第12話:歯を締め上げる痛みと、すれ違う二人。
セミの鳴き声が、防音ガラスの向こうで遠い耳鳴りのように響いている。
まるで、この部屋の内部に広がる張り詰めた静寂を打ち破ることを恐れているかのようだ。
西日が差し込む凪の部屋は、エアコンの冷気で満たされていたが、どこか澱んだ熱気が床に溜まっているような気がした。それは、僕たち二人が抱える重いテーマから発する熱、あるいは、この夏休みという限られた時間の緊張感かもしれない。壁に掛けられたカレンダーの「8月」の文字は、もうすぐにでも次の月にめくれてしまいそうなほど、時間の流れを意識させる。
夏休みに入って数日。部活のない午後は、こうして凪の部屋で葉月と過ごすことが日課になりつつあった。本を読んだり、音楽を聴いたり、他愛もない将来の話をしたり。そうした日常の断片こそが、僕たちの現実からのわずかな逃避場所だった。
部屋の隅にある本棚の前で、葉月が背表紙を指でなぞっている。その指の動きは、迷いながらも何かを探しているようだった。
「凪くん、この漫画の新刊、もう出てたんだ」
葉月は、凪が特に気に入っているバンドが主題歌を担当したアニメの原作コミックを指した。
「うん、昨日買ったばかり。あそこ、CDラックの横にある」
「あ、あった。……ふふ、やっぱり、『心の聲』、凪くん好きそうだもんね」
葉月は、凪が整理して並べたCDのジャケットを一枚一枚、丁寧に眺めている。彼女の指先は白く、爪は綺麗に切り揃えられているが、その動きにはどこか躊躇いがあるようにも見えた。まるで、凪のプライベートな空間を覗くことへの遠慮が、その動作に表れているようだった。彼女がCDを手に取るたびに、プラスチックのケースが微かにカチャリと音を立てる。
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机の上には、透明な貯金箱が置かれている。それは、凪が両親から誕生日にもらった、どこにでもある安っぽいものだが、僕たちにとってはその重みが未来の費用を象徴していた。
中身が見えるその箱には、銀色の五百円玉が半分ほど詰まっていた。光の加減でキラキラと反射する硬貨は、凪がバイトで汗水垂らして稼いだ証であり、同時に僕たちの不安を具現化したものでもある。
「これ、結構貯まったね」
葉月がCDを戻し、貯金箱を持ち上げてチャリ、と音を立てる。五百円玉がぶつかり合う鈍い金属音は、決戦のゴングのように聞こえた。
「うん。バイト代の残り。親の負担を少しでも減らしたくて。……まあ、今後のため、かも」
凪が言うと、葉月の表情が僅かに曇った。日差しが強く、窓の外では青い空がどこまでも広がっているというのに、一瞬にして部屋の温度が下がった気がした。
「今後」という単語は、僕たちにとってただの季節ではない。それは、僕たちの肉体を根本から変えるための、そして、僕たちの人生の次のステージを決定づける審判の時を意味していた。
僕たちは、この重苦しい空気を振り払うかのように、逃げるように明るい話題を探した。
「ねえ、夏休み、どこか行きたいところある?」
葉月が努めて明るい声で問いかける。ベッドの縁に腰掛け、足をぶらぶらさせている。その無邪気な仕草が、普段の彼女の不安を隠しているようにも見えた。
「そうだなぁ。BBQとか、ベタだけどやってみたいかも。川原とかで。肉を焼いて、思いっきり煙たい中でさ」
「あ、いいなそれ! 私、マシュマロ焼きたい。焦がしてドロドロにするの」
「それ失敗してるじゃん。炭になる直前の、ただの焦げた塊じゃん」
「違うの、それが美味しいの!表面がカリッとして、中が溶け出すギリギリ。最高だよ。あとは……天体観測とか?」
「望遠鏡ないけど。星の名前とか全然わかんないし」
「肉眼でいいの。高い山に登って、街の光が届かない場所に行けば、天の川だって見えるよ、きっと」
葉月の瞳がキラキラと輝く。想像の中の星空を見上げているような、無邪気で、あどけない横顔。その表情には、まだ手術の影は落ちていない。
その横顔を見ていると、胸が締め付けられるほど愛おしさが込み上げる。しかし同時に、その唇の端にある小さな縫合線が、凪の愛しさの中に鋭い現実の痛みを突きつけてくる。
「それと、京都か奈良。修学旅行じゃなくて、もっとゆっくり回りたいな。古いお寺とか、静かな庭とかを、時間を気にせず巡りたい」
「渋いね。葉月、意外と古都が好きだもんね。でも、いいかも。写真撮りたいし」
凪は手のひらで四角いフレームを作り、カメラを構える真似をした。レンズ越しなら、世界は少しだけ切り取られて、余計なものが排除され、優しく見える気がするのだ。凪の眼には映る現実を、ファインダー越しに美化したいという、ささやかな願いだった。
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会話が途切れた一瞬、部屋の空気が重くなった。一気に押し寄せる沈黙。
避けては通れない話題が、透明な貯金箱のように、中身をさらけ出してそこに置かれていた。僕たちは目を合わせるのを避けていたが、その話題から逃げられないことは、互いに理解していた。
「……ねえ、葉月さん」
凪の声のトーンが変わった。さっきまでの弾んだ調子ではなく、少し低く、抑揚のない、震えを帯びた声。
「次の矯正の調整日、いつ?」
「来週の火曜。多分、ワイヤーの交換と、ゴムのかけ方を変えるって言われてる」
「……なんかね、最近ワイヤーがきつくて。特に奥歯の方、締め直されたところがずっと痛いの。ジンジンする」
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葉月は、夏休みが始まると同時に、本格的な歯列矯正治療をスタートさせた。
彼女は、口元の状態を隠そうとする従来の姿勢に反して、歯の表面に取り付けられた銀色のマルチブラケット装置を、特に隠そうとはしなかった。しかし、その装置は、彼女が目指す「完璧な自分」への道のりが、痛みと不便に満ちていることを、誰よりも雄弁に物語っていた。
この術前矯正は、次の冬休みに予定されている顎矯正手術(Orthognathic Surgery)に向けて、歯列を戦略的に動かす準備段階だ。具体的には、上下の顎骨を理想的な位置に動かした後で、噛み合わせが完璧に合うよう、あえて現在の歯並びを崩す工程(Decompensation:代償性変化の除去)が必要となる。
この短期間で、歯を外科的な移動に備えるということは、強烈な力をかけることを意味する。
その痛みは、凪が中学生の卒業をもって治療を中断した経験があるからこそ、痛いほど理解できた。毎月の調整日の翌日は、ワイヤー交換や結紮によって歯が締め付けられ、熱いものが沁みたり、固形物が噛めなくなったりする。葉月が訴えていた「奥歯の方、締め直されたところがずっと痛い」という言葉は、まさにSSRO(下顎枝矢状分割術)の術後位置に向けて、大臼歯を動かす際の、避けられない苦痛の証だった。
凪の目には、葉月の口元にあるブラケットとワイヤーが、単なる金属の装置ではなく、彼女が「普通」というゴールテープを切るために自らに課した「戦闘服」のように見えていた。彼は、その痛みを共有することはできないが、せめてその戦いを理解し、支えることだけはできると、強く心に誓っていた。
葉月は無意識に、右の頬に手を当てた。そこは、手術で最も大きく動くことになる下顎の関節に近い部分だ。痛みを訴える彼女の表情は、不安と疲労に満ちていた。
葉月は、冬休みに行う「顎矯正手術」。それは、上下の顎の骨を切り、噛み合わせと顔のバランスを整える、数ある外科手術の中でも特に大掛かりなものの一つだ。
術前の矯正治療は、その準備段階にあたる。歯並びを、手術後の顎の位置に合わせてあえて崩していく工程もあり、その痛みと違和感、そして常に口の中に異物があるという事実は、精神をじわじわと削り取っていく。食事のたびにワイヤーに挟まる残飯、歯磨きの煩わしさ。すべてが、手術へのカウントダウンだった。
「先生が言ってた。順調なら、予定通り冬休みにオペできるって」
葉月が膝の上で拳を握りしめる。その白い拳は、まるで自分を鼓舞しているかのようだった。
「ル・フォーI型骨切り術とSSRO(下顎枝矢状分割術)。上顎骨と下顎骨を同時に動かす、ダブルジョーオペレーションだね。……骨を切って、チタンプレートで固定して。顔が腫れて、しばらく口も開けられなくて、流動食しか食べられない。……怖いね」
凪は、手術の名前を専門用語そのままに口にした。
でもそれ以上に、彼女がどれだけこの手術について調べ、現実として受け止めようとしているか想像もつかない。
「うん。全身麻酔だし、リスクがないわけじゃない。術後の神経麻痺とか、顎関節症の再発とか、最悪の可能性まで先生は説明した」
葉月が淡々と答えると、強い視線を凪に向けてきた。その瞳の奥には、恐怖に負けまいとする強い意志が見えた。
「でも、これで終わるんだよ。凪くん」
彼女の言葉には、縋るような、あるいは祈るような、切実な響きがあった。
「この手術を受ければ、噛み合わせも治るし、顔の歪みもなくなる。発音だって、今までどうしても出しにくかったサ行とかタ行とか、もっと良くなるかもしれない。……やっと、『普通』になれるの」
葉月にとって「普通」は、この十数年間、常に手の届かない場所にあった憧れの代名詞なのだ。
「普通、か」
凪は天井を見上げた。天井の隅には、微かに蜘蛛の巣が張っている。そんな小さな欠点すら、葉月は許せないのだろうか。
「僕は……正直、そこまで期待してないんだ」
「え?」
葉月の瞳が大きく見開かれた。その反応は、凪の予想通りだった。
「いや、もちろん噛み合わせが直れば食事は楽になるし、将来的な歯の寿命も伸びる。それは分かってる。だからいつか手術は受ける。必要だから。でも……」
凪は言葉を選んだ。葉月を傷つけたくない。でも、この気持ちだけは、嘘をつきたくなかった。
「骨を切って顔の形を変えたって、僕の中身が変わるわけじゃない。この『空気漏れ』の記憶や、今まで感じてきた視線の痛みが、手術で魔法のように消えるわけじゃないんだ。僕は、これ以上人生を諦めないために、健康のためのメンテナンスとして受けるだけだよ」
凪の言葉には、どこか諦めと、過度な期待を拒絶する自衛が混ざっていた。
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葉月の表情が強張った。彼女はベッドから立ち上がり、床に降りた。
「どうしてそんなこと言うの? 変わるよ。変わるに決まってるじゃない」
葉月は、数歩で凪の机の前に詰め寄った。その緊迫した距離感が、僕たちの心の隔たりを表しているようだった。
「私は、完璧になりたいの。完璧な顔、完璧な声、完璧な笑顔。誰からも『可哀想』なんて思われない、同情なんてされない私になりたいの。この手術は、そのための最後の戦いなのよ」
彼女の言葉は、まるで自分自身に言い聞かせているかのようでもあった。
「葉月、もう十分だよ。君は十分に綺麗だし、誰よりも努力してるじゃないか」
「足りない! まだ足りないの! 鏡を見るたびに思う。ここのラインが違う、口を開けた時の歪みが気持ち悪いって。凪くんには分からないの? 同じ病気なのに、どうしてそんなに冷めていられるの?」
葉月の瞳から、涙が溢れそうになっていた。その瞬間、凪は、凪たち二人が同じ手術を受けるにも関わらず、その目的が根本から異なっていることに気づいた。
彼女にとっての手術は「再生」への唯一の切符であり、凪にとっての手術は「延命」のための必要不可欠な処置に過ぎない。
目的のズレが、決定的な亀裂となって部屋に走った。その亀裂は、僕たちの友情さえも引き裂きかねない、深いものだった。
「凪くんは、今のままでいいの? 一生、マスクで隠して生きるつもりなの?」
「そうじゃない。隠したくない。でも……手術ですべてが魔法みたいに解決するなんて思いたくないんだ。期待しすぎて、ダメだった時の絶望を、僕はもう知ってるから」
凪が初めて手術を受けたのは、葉月よりもずっと幼い頃だった。その時の、期待が裏切られた時の、あの深く、冷たい失望感を、凪は忘れることができない。
「……臆病なだけじゃない」
葉月の言葉が、鋭い刃物のように凪の胸を刺した。彼女の唇が震えている。
「傷つくのが怖いから、最初から期待しないフリをしてるだけ。それは『受容』じゃなくて『諦め』だよ! 一生、その諦めの中で生きていくの?」
部屋の空気が凍りついたようだった。エアコンの冷気すら、その凍てついた空気を和らげることはできない。
窓の外では、セミの声だけが、無神経に降り注いでいる。その声は、僕たちの苦しい感情には全く無関心だった。
彼女の言う通りだ。凪は怖いのだ。骨を切って、顔を変えて、それでもまだ自分が、この世の中が、凪の存在を許容してくれなかったらどうしようと、震えているのだ。それは、葉月が言う「諦め」に近いのかもしれない。
でも、目の前で肩を震わせ、今にも泣き出しそうな葉月を見て、凪は自分の恐怖よりも、彼女の危うさの方が恐ろしくなった。
彼女は「完璧」というゴールテープを切ろうとしているが、そのテープの先にあるのがもし断崖絶壁だったら?
手術をしても、もし彼女が自分の顔に納得できなかったら、彼女の目指す「普通」が手に入らなかったら、彼女は一体どこへ向かうのだろうか。凪には、葉月がその完璧主義の崖から落ちてしまいそうで、見ていられなかった。
「葉月」
僕は静かに名前を呼んだ。
「……なに」
葉月は涙を拭い、顔を背けたままだ。
「明日、京都に行こう」
「……え?」
葉月が驚いて振り返る。
「京都って……明日?」
「うん。新幹線に乗って、すぐ。宿なんて向こうで探せばいい。計画なんていらない」
「何言ってるの? 急すぎるよ。それに、今の話と全然……」
「関係あるよ」
僕は立ち上がり、葉月の手を取った。彼女の手は冷たく、少し汗ばんでいた。
「手術のこと、病院のこと、ワイヤーの痛み、完璧かどうか、そういうの全部、京都に置いていこう。たった一日か二日だけでいい。僕たちが、ただの高校生として、夏休みを過ごすためだけに、行くんだ」
葉月は呆気にとられた顔をしていたが、やがてその瞳から力が抜け、ふわりと笑った。
それは「完璧な笑顔」ではなく、少し歪んでいて、泣き腫らしたあとの、どうしようもなく人間らしい笑顔だった。
「……バカみたい。凪くんって、時々すごく強引だよね」
「嫌ならやめるけど」
「ううん。行く。……行きたい」
つづく
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