第9話:ノイズを愛するオーケストラ
屋上での告白と再会の誓いを終えた二人は、静けさに包まれた校舎を出た。
背後で重厚な鉄扉が「ダン」と鈍い音を立てて閉ざされると、その音はまるで、今日まで二人が閉じこもっていた孤独な世界との決別の合図のように響いた。
文化祭の熱狂と喧騒は、すでに遠い過去の残響となり、祭りの後の独特な寂寥感と、それとは裏腹な安堵感が、校庭の砂利を踏む二人の足音に混ざり合っていた。
空は、燃えるような茜色から、深く静謐な藍色へと急速にその色を変えつつある。
夜の帳が降りるにつれ、眼下に広がる街の輪郭は曖昧に溶け出し、その境界線を失っていく。
校門を出て、駅へと続く長い大通りに差し掛かった時だった。
頭上を走る無骨な電線の下で、規則正しく並んだ街灯が、一つ、また一つと、「チカ……チカッ」と音を立てるようにして、オレンジ色の光を点し始めた。
冷たい夜の気配の中に、ナトリウムランプの温かい、しかしどこか人工的な光が滲んでいく。その光は、並んで歩く二人の足元に長く伸びる二つの影を落とし、二つの影は時に交わり、時に離れながら、まるでダンスを踊るように揺らめいていた。
凪の顔は、まだマスクを外したままだった。
夕暮れの冷たい晩秋の風が、彼の頬を、唇を、そして人中の瘢痕を直接撫でていく。その感覚は、彼にとってあまりにも新鮮で、同時に少しだけ心許ないものだった。
いつもなら、不織布の繊維が触れているはずの皮膚に、冷気が直接当たる。鼻の奥がツンとするような冷たさ。
しかし、その強張りは、恐怖や恥辱からくるものではなく、長年の緊張から解き放たれたことによる、産まれたばかりの皮膚が世界に触れるような、慣れない解放感だった。
彼は、自分の顔を誰にも隠していないという事実を、風の感触を通して噛みしめていた。
隣を歩く葉月もまた、あの完璧な笑顔の仮面を外し、肩の力が抜けた、等身大の少女の表情を浮かべていた。
彼女の頬には、文化祭の運営による疲労と、真実をすべて告げた後の清々しさが同居している。
「ふぅ……」
葉月が小さく息を吐くと、白い息が街灯の光に照らされて消えた。
彼女の口から零れる声は、微かに鼻音の混じる「本当の声」。そのありのままの声が、凪の鼓膜を優しく震わせる。
その事実に、凪の心は満たされていた。もはや、彼女の声の不完全さを隠す必要も、自分の声を偽る必要もない。
二人は、同じ不協和音を奏でる、世界で唯一のオーケストラとなったのだ。
葉月は、道の脇に咲く名も知らぬ雑草の花に目を留め、そっと視線を凪に戻した。
「あーあ、終わっちゃったね、文化祭。凪くんの写真部の展示、本当にすごかったよ。特にあの『雨上がりの水たまり』の写真。街灯の光が、水面に歪んで映っているんだけど、すごく優しかった。あれ、ポストカードにしてくれたら私、絶対に買うのに」
葉月がそう言うと、凪は少し照れたようにキャップのつばに触れた。
彼の胸には、葉月が自分の写真に込めた「無言の叫び」を理解してくれたことへの、深い感謝が広がっていた。
「ありがとう。葉月さんが『優しい音がある』って言ってくれたから、あれを展示する勇気が出たんだよ。ポストカードか……そんな需要、あるかな」
「あるよ! 少なくともここには一名、熱狂的なファンがいます」
葉月は、ふふ、と少し鼻にかかった柔らかな笑い声を漏らした。
それは、もはや誰にも隠す必要のない、凪にとって最も美しい音だった。その笑い声は、彼の心の中で、ずっと響き続けていた。
「優しい音よ。聞かせたいのに聞かせられない、あの音」葉月は静かに頷き、話題を変えた。
彼女は、凪が自分の声のコンプレックスを芸術に昇華させたことを理解しつつ、それを乗り越えようとする別の表現について言及する。
「ねえ、そういえば、昨夜放送していたあのドラマ見た? 最終回」
「ああ、見たよ」
凪は静かに答える。彼の足取りは、葉月と並んでいることで、以前よりもずっと確かなものになっていた。
「主人公が、どうしても伝えたい言葉を、自分の声ではなく、手話で表現するシーンだよね」
「そう! あれを見て、私、ボロボロ泣いちゃって……。昨日の夜、目が腫れないように冷やすの大変だったんだから」
葉月は自分の目元を指差して苦笑する。
「言葉にしなくても伝わることってあるんだなぁって。でも同時に、言葉にできないもどかしさも描かれていて……。主人公が叫ぼうとして、喉を押さえるシーンがあったでしょう? あの時の表情、私たちが発音練習で上手くいかない時と、少し似てた」
「うん、すごく分かった。自分の声じゃなくても、『伝えたい』という魂の叫びは届くんだなって思った。でも、葉月さんの場合は、その逆のアプローチだよね。自分の声で伝えられるように、あんなに壮絶な努力をしている」
「そうね……。私は、自分の声で、きちんと世界と渡り合いたいっていう執着が強すぎたのかもしれない。でも、凪くんのその写真のように、無言の表現もまた、真実を伝える力があることを、知ることができたの」
会話の合間に、商店街の有線放送から流行りのJ-POPが微かに聞こえてくる。
二人の会話は、シリアスな話題から、徐々に日常の、高校生らしい他愛のない話題へとスライドしていく。
それは、秘密の重さから解放された二人が、初めて築く「普通の日常」への入り口だった。
「そういえば、今週の『ブラックホールの恋人』の最新刊、もう読んだ? 葉月さん、あの漫画好きだって言ってたよね」
凪が尋ねる。
「読んだ読んだ! もう、あそこのシーン最高じゃなかった? あの主人公の科学者、本当に不器用で、言葉足らずで、でもヒロインのことだけはずっと考えてて……なんか、凪くんに少し似ているんだよね」
葉月がいたずらっぽく微笑む。彼女の瞳は、夜の光を吸い込んで、きらきらと輝いていた。
「えっ、僕が? あの極端に口下手な科学者に? ……まあ、確かに彼も、星ばかり見て、地面のことはよく躓くけど」
凪は苦笑しつつ、自分の足元を見た。
「僕はあんなに頭良くないし、ブラックホールの方程式なんて解けないよ」
「方程式は解けなくても、凪くんはシャッターで一瞬を切り取れるじゃない。それに、あの科学者が言ってたセリフ。『観測されない星も、そこには確かに存在している』ってやつ。あれ、凪くんが撮る写真のテーマそのものだなって思ったの」
葉月の指摘は鋭く、そして温かかった。
彼女は、凪が自分自身を「観測されない星」のように感じていたことすら、見抜いていたのかもしれない。
「明日の天気予報、見た?午後から雨らしいよ。しかも結構強く降るって」
凪がスマホを取り出そうとしながら言った。
「えー、嘘! どうしよう……私、傘持ってきてないかも。天気予報見るの忘れちゃっうかも」
「ああ、気圧が下がると、なんとなく傷口が疼く気がするんだよね。古傷が痛む、みたいな。おじいちゃんみたいだけど」
「分かる。縫合線の奥の方が、なんとなくチリチリする感じだよね。雨の日の前って、鼻の通りも悪くなる気がするし」
「そうそう! 分かってくれる人がいて嬉しい。普通の友達に言っても『気のせいだよ』で終わっちゃうもん。……帰りは、水たまりを避けながら歩かなきゃね」
「大丈夫だよ。僕が写真を撮る時みたいに、一番綺麗な水たまりを見つけて、そこを飛び越えればいい。もし酷かったら、僕の傘に入ればいいし」
凪の自然な言葉に、葉月は一瞬目を見開き、それから嬉しそうに目を細めた。
「ありがとう。じゃあ、明日は雨でも楽しみにしておこうかな」
二人は、商店街のアーケードの下に入った。軒先のネオンサインや、営業を終えた店のシャッターが、ひっそりと並んでいる。
ふと、凪がショーウィンドウに飾られた楽器店の前で足を止めた。そこには、最新のシンセサイザーや、音楽制作ソフトのパッケージが飾られていた。
「……あ、DTMソフトだ」
凪がポツリと呟く。
「DTM? ああ、パソコンで音楽作るやつ?」
葉月も足を止めて覗き込む。
「うん。実はさ、写真だけじゃなくて、いつか音楽もやってみたいなって、少し思ってるんだ。自分の声を使わなくても、メロディなら、綺麗な音で表現できるから」
凪の意外な告白に、葉月は興味津々といった様子で身を乗り出した。
「へぇ、すごい! 作曲ってこと? 凪くん、ピアノ弾けるの?」
「いや、全然。だからパソコンで打ち込むんだよ。でもさ……」
凪は、ショーウィンドウの値札を見て、深いため息をついた。
「始めるまでのハードルが高すぎてさ。まず、快適に動かすには高性能なパソコンが必要なんだ。メモリは最低でも32ギガはないと重くなるし、CPUも最新のじゃないと処理落ちする。グラフィックボードも積んで……ってなると、パソコンだけで20万は軽く超えるんだよ」
「に、20万……! 高校生のお小遣いじゃ、逆立ちしても無理だね……」
葉月も値札を見て絶句する。
「そうなんだよ。それに加えて、このDAWっていう作曲ソフト自体も数万円するし、さらに『ボーカロイド』とか『シンセサイザーV』みたいな歌声合成ソフトを入れたら、もう破産だよ」
凪は、苦笑いを浮かべながら、ガラスの向こうの煌びやかなパッケージを見つめた。
「ボーカロイドってさ、すごいよね。どんなに高い音でも、早い歌詞でも、絶対に息継ぎで失敗しないし、鼻に空気が漏れることもない。完璧な『理想の声』が、お金で買えるんだもんね」
その言葉には、憧れと、わずかな皮肉が混じっていた。
「……理想の声、か」
葉月は、自分の喉元に手を当てた。
「私が何年もかけて、血のにじむような訓練で手に入れようとした『完璧な声』が、ソフト一つで手に入るなら、ちょっと嫉妬しちゃうな。でも、それって寂しい気もする。完璧すぎて、引っかかりがないというか」
「うん、そうかもね。ノイズがない音は綺麗だけど、葉月さんの声みたいに、少し揺らぎがある方が、ずっと心に響くのかもしれない」
「えっ……」
葉月が顔を赤らめる。
「な、何よ急に。褒めても何も出ないよ?」
「事実だよ。……でもまあ、とりあえずはお金がないから、僕らは自分たちのこの『不完全な楽器』を使いこなすしかないね」
「ふふ、そうだね。私たちの身体、メンテナンス費用は高いけど、買い替えはきかないもんね」
二人は顔を見合わせて笑った。
その笑い声は、ショーウィンドウのガラスに反響して、夜の街に溶けていった。
話題は尽きない。
歩くペースは自然とゆっくりになり、二人の距離は、触れ合うほどに近い。
「あ、そういえばさ」
葉月が思い出したように、少し声を低くした。
「担任の、あの口うるさい斎藤先生。今日もひどかったんだよ」
「斎藤先生? ああ、あの生活指導の。また何か言われたの?」
「うん。今朝の廊下でね、私がちょっとマスクを外して水分補給してたら、飛んで来て『遠野、女子たるもの、廊下で大口を開けるな』とか、『もっと慎み深くしろ』とか、ネチネチ言われてさ。もう、The昭和!って感じ。私がどんな思いで口元の筋肉を気にしてるか、全然知らないくせに」
葉月が頬を膨らませて怒る仕草は、普段の「優等生・遠野さん」からは想像もつかないほど子供っぽく、愛らしかった。
「あはは、あの先生、本当に細かいよね。僕もさ、入学したての頃、マスクの色は白じゃないとダメだとか言われたことあるよ。『黒いマスクは威圧感がある』だって。僕にとっては、黒の方が影になって傷が目立たないから安心するのに、そんなこと説明しても『規則は規則だ』の一点張りでさ」
「うわー、最低! 本当にデリカシーないよね。あのお腹の出っ張りこそ、制服の着こなし違反で指導されるべきだよ」
「本当だね。今度、先生のネクタイが曲がってる写真撮って、『規則違反です』って突きつけてやろうかな」
「それいい! 凪くん、ナイスアイデア。共犯者として私も証言するよ」
二人は、共通の「敵」に対する愚痴で盛り上がり、クスクスと笑い合った。
学校という閉鎖的な社会の中で、理不尽な大人たちに振り回される、ごく普通の高校生の姿がそこにあった。
障害という重いテーマを共有しているが、それ以前に、彼らはただの十代の少年少女なのだ。
商店街を抜け、住宅街へと続く坂道に差し掛かる頃、街灯の間隔が広くなり、周囲は少し暗くなった。
ふと、葉月が空を見上げた。厚い雲が、星を隠し始めている。
「……ねえ、凪くん」
葉月の声色が、少し真剣なものに変わった。
先ほどまでの笑いを含んだ声とは違う、未来を見据える響きがあった。
「いつか、いつかだけれども……、私たち、一緒にどこかへ行かない?」
葉月の唐突な提案に、凪は足を止めそうになったが、そのままゆっくりと歩き続けた。
心臓が、トクン、と大きく跳ねた。それは、単なる遊びの誘いではないことを、彼も直感的に理解していたからだ。
「もし、その……顎矯正手術が上手くいって、私たちがもっと自由になれたら。ずっと行きたかった場所があるの。海辺の、小さな町なんだけど。ガイドブックで見たんだけどね、夕日が海に沈む時、世界が全部金色になって、言葉なんか何もいらなくなるくらい綺麗な場所なんだって」
顎矯正手術。
その単語が出た瞬間、二人の間に微かな緊張が走った。
それは、口唇口蓋裂の治療過程において、多くの患者が直面する、最も大きな山場の一つだ。受け口になったり、顔が歪んだりした骨格を治すため、顎の骨を切り、正しい位置に移動させる大手術。
術後は顎間固定で口が開けられず、流動食の日々が続く。
痛みも、腫れも、精神的な負担も、これまでの手術とは比較にならないほど大きいと言われている。
凪もまた、医師から手術の適用を提案されながらも、「どうせ変わらない」と逃げ続けてきた経緯がある。
「『言葉なんかなくてもいい』って思えるくらい、綺麗な場所か……」
凪は、葉月の言葉を反芻した。
言葉にコンプレックスを持ち、言葉に傷つき、言葉に縛られてきた二人。
そんな二人が、言葉を必要としないほどの美しさを共有しに行く。それは、ある種の「ゴール」であり、新しい「スタート」でもあるように思えた。
葉月は、凪の顔を覗き込んだ。
その瞳には、不安と、それ以上の強い希望が宿っていた。
手術という共通の試練が、すぐそこに迫っている。
しかし、それは彼女にとって、「完璧な未来へのチケット」であり、彼にとっては「諦めからの脱却」のチャンスかもしれない。
彼女は、凪にも一緒に戦ってほしいと、無言で訴えかけていた。
「行こう。もちろん」
凪は、しっかりと頷いた。迷いはなかった。
夜風が冷たくても、今の彼の体には、内側から湧き上がる熱があった。
「僕が、葉月さんの『言葉なんかなくてもいい』って思えるような、最高の景色を、カメラで全部記録するよ。絶対に」
凪は、深呼吸をした。冷たい空気が、彼の喉を通り過ぎる。その呼吸音には、もう迷いのノイズは混じっていない。
「そして、その旅の途中で、僕も、次の決意をするから。君が戦うなら、僕だけ逃げているわけにはいかない」
凪の言葉に、葉月の瞳が潤み、街灯の光を反射して揺れた。
彼女は嬉しそうに、そして誇らしそうに微笑んだ。
「うん。約束だよ、凪くん。私たち、もっと強くなれる。きっと」
街灯の連なりが、坂道の先まで続き、彼らの前途を、明るく、そしてどこまでも長く照らしていた。
オレンジ色の光の粒が、まるで滑走路の誘導灯のように、未来へと続いている。
二人の歩調は揃い、これまでの重い秘密の足枷から解放された、新しい運命共同体の旅路が始まろうとしていた。
彼らは、傷跡を隠すことなく、夜の街の光の中へと、確かな一歩を踏み出し続けた。二人の影は、いつまでも長く、寄り添うように伸びていた。
話題が尽きたのか、凪と葉月の一瞬の空白という沈黙。
その沈黙を破ったのは、葉月だった。
葉月は、凪の目を見て、真剣な表情に戻る。
「凪くん。私たち、まだ治療の旅の途中だよね」
凪は、微かに頷く。口唇口蓋裂の治療は、小児期の手術で終わりではない。
成長に伴う顔面や顎の非対称性、咬合不全を整える顎矯正手術が、多くの場合、思春期以降に待っている。
「実は私、近いうちに、顎矯正手術を受ける予定なの。完璧な笑顔と、完全な発音を、もう一度、自分の力で手に入れるために」
凪は、顎矯正手術の過酷さを知っている。
「葉月さん、それって……」
「そう。大きな手術だよ。でも、これは、あなたに二度と隠さないという、私なりの決意でもあるの」
凪は、葉月の強い決意に、一瞬言葉を失った。
「あなたはどうするの、凪くん? あなたの顎のずれは、写真を見れば一目瞭然でしょう。これ以上、人生を諦めないために、あなたも、私と一緒に……戦ってくれる?」
葉月の問いかけは、凪にとって、「逃げるか、戦うか」という人生最大の選択を突きつけるものだった。
凪は、ただ静かに、夜空を見上げた。
夜空には、秋の星々が、彼らの縫合線のように、無数に輝いていた。
彼は、まだ答えを出せないが、この旅が、葉月と二人で歩む、「再生と受容」の旅になることを確信した。
つづく
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