開けた。隙間から、灰色の空と、コンクリートの床が見える。
夕暮れの強風が吹き荒れる屋上のフェンス際、葉月が一人で立っていた。
手にはボロボロになった紙きれ。凪が以前、彼女のために作った発音練習のリストだ。彼女はそれを握りしめ、空に向かって声を投げつけていた。
「さ、い……せ……い……ちがう!」
叫び声だった。
普段の、教室で聞く澄み切った鈴のような声ではない。鼻に空気が抜け、湿ったノイズが混じる、悲鳴のような声。
「がっこう……がっ、こう……くそっ……!」
ワイヤーが舌の動きを阻害し、口蓋裂特有の「鼻咽腔閉鎖不全」に近い状態を引き起こしているのだ。空気が鼻へ漏れ、パ行やタ行の破裂音が形にならない。
彼女が必死に保ってきた「完璧な発音」が、治療のための器具によって破壊されていく皮肉。彼女の努力が、物理的な限界によって踏みにじられている。
「なんで……なんでよ!」
葉月はプリントを握りつぶし、地面に叩きつけた。
肩で荒い息をする彼女の背中が、小刻みに震えている。そして、その手が、ゆっくりと、しかし確かな殺意を持って、自分の顔へと伸びた。
凪の視界が揺らいだ。
葉月の爪が、彼女の唇にある細い縫合線を、強く、何度も掻きむしった。
「こんなの……こんな傷さえなければ……!」
まるで、その傷跡こそが諸悪の根源であるかのように。消しゴムで文字を消すように、爪で皮膚を削ろうとしている。薄い皮膚が悲鳴を上げ、滲んだ血が夕日に赤く光った。
それは、彼女が保ってきた「完璧」という名のガラス細工が、粉々に砕け散る音だった。
自傷。自己否定の極致。
彼女は、傷を憎むあまり、自分自身を壊そうとしている。
「葉月、やめろ!」
凪は扉を蹴り開け、風の中を駆け抜けた。
葉月が弾かれたように振り返る。
その顔を見て、凪は息を呑んだ。
涙と鼻水、そして口元の血で汚れ、髪は風で乱れ、あの美しい「遠野葉月」の面影はどこにもなかった。そこには、ただ傷つき、怯え、絶望した一人の人間がいた。
「来ないで! 見ないでよ!」
彼女は顔を覆ってその場にしゃがみ込んだ。
「お願い、見ないで……こんな顔、凪くんにだけは……」
「葉月!」
凪は彼女の手首を掴み、無理やりその自傷行為を止めさせた。暴れる彼女を、強く抱きしめる。
「離して! 私は醜いの、不完全なの! 完璧じゃなきゃ、誰にも愛されないのに!」
彼女の絶叫が、凪の胸に深々と突き刺さった。
その時、凪は悟った。雷に打たれたような衝撃だった。
彼女がこれまで見せてきた「完璧な笑顔」「完璧な発音」「優等生の振る舞い」。その全てが、ただ「愛されるため」の、そして「もう一度あの時の少年に会うため」の、血の滲むような努力の結晶だったことを。
そして、自分が「傷を隠して黙り込む」ことで守ってきた平穏が、逆に彼女に「完璧でなければならない」という重圧を与えていたことを。
僕が「諦め」て逃げていたから、彼女は一人で「戦わ」なければならなかったのだ。僕の沈黙が、彼女を追い詰めたのだ。
「違う……」
凪は、自分自身の鼻音混じりの声で、はっきりと告げた。マスクの下で籠るいつもの声ではない。腹の底から絞り出した、本当の声だ。
「僕は、君の完璧さを愛したんじゃない」
凪の手が、血の滲む彼女の唇にそっと触れる。温かくて、柔らかくて、そして痛々しい唇。
「その痛みを、その弱さを隠してまで……僕に会いに来てくれた、君の『努力』を愛してるんだ」
葉月の身体から、ふっと力が抜けた。彼女は濡れた瞳で凪を見上げる。
「……努力……?」
「ああ。君は強かった。でも、もう一人で戦わなくていい」
凪は彼女を見つめたまま、自分自身のマスクに手をかけた。
今まで、人前では決して外さなかったマスク。自分を守る盾であり、世界との壁であった白い布。
それをゆっくりと外し、ポケットに入れた。
露わになった人中の傷跡。深く刻まれた瘢痕を、夕日に晒す。
「見てくれ。僕も同じだ。僕たちは合わせ鏡なんだよ、葉月」
葉月が、震える指先で凪の傷に触れる。彼女の指の冷たさが、凪の皮膚に伝わる。
「……凪くん」
「君が泣くなら、僕がその涙を撮る。君の声が崩れるなら、僕がその声を拾う。もう一人で戦わなくていい。僕が最大の支えになる」
二人は屋上の風の中で、互いの傷を認め合い、抱きしめ合った。
それは恋人同士の甘い抱擁というよりは、地獄のような戦場を共に生き抜くことを誓った、戦友の血の契約に近かった。
葉月の嗚咽が、凪のシャツを濡らす。凪はただ、彼女の背中を撫で続けた。
世界中でたった二人。この痛みを知る者同士。言葉はいらなかった。ただ、互いの心臓の音だけが、嵐のような世界の中で確かなリズムを刻んでいた。
屋上での自傷行為を目撃してから数日後。葉月は、どこか吹っ切れたような、けれど張り詰めた緊張感を纏っていた。それは、完璧であろうとする仮面が剥がれた代わりに、内なる戦士の覚悟が顔を出したような表情だった。
放課後の部室で、葉月は凪に静かに、そして真剣に告げた。
「次の診察……最終的な手術の説明があるの。親も来てくれるけど、私、一人で聞くのが怖い。先生は、リスクの話もされると思うから」
彼女の言葉は震えていなかったが、瞳の奥には、未知への深い恐怖が揺れていた。
「凪くん、付いてきてくれる? 私の、これからの戦いのことを、あなたにも聞いていてほしい」
それは、ただの付き添いの依頼ではなかった。屋上で互いの傷を認め合った二人が、運命を共有するための、契約の儀式のようなものだった。
「ああ。もちろんだ」 凪は迷わず頷いた。言葉はそれ以上必要なかった。
よろしくお願いいたします。
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