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第13話:現実から逃げよう。京都への旅立ち。

 翌朝、僕たちは東京駅のホームに立っていた。

 新幹線のシートに座り、流れる景色を眺めていると、昨日の重苦しい空気が嘘のように思えた。

 京都駅に降り立つと、盆地特有の湿った熱気が体にまとわりついた。


「暑い!」

 葉月が第一声で叫ぶ。

「東京より暑いかも」

「言ったろ? でも、空が広い」


 蒸し暑い空気が、夏空に突き刺さっている。


 僕たちは、ガイドブックも見ずにバスに飛び乗った。

 行き着いた先は、観光客で溢れる清水寺ではなく、少し外れた場所にある静かな寺院だった。

 青紅葉が、目に痛いほど鮮やかだ。

 木漏れ日が石畳に落ち、風鈴の音がチリン、と涼やかに響く。


「綺麗……」

 葉月が呟く。



 僕はカメラを構えた。

 ファインダーの中の葉月は、美しかった。

 汗で前髪が少し額に張り付き、化粧も少し崩れているかもしれない。

 でも、その横顔は、僕が今まで見たどんな「完璧な写真」よりも美しかった。

 シャッターを切る。

 カシャ、という音が、セミの声に混じって吸い込まれていく。


「あ、撮ったでしょ」

「うん。すごく良かったから」

「もう、汗でドロドロなのに」


 葉月は照れ笑いをして、自分の唇の傷跡を隠そうともしなかった。

 ここでは、誰も僕たちのことを知らない。医療用語も、評価も、比較もない。ただの17歳の夏があるだけだ。


 夕暮れ時、鴨川のほとりを歩きながら、僕はスマホで宿を探した。


「あ、ここ空いてる。『当日限定プラン・素泊まり』だって」

「ほんとに? すごいラッキー」


 見つけたのは、路地の奥にある古い町家を改装した小さな旅館だった。

 旅館は、木造建築で、昭和を感じさせるレトロな雰囲気が漂っている。

 入口の看板には、力強くも優雅な筆記体、「青紅葉あおもみじ荘」と縦書きで書かれている。

 看板は、使い込まれた黒檀こくたんのような濃い茶色の木材を横長に使い、表面は長年の風雨に晒されて、わずかに木目が浮き上がっている。看板の枠は朱色しゅいろに近いベンガラで塗られ、それが剥げかけていることで、建物の歴史を感じさせている。



 チェックインを済ませ、通された部屋は六畳ほどの和室だった。

 畳の井草の匂いが懐かしい。

 窓からは小さな中庭が見え、鹿威し(ししおどし)がカコン、と時折乾いた音を立てている。

 夕食は近くのコンビニで買ったおにぎりと、出店で買った冷めた唐揚げ。

 それでも、病院食の味気なさに比べれば、何倍もご馳走だった。


 お風呂から上がり、浴衣に着替えた僕たちは、部屋に布団を二つ並べて敷いた。

 電気を消すと、障子越しに庭の常夜灯の明かりがぼんやりと差し込んでくる。

 布団に入ったが、眠気はまだ来なかった。

 隣で葉月が身じろぎをする音が聞こえる。布団と布団の間は、わずか数十センチ。

 手を伸ばせば届く距離。でも、その距離が、今の僕たちには大切だった。


「……ねえ、凪くん」


 闇の中で、葉月の声がした。昼間の明るい声とは違う、静かで、少し甘えたような響き。


「ん?」

「私の、ここ、触ってみてくれない?」


 葉月が、そっと自分の口元を指した。僕は一瞬戸惑ったが、すぐに指先を伸ばした。暗闇の中、僕は彼女の唇の端、小さな縫合線の上にそっと触れた。

 指の腹に感じたのは、わずかに硬く、なぞるように残る、手術の痕跡。それは彼女の「不完全さ」の証であり、僕たち二人だけが共有する秘密の刻印だった。


「ねえ、これ、手術でもっと目立たなくなるかな?」


 その声は希望に満ちているようで、同時に、もし目立たなくなったら、僕たちのこの『共通の痛み』も消えてしまうのではないかという、かすかな不安を凪に感じさせた。




「明日からまた、現実にリセットされるんだよね」

「うん。ワイヤーも痛むし、受験勉強もしなきゃいけない」

「……やだな」

「うん。やだね」

「でも、今日は特別だよね」


 葉月の手が、布団から伸びてきた。

 僕は迷わずその手を握り返した。

 華奢な指が、僕の指に絡みつく。彼女の体温が、掌を通して伝わってくる。


 明日から、またワイヤーをきつく締めなきゃいけない。この手を離して、また『戦友』に戻らなきゃいけない。 僕はそう心の中で呟いた。僕たちのこの穏やかな時間は、手術までの猶予期間に過ぎない。冬が来れば、彼女は顔を変え、新しい人生を歩み始める。そして、もしかしたら、『完璧になった葉月』は、もう今の僕を必要としないかもしれない。 その恐怖が、握った手の温もりを一層、切実なものにした。



「明日から、いつも通りの私たちに戻ろう。強く戦う私と、それを支えてくれる凪くんに」

 葉月は自分に言い聞かせるように呟いた。


「でも、今だけは。……思いっきり甘えさせて」


 握り返す力が、少し強くなった。

 それは誘惑というよりは、溺れそうな人が藁をも掴むような、切実なSOSだった。

「完璧」であろうと張り詰めた糸が、今夜だけは緩んでいる。

 その弱さを、不完全さを、僕は愛おしいと思う。


「大丈夫だよ、葉月。僕はずっとここにいる」

「うん……知ってる」


 葉月の呼吸が、次第に規則正しくなっていく。

 握った手は離さないまま、彼女の寝息が聞こえ始めた。

 昨日の夜、きっと彼女も恐怖で眠れなかったのだろう。

 安心したように眠る彼女の横顔を、暗闇の中でじっと見つめる。


 口元の傷跡は見えない。でも、そこにあることを僕は知っている。

 冬の手術で、彼女の顔は変わるかもしれない。

 骨を切り、形を変え、彼女が望む「完璧」に近づくのかもしれない。

 それでも、この手を握った感触だけは、変わらないでほしいと願った。


「おやすみ、葉月」音にならない声で呟く。


 彼女の手の温もりだけが、僕をこの世界に繋ぎ止めるアンカーのようだった。

 骨を切る恐怖も、未来への不安も、今この瞬間だけは、蚊帳の外に追いやられていた。


 鹿威しの音が、夜の静寂を刻んでいる。

 カコン。その音が、秒針のように時間を削っていく。

 葉月はもう夢の中だ。

 僕は、彼女の手を握りしめたまま、天井の木の節を目で追っていた。

 眠れる気がしなかった。

 明日になれば、また「戦い」が始まる。

 でも、日付が変わるその時までは、この安らかな沈黙を守り続けようと思った。


 京都の夜は、どこまでも深く、静かに僕たちを包み込んでいた。


 


 良く晴れた日だった。 朝のひばりの鳴き声で、凪は目を覚ました。 木造の旅館のベランダに出ると、着替えもせずに外の風に当たる。肌に触れる空気は、盆地特有の湿気を帯びていた。


 午前6時を過ぎた頃。太陽が地平線からひょっこりと顔を出し、朝日が部屋に差し込む。葉月のガラスのように脆い顔は、凪にとって愛おしいものだった。遥々、東北から京都へ逃避行してきた二人の、束の間の安息だった。


「凪くん、起きてたのね。昨日はありがとう。みっともない姿を見せてして、ごめんね」


 葉月が声をかける。


 その声には、少しの恥じらいと、安堵が混ざっていた。


「それより布団を片付けるのを手伝ってくれるかな、葉月さん」

「はい」


  二人はテキパキと布団を畳んでいく。二枚の布団は部屋の隅にコンパクトにまとめられた。


 午前7時。民宿の人が手間暇かけて作られた朝食が届く時間だ。焼き魚定食だろうか。


「朝ごはん楽しみ」葉月が言う。

「ああ、楽しみだ」凪も応じた。


 七時になるまでの間、二人は畳の上で向かい合い、テーブルに置かれた梅昆布茶を啜っていた。


「だけどな、葉月さんが淹れてくれたお茶のほうが旨いな」凪がふと漏らす。


 その言葉を聞き逃さず、葉月が顔を上げて言った。


「凪くん、今、わたしのお茶のほうが美味しいと思いましたね。再度、聞きますが、口移しはどうでしょうか?」


 凪は、お茶を吹き出すのをぐっと堪えた。


(まぁこういうのも、たまには悪くないかな)


  一瞬の逡巡の後、凪は笑う。


「じゃ、遠慮なく頼む」


 凪は葉月と向かい合わせになり、目を閉じた。 唇に触れる柔らかい葉月の口。そこから溢れ出る梅昆布茶が、唾液と混ざり合って凪の口の中に注がれる。 ごっくん、と飲み干してもなお、唇と唇が触れ合ったままだ。時間にして一分弱。 どちらからともなく離れると、葉月は驚くほど真っ赤に赤面していた。


「き、キスしてしまいましたぁ。忘れて!忘れて!」


 葉月は両手で火照った顔を隠すが、無意味だった。熱を持った彼女の頭からは、白い湯気が上がっているように見えた。


 その直後、ガラリと開いた扉の先に、民宿のおかみが立ち尽くしていた。


  「……た、た、た、大変失礼致しました。あ、…あ、朝ごはんはここに置いておきます。ごゆっくりー!」


  おかみは、一部始終を見てしまったのだろう。すたこらせっせと全速力で立ち去って行った。


 朝食は、互いに顔を見られず、ひたすらサンマ定食を食していた。 焼きたてのサンマが香ばしくてとても美味しいが、先ほどの口づけが頭から離れない。困った。実に困った。 凪は困惑しつつも、ちらりと横を見ると、葉月と目と目とがあって、彼女はにこりと笑った。まだ、真っ赤な顔をしていた。


 ごはんを食べて、互いに気持ちに整理が着くと、葉月が静かに話しかけてきた。


「民宿を出たら、少し、付き合ってくれるかな?」

「うん、もちろん」

「ありがとう」


 チェックアウトを済ませ、二人はバス停へと向かう。夏の暑さは、じりじりとアスファルト舗装の地面を焼いていた。 凪たちは、停留所でバスを待つ。お互い無言の沈黙を守ったままだ。 路線バスに乗り込むと、座席下のヒーターから送られる冷風が足元を涼しく感じさせた。乗客は少なく、車内は静かだ。


 ガタガタと進む京都の町並みは、「碁盤の目」のように東西南北が直角に交差し、整然と並んでいた。これは平安京造営時の都市計画に基づくもので、現在も市内中心部はその名残を強く留めている。


 30分ほど過ぎた頃、葉月の目的地が見えてきた。「止まります」のボタンを押し、運賃を払ってバスを降りる。


『行こうか』という言葉は必要なかった。 凪は葉月に右手を差し出す。葉月は返事の代わりに、そっと左手で凪の手を取り、強く握り返した。彼女の瞳は、どこか懐かしむような、切ない色を帯びていた。


 葉月が先導し、凪は隣を歩いていく。無言の空白が、二人の間に流れる。


「凪くん、ここ」


 葉月が立ち止まった先にあったのは、立派な朱塗りの楼門。ここは、確か伏見稲荷大社だった。


「ここはね、幼い時に母に連れられて、何度か訪れた場所なの。この朱色の鳥居が連なるトンネル、『千本鳥居』はね、願いが『通る(叶う)』ように、あるいは願いが通ったことへの感謝のお礼として、参拝者が鳥居を奉納する習慣があるのよ」


 葉月は、楼門を見上げながら、そう説明した。その声は、どこか遠い過去の記憶を辿っているようだった。


 葉月は凪の手を強く引き、境内へ入る。


 朱色の鳥居が、無限に連なるトンネル。それはまるで、現実と非現実の境界線のように、外界の喧騒を遮断していた。鳥居をくぐるごとに、光と影が交互に体を包み、二人の不安を洗い流していくようだ。


「ねえ、凪くん。母はね、私をここに連れてくるたびに、鳥居の前で『健康で、幸せになれますように』ってお願いしていたの」


 葉月は足を止め、千本鳥居の入り口に目をやった。


「でも、私が今、ここで願うことは、少し違う」



 葉月は凪の方を振り返り、その目を見つめた。鳥居の朱色が、彼女の瞳に反射して揺らめいている。


「私の願いはね、『完璧な私』になることじゃない。冬の手術で、仮に私が望んだ通りの『普通』の顔を手に入れられなくても、私は、もう逃げないって決めたの」


  その言葉は、昨晩の涙と、今朝の口づけを経て、彼女の中で生まれた決意だった。


「この手術は、『完璧』のゴールテープなんかじゃない。これは、『未来の私を生きやすくするための、メンテナンス』。凪くんが言っていた通りだね」


 葉月はそう言って、初めて心からの、迷いのない笑顔を見せた。それは、唇の端の傷跡も含めて、とても美しい笑顔だった。


「だから、お願い。凪くんは、私の、その『諦め』ではなく、『受容』のために手術を受ける。そして、もし私が手術後に、少しでも不安になったり、不完全に落ち込んだりしたら……その時は、また、口移しで梅昆布茶を飲ませて。それが、私を現実に引き戻すアンカーになるから」


 凪は、葉月の強い視線を受け止めた。彼女の言葉は、ただの「逃避」で終わらせず、この旅を「受容」への転換点にしようという、渾身の決意だった。


 凪は、彼女の手を握り直し、千本鳥居の奥へと踏み出した。


 朱色の鳥居がどこまでも続くトンネルは、二人が選んだ未来への道のようだった。その道は長く、険しいかもしれない。しかし、互いの手を握り合っている限り、もう一人ではない。


 光と影が連なる千本鳥居を、二人は静かに歩き続けた。 京都の夏の日差しは強烈だが、この朱色の世界の中だけは、どこまでも安らかだった。




 


 京都での逃避行を終え、凪と葉月は新幹線で地元へと戻ってきた。


 新幹線を下りてからは、二人はほとんど無言だった。京都で交わした深い決意と、衝動的な口づけの記憶は、現実の光の下では重く、照れくさいものだった。


 いつもの学校の帰り道。二人はショッピングモールを抜け、警備員が誘導するように手を上げ下げしている駐車場出入り口を過ぎていく。周囲には日常の喧騒が戻っていた。


 


 歩道に並んで歩きながら、葉月はぽつりぽつりと話し始めた。それは、京都へ行くバスの中で話した、自分の過去の記憶の続きだった。


「ねえ、凪くん」

「うん」

「私、小1の夏に初めて大きな手術を受けた時、母に言われたの。『これで葉月は、どこにも負けないくらい綺麗になる』って。その言葉が、ずっと呪いみたいだった」


 葉月は、夕焼けに染まり始めた田んぼの向こうに目を向けた。


「あの時、私にとって『綺麗』っていうのは、『傷がないこと』、『普通に見えること』だった。だから、必死で完璧を追いかけた。完璧になれば、誰も私を可哀想だと思わないって信じてたから」


 葉月の声は、夕焼けの光のように切実だった。


 凪は立ち止まり、彼女の方を向いた。


「でも、京都でわかった。私、凪くんが『諦め』だって言った私の『完璧への期待』が、本当は『凪くんの隣で自信を持って笑いたい』っていう、ただの願いだったって」


 葉月は、少し涙ぐんでいるように見えたが、すぐに笑顔を作った。その笑顔は、唇の小さな縫合線が少し歪んでいても、凪には眩しかった。


「ねえ、凪くん。私たち、明日からまた日常に戻るけど……」


 葉月はそう言いながら、そっと凪の制服の袖を掴んだ。


「あの、お茶の口移し……あれは、『おまじない』にする。私が、また自分に自信をなくしそうになった時の、特別なおまじない。完璧じゃなくても、私を一番愛してくれる人がいるって、思い出せるように」


 凪は、彼女の手を優しく握り返した。


「ああ、いつでも頼んでくれ。葉月を『普通』にするためのメンテナンスじゃなくて、葉月を『葉月』のままでいさせるためのおまじないなら、俺は一生付き合うよ」


 周囲には、車道と、広大な田んぼが広がっている。夕焼けのオレンジ色が、二人の影を長く引き延ばしていた。遠くの山々が連なる稜線は、深く紺色に染まり始めている。時折、三両編成のローカル線が、ゴトゴトと静かに田んぼの横を走り過ぎていく。


 


 僕たちは車道の横の歩道を歩いていたが、通る車は意外と多かった。


 やがて、遠くの河川敷の土手が見えてきた瞬間、葉月はふいに走り出した。


「行くよ、凪くん!」


 それは、迷いを断ち切ったような、軽やかな走りだった。


 つられて僕も彼女についていく。タクシーのおじさんが居眠りしているのを脇目で見ながら、二人並んで全力で走り出す。


 アスファルトから土の地面に変わる場所で、二人の足音が軽く弾む。


 夏の夕暮れ。蝉の声もまばらになり、一日の熱気が冷め始めた道を、二人はただただ、真っ直ぐに走った。それは、京都での決意を、地元の日常へと運び込む儀式のようだった。


つづく


何かを感じて頂けたら、ブクマ&評価(又は感想)をお願いします。


よろしくお願いします。

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