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第11話:いつかの「約束」は、二人を繋ぎ留める。

「怖いよ、凪くん……っ」


 葉月が崩れ落ちるようにその場にしゃがみ込んだ。

 先ほどまでの冷徹な戦士の仮面は、見る影もなく剥がれ落ちていた。そこには、ただ手術を恐れる、等身大の一人の少女がいた。


「顔の骨を切るなんて、怖い……。目が覚めて、顔が変わってたらどうしよう。痛くて、死んじゃったらどうしよう。もし失敗して、今よりひどい顔になったら……」


 彼女の顔が歪む。完璧にコントロールされていた表情筋が、恐怖と疲労で無様に崩れ落ちる。

 涙が溢れ出した。それは、ドラマで見るような綺麗な涙ではなかった。鼻水も混じり、過呼吸気味に息を呑み、顔を赤く腫らして泣く、泥臭い、人間臭い嗚咽だった。


「完璧になんて、なれないかもしれない……。ずっと、ずっと戦ってきたのに、まだ足りないの? いつまで私は、自分の顔を切り刻めばいいの……?」


 彼女の悲痛な叫びが、部室の壁に反響する。

 それは、「完璧」であろうとし続けた彼女の心が、疲労骨折を起こした音だった。彼女は、自分で自分を追い込み、逃げ場をなくしていたのだ。


 凪は立ち上がった。

 かける言葉なんて見つからなかった。「頑張れ」なんて言えない。これ以上頑張れなんて、残酷すぎる。「そのままでいい」とも言えない。それは彼女のこれまでの壮絶な努力を否定することになる。


 だから、凪は動いた。

 しゃがみ込む葉月の前に跪き、震える彼女の肩を、強く、強く抱き寄せた。


「……っ、うあぁぁ……!」


 葉月は抵抗しなかった。凪の胸に顔を埋め、彼の制服のシャツを力一杯握りしめて、子供のように泣きじゃくった。

 凪の胸に、彼女の熱い涙が染み込んでいく。

 その熱さが、彼女が背負ってきた痛みの重さそのもののように感じられた。

 腕の中にいる葉月は、驚くほど小さかった。骨は細く、頼りない。こんな小さな身体で、彼女はずっと世界と、そして自分自身という巨大な敵と戦ってきたのか。

 その事実への畏怖と、どうしようもない愛おしさが、凪の胸を満たした。


(僕はずっと、逃げていた。でも、君はずっと戦っていたんだね)


 凪は、彼女の背中に回した腕に力を込めた。言葉の代わりに、体温を伝える。ここにいるよ。一人じゃないよ。君の痛みは、僕が半分引き受けるよ。そう念じながら。


 どれくらいの時間が経っただろうか。

 窓の外は、鮮やかなオレンジ色から、深く静謐な群青色ブルーアワーへと変わっていた。

 葉月の嗚咽は収まり、時折しゃくりあげる音だけが静かな部室に響いていた。


 葉月がゆっくりと顔を上げた。目は赤く腫れ、化粧は涙で崩れ、顔には凪のシャツの皺の跡がついている。

 それは決して「美しい」顔ではなかったかもしれない。しかし、凪にとっては、どんなに完璧に装った笑顔よりも、今の彼女の方がずっと美しく、尊く見えた。


「……ごめんね、シャツ。ぐちゃぐちゃにしちゃった」

 葉月が鼻声で、恥ずかしそうに言った。


「いいよ。洗濯すれば落ちるから」

 凪は優しく微笑んだ。

「落ち着いた?」


「うん……。なんか、全部吐き出したら、少しスッキリした」

 葉月は自嘲気味に笑い、ハンカチで顔を拭った。


 気まずい沈黙が流れる。重すぎる現実を共有した後特有の、空虚感と安堵感が混ざった空気。

 二人は、どちらからともなく、話題を変えようとした。これ以上、傷口を広げないために。日常という安全地帯に戻るために。


「……夏休み、何しよっか」

 葉月が、掠れた声で言った。


「そうだね。テストも終わったし、どっか遊びに行く?」

 凪も、努めて明るく応じた。


「水族館、行きたいな。涼しいし、暗いし」

「いいね。クラゲとか、写真撮りたいな」

「新しいパンケーキのお店もできたんだって」

「じゃあ、行こう。今週末とか」


 行けたらいいね。行きたいな。

 二人は、まるで明日世界が終わるかのように、平凡な未来の計画を積み重ねていく。

 葉月の手術の日程が決まれば、これらの計画の多くは消えてしまうかもしれない。夏休みの大部分は、通院とリハビリに費やされるかもしれない。

 それでも二人は、約束を交わし続けた。

 それは、不確かな未来に対する、二人なりの祈りのような会話だった。ガラス細工のように脆く、しかし光に透かせば美しい、切ない夏の計画。





 日が完全に落ち、夜の帳が降りた校門を出た頃には、街灯が道を照らしていた。

 二人は駅へと続く道を並んで歩く。

 湿った夜風が、凪の頬と、葉月の腫れた瞼を優しく撫でていく。

 会話は途切れていた。しかし、それは以前のような「探り合い」の沈黙ではない。お互いの最も醜い部分――凪の傷へのコンプレックス、葉月の歪んだ執念と弱さ――をすべて晒し合い、それでも拒絶せずに隣にいることを選んだ、「共犯者」としての安堵に満ちた沈黙だった。


 遠くで、電車の通過音が聞こえる。ガタン、ゴトン、というリズムが、二人の足音と重なる。

 凪は、隣を歩く葉月の横顔を盗み見た。彼女は前を向いて歩いているが、その足取りはどこか心許ない。今日の感情の爆発で、彼女は多くのエネルギーを使い果たしてしまったのだろう。そして明日からはまた、あの「戦い」の日々が待っている。


 分かれ道、駅の改札が見えてきたところで、凪は足を止めた。

 ここで「じゃあね」と言って別れるのは、簡単だ。

 でも、それでは足りない気がした。

 今日、彼女が見せた涙。その重みを受け止めた自分には、果たすべき責任があるような気がした。


「あのさ、葉月さん」

 凪が口を開く。自分の声が、夜の空気に吸い込まれていく。


 葉月が立ち止まり、振り返った。「なあに?」


 凪は、真っ直ぐに彼女の目を見た。

「明日、学校まで……一緒に登校しない?」


 葉月が少し目を丸くした。

 今まで、偶然を装って一緒に帰ることはあっても、朝から堂々と待ち合わせて登校したことはなかった。それは、二人の関係を一歩進めること。周囲に「二人は一緒だ」と宣言することに等しい。

 そして何より、それは凪からの無言のメッセージだった。

『僕は、朝から君を支えたい』

『君が戦うなら、僕はその盾になる』

『もう、隠れて会う必要なんてないんだ』


 葉月は、一瞬驚いた顔をしたが、すぐにふわりと表情を緩めた。

 泣き腫らした目はまだ赤かったが、そこに浮かんだ笑顔は、今日見たどの表情よりも柔らかく、そして自然だった。


「うん」

 彼女は小さく頷いた。

「うん、したい。一緒に行こう、凪くん」


 その声には、あの痛々しい「力み」はなかった。少し鼻にかかった、甘えたような、ありのままの彼女の声の響き。

 凪は、その音が世界で一番愛おしいと思った。


「じゃあ、明日の朝、駅前のパン屋で」

「うん。楽しみにしてる」


 二人は手を振って別れた。

 凪は、改札を抜けてホームへと向かう葉月の背中が見えなくなるまで、ずっと見送っていた。

 夜の空気はまだ蒸し暑かったが、凪の胸の中には、爽やかな風が吹き抜けていた。



 翌朝。

 午前七時五十分。通学路にある駅前のパン屋の前。


 凪は、約束の時間より十分も早くそこに立っていた。

 店からは、焼きたてのクロワッサンやメロンパンの、バターと小麦粉が焦げる甘く芳醇な香りが漂ってくる。それは、生きることそのものを肯定するような、幸せの匂いだった。

 朝の光が、街路樹の隙間から降り注ぎ、アスファルトに木漏れ日の模様を描いている。昨日の夕方の、部室の重苦しい空気とは対照的に、世界は輝きに満ちていた。


 凪は、ショーウィンドウのガラスに映る自分を見た。


 マスクはない。

 唇の傷跡も、歪みも、朝の光の下でははっきりと見える。

 通り過ぎる通勤客や、他校の生徒たちが、ちらりと彼を見る。しかし、凪はもう俯かなかった。背筋を伸ばし、ガラスの中の自分と目を合わせる。

(大丈夫だ)

 心の中で呟く。僕には、待っている人がいる。そして、僕を待ってくれている人がいる。その事実だけで、彼はどこまでも強くなれる気がした。


「凪くん!」


 名前を呼ばれ、凪は弾かれたように顔を上げた。

 交差点の向こうから、葉月が小走りで駆けてくる。

 制服のスカートを翻し、朝の光の中を走ってくる彼女。

 昨日の涙のせいで、目はまだ少し腫れぼったいかもしれない。けれど、彼女はそれを隠すための伊達メガネも、マスクもしていなかった。

 ありのままの顔で。ありのままの笑顔で。


 彼女が凪の目の前で立ち止まり、息を弾ませる。

 二人の目が合う。

 言葉はいらなかった。昨日の部室での出来事、共有した痛み、そして誓い合った共闘の意思。すべてが、視線一つで通じ合う。


「おはよう、凪くん」

 葉月が言った。鼻にかかった、優しい声で。


「おはよう、葉月さん」

 凪も返した。隠すもののない、素の声で。


 たったそれだけの挨拶。ありふれた日常の言葉。

 しかし、その「おはよう」は、互いの秘密と弱さを全て受け入れた上で、新しい一日を共に始めるための、特別な儀式の言葉だった。

 運命共同体としての点呼。


「行こうか」

「うん!」


 二人は並んで歩き出した。

 肩が触れ合う距離。二つの影が朝のアスファルトの上で重なり合い、一つになって、夏めく街の喧騒へと溶けていく。

 葉月の「戦い」は続く。凪の「受容」の旅も続く。

 しかし、彼らはもう一人ではない。

 パン屋のガラスに映った二人の後ろ姿は、不完全なままで、けれどどこか誇らしげに、未来へと歩を進めていた。


 葉月は朝の光を浴びながら、深く息を吸い込んだ。その横顔は、昨夜、部室で感情を爆発させ、泣きじゃくっていた少女とは別人のように穏やかだった。だが、その瞳の奥には、洗い流された後の砂浜のような、清冽で少し寂しい静けさが残っていた。



「パンの匂い……やっぱり最高だね」

 葉月は足を止め、焼きたての小麦の香りが漂う方角へ顔を向けて、愛おしそうに目を閉じた。

「この匂い、ちゃんと覚えておかなきゃ。次の手術のあと……口が開かなくて、流動食しか喉を通らなくなった時、凪くんから話を聞くためのヒントにするから」

 その言葉に含まれた「次の痛み」への予感に、凪の胸がちくりと痛んだ。しかし、彼はもう目を逸らさないと決めていた。

 凪は優しく、けれど力強く微笑んだ。


「任せて。香りも、温度も、パンの皮が弾ける音も。全部、写真に撮るみたいに記憶のフィルムに焼き付けておくよ。そして、僕はそれを君に伝えるための、世界で一番ぴったりの言葉を探しておく」

「ふふ、責任重大だね、カメラマンさん」

「ああ。君専属だからね」


 二人は肩が触れ合うほどの距離で、並んで歩き出した。

 これまでは、マスクという薄い布一枚が、凪と世界を隔てる「壁」であり、唯一の「守り」だった。その壁を取り払った今、頬を撫でる朝の風は驚くほど冷たく、そして生々しい。鼻から抜ける自分の呼吸音も、隠すものがなければ、あまりにも無防備に世界へ響いてしまう気がした。

 すれ違う通行人の視線が、一瞬だけ凪の口元に留まる。そのたびに、条件反射で心臓が早鐘を打ち、ポケットの中の手が汗ばむ。

 けれど、凪は逃げなかった。

 隣に、葉月がいるからだ。

 彼女の存在が、マスク以上に強固な「お守り」となって、凪の震えを鎮めてくれる。彼女もまた、完璧な発音という鎧を脱ぎ捨て、不完全なままの自分を、凪という鏡に映して歩いているのだから。


 葉月にとっても、この朝は革命だった。


 幼い頃から積み上げてきた「完璧な優等生」という虚像。それは、凪にもう一度会うための切符であると同時に、彼女自身を窒息させる檻でもあった。

 凪の隣を歩く今、彼女はその檻の鍵が開かれたことを感じていた。一歩踏み出すたびに、足取りが軽くなる。アスファルトを踏むローファーの音が、今までよりも軽快なリズムを刻む。それは、ただの通学路ではない。「普通の高校生」として、欠落を抱えたまま世界と呼吸を合わせる喜びにあふれた行進だった。


 通学路の途中、二人は示し合わせたように足を止めた。


 そこには、新しく建ったオフィスの、巨大なガラス張りの壁面があった。朝陽を反射して輝くそのガラスは、街の風景を切り取る巨大なスクリーンのようであり、残酷なまでに鮮明な「鏡」でもあった。

 凪は、そこに映る自分たち二人の姿をじっと見つめた。

 ガラスの中の少年は、マスクをしていない。人中には、白く微かな縫合線が走っている。

 ガラスの中の少女は、完璧な笑顔の仮面を外している。その唇には、何度もメスを入れられ、形を整えられた戦いの痕跡がある。


 かつて、二人は鏡を呪っていた。


 鏡に映る自分の顔は、いつだって「普通」とは違っていた。左右非対称の唇、歪んだ歯列、押しつぶされたような鼻の形。鏡は常に、現実という名の絶望を突きつける、冷酷な審判者だった。

 けれど今、凪の目に映るその「鏡」の光景は、何よりも美しく見えた。

 葉月がそっと手を伸ばし、ガラスに映る凪の顔──その傷跡のあたり──に指先を重ねようとする。しかし、ガラスの冷たさに触れる直前で指を止め、振り返って、実像の凪を見つめた。


「ねえ、凪くん」


 葉月の声は、朝露のように震えていた。


「私たちがこうして、隠さずにここに立っていること……これって、過去の私たちへの『裏切り』になるのかな」

 ずっと隠し通すと誓った。誰にも見せないと決めていた。その誓いを破り、日の光の下に晒しているこの傷跡。

 凪は首を横に振った。


「違うよ、葉月」


 凪の声は、わずかに鼻にかかっていたが、それはもう恥ずべきノイズではなく、彼だけの固有の音色だった。


「これは裏切りじゃない。……『共犯』だ」

「共犯?」

「そう。僕たちは、世界が押し付ける『完璧さ』というルールを破る共犯者になったんだ。傷があるままで幸せになるなんて、許されないと思っていた過去の自分たちを、二人で連れ出してやるんだよ」



 葉月の大きな瞳が揺れ、そこに涙の膜が張る。けれどそれは悲しみの涙ではなく、光を乱反射させるためのプリズムだった。



「共犯者……。ふふ、そっか。私たち、悪い子だね」

「ああ、最悪で、最高に悪い子だ」



 二人の間に、誰も立ち入ることのできない、透明だが決して割れない固い絆が結ばれた瞬間だった。

 それは、言葉による契約ではない。互いの傷の深さを知り、その痛みの形状がパズルのピースのように噛み合うことを知ってしまった者同士だけが共有できる、血よりも濃い信頼の証。

 ガラスに映る二つの影が、朝の光の中で重なり合う。

 それはまるで、一つの新しい生き物が誕生したかのようなシルエットだった。

 これから先、葉月の「戦い」は続く。顎の骨を切り、顔の形を変えるという壮絶な手術が彼女を待っている。その痛みは、今日のパンの匂いさえ思い出せなくなるほど過酷かもしれない。

 凪の「自分を受け入れる旅」もまた、平坦ではない。好奇の目に晒され、言葉が詰まる瞬間は何度でも訪れるだろう。



 しかし、もう孤独ではない。

 冷たい手術室のベッドで目覚める時も、言葉が出ずに立ち尽くす教室の隅でも、彼らの魂は常に隣にある。

 凪は制服のポケットの中で、愛機の一眼レフを構えるように、指を動かした。

 人差し指を、シャッターボタンに見立てた空中の一点に置く。

 被写体は、目の前の「現在」。



 フレームに収めるのは、不完全な僕たちの、完全な一瞬。


 けれど、凪はその指を押し込まなかった。


 シャッターは切らない。


 ファインダー越しに切り取ってしまえば、この光景は「過去」になってしまう。写真という静止画に閉じ込めてしまうには、今のこの空気の揺らぎ、葉月の体温、二人の鼓動の共鳴は、あまりにも鮮やかすぎた。

 これは、記録に残すものではない。記憶の、もっと深い場所。魂のフィルムに直接焼き付けるべき、「永遠」の一瞬なのだ。

 今のこの景色こそが、言葉や写真には収めきれない、彼ら二人にとって最も大切な「真実」だと分かっていたからだ。



「行こう、葉月」

「うん、行こう。凪くん」



 二つの、まだ不完全な影は、朝の光の中で確かな希望の形となり、夏の気配が漂い始めた街の喧騒の中へ、誇りをもって進んでいった。

 その背中は、どんなに整った「完璧」な人間たちよりも、強く、美しく見えた。


つづく


何かを感じて頂けたら、ブクマ&評価(又は感想)をお願いします。


よろしくお願いします

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