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第10話:「完璧」は君自身を傷つけている

 7月中旬。期末テストが終わった解放感と、これから始まる夏休みへの期待が入り混じり、教室の空気は熱く、そしてどこか落ち着きなく浮足立っていた。


 窓の外では、まだ梅雨明け宣言もされていないというのに、気の早い入道雲が湧き上がり、蝉の声が遠くから校舎を包囲するように響き始めている。


 水川凪は、教室の自席でじっと前を見据えていた。

 彼の顔には、もうマスクはない。


 教室の天井に設置された業務用エアコンが、低い唸り声を上げながら冷気を吐き出している。


 その人工的な風が、凪の顔の下半分、特に鼻の下から上唇にかけて刻まれた人中の瘢痕はんこんと、微妙な非対称を描く唇の稜線に直接ぶつかっていた。

 冷たい。そして、くすぐったい。


 不織布というフィルターを通さずに触れる世界は、凪にとってあまりにも刺激が強すぎた。風が皮膚を撫でるたびに、産まれたばかりの皮膚が外気に驚いているような、頼りない心許なさを感じる。


 まるで、身体の一部が欠損したまま戦場に立っているような、あるいは防具をつけずに打席に立っているような、ヒリヒリとした焦燥感が彼を襲っていた。


 しかし同時に、それは圧倒的な「自由」の感覚でもあった。


 息を吸う。フィルターの繊維に阻まれることなく、大量の酸素がダイレクトに鼻腔を通り、歪んだ口蓋の奥へと流れ込み、肺を満たす。


 息を吐く。自分の体温を含んだ空気が、誰にも遮られることなく世界へと溶けていく。

 それは暴力的なほどの呼吸のしやすさだった。


 世界と自分の境界線にあった白い壁がなくなり、皮膚一枚でこの喧騒と繋がっている。凪に恐怖以上の高揚感を与えていた。


「おい、水川」


 不意に声をかけられ、凪は肩を跳ねさせた。


 声の主は、前の席の男子生徒だった。彼は珍しい生き物を見るような目で、まじまじと凪の顔を覗き込んだ。


「お前さ、なんか雰囲気変わった? つーか、マスク取ると意外と大人っぽい顔してんだな」


 悪意のない、純粋な好奇心。以前の凪であれば、その視線に射抜かれただけで俯き、冷や汗を流していただろう。


 自分の傷が見られている、歪みが見られている、と被害妄想に囚われ、再びマスクの奥へと逃げ込んでいたはずだ。


 だが、今の凪は違った。彼は無意識に口元に手をやりそうになるのをこらえ、引きつりながらも、小さく口角を上げた。


「……そう、かな。ちょっと、暑かったから」


「だよなー。今年の夏、異常だよな。俺も授業中寝てて汗だくだわ」


 男子生徒はあっさりと納得し、また別の友人と話し始めた。


 それだけだった。


 凪が何年もかけて築き上げてきた「隠蔽」という名の城壁を取り払っても、世界は崩壊しなかった。好奇の視線は確かに突き刺さる。


 傷跡に目線が止まる瞬間も分かる。


 しかし、それは一瞬のことであり、次の瞬間には彼らはそれぞれの日常へと戻っていく。

 凪は、拍子抜けすると同時に、腹の底から湧き上がるような、静かな実感を噛み締めていた。



(僕は、ここにいる。隠れずに、ここにいる)



 ふと、視線を感じた。


 教室の喧騒を切り裂くように、特定の「波長」が凪に届く。彼は反射的にその方向を見た。

 教室の中央、女子グループの輪の中に、遠野葉月がいた。


 彼女は、友人たちの話に相槌を打ちながら、楽しげに笑っていた。


 窓から差し込む夏の光が、彼女の艶やかな髪を透かし、完璧な横顔のシルエットを浮かび上がらせている。誰からも好かれる、明るく聡明な転校生。

 それが彼女の役柄だ。

 しかし、凪と目が合った瞬間、彼女の瞳が一瞬だけ細められた。


 それは合図だった。


『マスク、外してるね』

『うん、外してるよ』



 言葉など交わさなくても、互いの思考が手に取るように分かる。

 周囲の生徒たちが放つ極彩色のノイズの中で、凪と葉月の間だけには、深海の静寂のような、二人だけのチャンネルが通っていた。


 葉月は視線を戻し、再び友人との会話に戻った。


「えー、本当に? それってすごく楽しみだね」


 鈴を転がすような、クリアで美しい声。


 周囲の誰もが、その声に何の違和感も抱いていない。

 だが、凪だけは気づいていた。


 彼女が「すごく」と言った瞬間。


 彼女の舌先が、上顎の歯茎の裏側に、異常なほどの強さで押し当てられたことを。

 口蓋裂特有の、鼻に空気が漏れる音(鼻咽腔閉鎖不全による開鼻声)を防ぐために、彼女は舌を物理的な「蓋」として機能させているのだ。


「サ行」の摩擦音を綺麗に出すためだけに、彼女の口の中では、コンマ一秒の間に凄まじい筋肉の運動が行われている。


 それは、水面下で必死に足を掻く白鳥の姿よりも、もっと切実で、もっと痛々しい。


 凪には、彼女の声が、極限までチューニングされ、今にも切れそうなほどに張り詰めたバイオリンの弦の音のように聞こえた。


(痛くないのかな……)


 凪は胸が締め付けられる思いだった。

 彼女のその「完璧さ」が、どれほどの犠牲の上に成り立っているのかを、この教室で知っているのは凪一人だけだ。


 その事実が、二人を強固な「共犯者」として結びつけていた。


 放課後を告げるチャイムが鳴ると、教室の空気は一気に弛緩した。


「じゃあね、バイバーイ!」

「カラオケ行こうぜ!」


 生徒たちが波のように教室から引いていく。

 凪は鞄を手に取り、ゆっくりと席を立った。


 葉月もまた、友人たちに手を振りながら、自然な流れで教室を出る。


 二人は廊下で合流した。並んで歩く距離は、以前よりもずっと近い。


「お疲れ様、凪くん。テスト、どうだった?」


 葉月が小声で話しかけてくる。

 周囲にはまだ他の生徒がいるため、彼女の声は「よそ行き」のままだが、その響きには微かな甘えが含まれていた。


「……数学が、ちょっと危ないかも。葉月さんは?」

「私は完璧。……と言いたいところだけど、古文がね。係り結びの法則、ど忘れしちゃって」


 くすくすと笑う葉月。

 その笑顔の端、口角のあたりに、ファンデーションが微かにヨレているのを凪は見逃さなかった。

 一日中、表情筋を酷使し、発音を制御し続けた証拠だ。


 廊下の湿度は高く、まとわりつくような熱気が二人を包んでいる。


 しかし、凪にとってその不快指数さえも、今は愛おしかった。


 自分たちは、この学校でただ二人の「こちら側」の人間だ。

 傷を持ち、音を恐れ、それでも普通を装って生きている異邦人。


 その連帯感は、夏の熱気よりも熱く、そして甘美な秘密として、二人の心臓を同じリズムで脈打たせていた。


「写真部、行くよね?」

「うん。現像したいフィルムがあるんだ」


 二人は目配せをし、渡り廊下を歩いていく。

 その背中は、傍から見ればただのクラスメイトの男女に見えただろう。

 しかし、その影は夕陽に照らされて長く伸び、足元で一つに溶け合っていた。





 写真部の部室は、校舎の端、古びた特別棟の三階にあった。


 ドアを開けると、現像液の微かな酸っぱい匂いと、埃っぽい紙の匂いが混ざり合った、凪にとっての「聖域」の空気が満ちていた。

 西日が窓から低い角度で差し込み、部室の中を鮮烈なオレンジ色に染め上げている。その光は、部屋の中にある古い机やパイプ椅子、そして壁に貼られた写真たちの凹凸を残酷なまでに際立たせていた。


 それは、すべてを暴く光だった。


 凪は窓を開け、淀んだ空気を入れ替えた。

 葉月は慣れた様子でパイプ椅子を引き、窓際の日向に腰を下ろした。逆光の中、彼女の髪が黄金色の光輪のように輝いている。


「凪くん、マスク外してると、やっぱり新鮮だね」


 葉月が、逆光に目を細めながら言った。


「そう? ……まだ、なんかスースーするけど」


 凪は照れ隠しに鼻の下を指でこすった。そこにある硬い瘢痕の感触。


「ううん、いいよ。すごくいい。あなたが世界に対して、扉を開けた証拠だもん」

 葉月は優しく微笑んだ。しかし、その笑顔はどこか寂しげで、凪の胸に小さな棘を刺した。


 凪は、椅子を彼女の近くに引き寄せ、向かい合って座った。

 ずっと聞きたかったことがあった。いや、聞かなければならないと思っていたことが。


「葉月さん」


 凪の声が少し低くなる。


「君の、その……完璧さについて。ずっと考えてたんだ」


 葉月の微笑みが、ふっと静止画のように固まった。


「僕がマスクを外せたのは、君がいてくれたからだ。君が『同じだ』って言ってくれたから。でも……」


 凪は言葉を選びながら、しかし視線は逸らさずに彼女を見つめた。


「君は、僕なんかよりもずっと、その傷を隠すのが上手い。上手すぎるんだ。発音も、見た目も。……どうして、そこまで完璧に隠そうとしたの? 君なら、少しぐらい甘えたって、誰も責めないのに」


 部室の空気が、一瞬にして張り詰めた。

 窓の外で鳴く油蝉の声だけが、やけに大きく聞こえる。

 葉月は、ゆっくりと自分の唇に手をやった。


 その指先が、丁寧に塗られたルージュの上をなぞる。


「……見て、凪くん」


 彼女の声は、氷のように冷たく、そして透明だった。


「近くに来て。もっと、近くに」


 凪は息を飲み、彼女の顔に顔を近づけた。


 その距離、数センチ。お互いの呼吸がかかるほどの距離で、凪は彼女の唇を凝視した。

 遠目には、あるいは普通の距離では、完璧な曲線を描いているように見えたその唇。


 しかし、西日の強い光の下、至近距離で見せつけられた「それ」は、凪の想像を絶するものだった。


 傷跡は、凪のものより遥かに小さい。糸のように細い。


 だが、その皮膚の質感が異様だった。

 周囲の健康な肌色とは明らかに違う、血の通わない白磁のような白さ。

 そして、何度も何度も皮膚を引っ張り、切り取り、縫い合わせたことによる、ビニールのように薄く引きつった光沢。


 それは「自然に治癒した傷」ではなかった。


「そこにあった傷」を、レーザーで焼き、メスで切り刻み、強引に平坦にならした、「徹底的な排除と隠蔽」の痕跡だった。



 まるで、何度も書き直されて紙が薄くなってしまったノートのページのように、彼女の人中と唇は、過剰な修正によって悲鳴を上げているように見えた。


「……っ」


 凪は言葉を失った。痛々しい、という言葉では足りない。

 そこには、幼い少女が自らの顔に対して振るった、凄まじい暴力的な執念が刻まれていた。


 これは、美しさではない。

 これは、戦場だ。


 ミクロ単位の戦場だ。


「ここまで……痛くなかったの?」


 凪の声が震えた。


 葉月は指を離し、歪んだ笑みを浮かべた。その目は全く笑っていなかった。


「痛いよ。麻酔が切れた後の夜は、いつも顔が燃えるように熱かった。抜糸のたびに、皮膚が引き裂かれるような音がした気がした」


「じゃあ、どうして……!」


「私が、この傷が大嫌いだからよ」


 葉月は吐き捨てるように言った。

 その声には、今まで聞いたことのないドス黒い感情が渦巻いていた。


「凪くん、あなたは勘違いしてる」


 葉月は椅子から立ち上がり、凪を見下ろした。逆光で彼女の表情が陰になり、見えない。


「私は、この口唇口蓋裂を『個性』だなんて思ったことは一度もない。『神様がくれた試練』だなんて綺麗な言葉で飾るつもりもない。私にとって、これはただの『弱点』。私の人生における『エラー』よ」


 凪は圧倒され、動けなかった。

 彼女の言葉の一つ一つが、重い礫となって降り注ぐ。


「エラーなら、修正しなきゃいけない。バグなら、排除しなきゃいけない。私はそのためなら、何度だってメスを入れるし、何千時間だって発音練習をする」


 彼女は一歩、凪に近づいた。


「あなたのように、傷があるから仕方ないとマスクをして、日陰で生きることは……私に言わせれば、ただの『諦め』でしかないの」


「諦め……?」


 凪の心臓が早鐘を打つ。

 今まで、自分の生き方は「受容」だと思っていた。

 傷を受け入れ、静かに生きる。それが自分なりの強さだと。


 しかし、葉月はそれを真っ向から否定した。


「そうよ。あなたは優しいから、傷を受け入れようとしたんでしょう。でも、私は違う。私は戦う。この顔が、この声が、私の幸せを邪魔しないように。完璧になるまで、私はこの肉体と殺し合うの」


 彼女の言葉には、医療用語のような冷徹さと、戦士のような激しさがあった。


「機能美」でもなく、「自然美」でもない。

 彼女が求めているのは、傷跡を完全に消し去った先にある「人工的な完全無欠」。


 その哲学は、凪の「ありのままの不完全さを愛する」という写真の美学とは、対極にあるものだった。


 凪は、目の前にいる少女が、急に遠い存在に思えた。

 彼女は、凪が想像していたような「同じ痛みを分かち合う仲間」などではなかった。

 彼女は、傷という理不尽な運命に対して、血まみれになりながら剣を突き立て続ける、孤独な戦士だったのだ。




 部室の空気が、鉛のように重く沈殿していく。


 凪は反論できなかった。


 彼女の凄まじい覚悟の前に、自分の「受容」がいかに生温いものだったかを突きつけられ、打ちのめされていたからだ。


 葉月は、荒くなった息を整えるように、一度大きく深呼吸をした。


 そして、窓の外の夕焼けに視線を移した。その横顔は、戦いを終えた後の兵士のように、酷く疲弊して見えた。


「……まだ、終わりじゃないの」


 葉月がポツリと漏らした。


「私の戦いは、まだ終わってない。次があるの。まだ、もっと完璧になれる」


 凪は顔を上げた。


「次?」


「冬休みにね……入院するの」



 葉月は窓ガラスに映る自分の顔を見つめながら言った。


「骨を切るの。上顎と下顎の骨を一度切り離して、正しい位置に動かして、チタンプレートで固定する。そうすれば、受け口も治るし、顔の歪みももっと少なくなる」


 顎矯正手術(ルフォーⅠ型骨切り術および下顎枝矢状分割術)。


 凪もその手術の存在は知っていた。成長期が終わった口唇口蓋裂患者に提示される、最終的かつ最大の治療法。


 しかし、それは顔面の骨格そのものを変える大手術であり、術後の苦痛やリスクも甚大だ。

 凪は、医師から提案された時、恐怖と「そこまでしなくても」という思いで断っていた。


「葉月さん、それって……」

「やらなきゃいけないの。完璧になるために」


 葉月は自分に言い聞かせるように、早口でまくし立てた。


「先生も言ってた。これで噛み合わせも良くなるし、発音ももっとクリアになるって。もっと綺麗な私になって、もっと胸を張って……」



 彼女の声が、微かに震え始めた。


 そ


 言葉が続かない。

 まるで、壊れたレコードのように、同じ言葉を繰り返す。

 葉月が窓枠を掴む手が、白くなるほど強く握りしめられているのを、凪は見た。



「……怖い」


 その一言は、あまりにも小さく、そしてあまりにも切実だった。


 今まで張り詰めていた糸が、プツンと切れる音が聞こえた気がした。


 つづく


何かを感じて頂けたら、ブクマ&評価(又は感想)をお願いします。


よろしくお願いします。

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