09 ラングレーの大叔母様の家
09 ラングレーの大叔母様の家
寄港の日、アイカはラングレーと並んで桟橋を歩いた。港町を抜け、山の中腹にあるラングレーの大叔母の家へ向かう。
足元が石畳から土の道に変わるころには、ゆるい坂道になっていた。
「もう少しです」
ラングレーが振り返る。
「ええ……」
アイカは返事をしてから、息を整えた。船の甲板を歩くのには慣れていても、こんな坂道は久しぶりだ。裾を少し持ち上げ、足元を確かめながら上っていく。
坂の上に建つ家の窓。白いレースの向こうに、人影が見える。
間もなく扉が開き、年配の女性が姿を現した。杖は使っていない。ゆっくりと、けれどまっすぐな足取りで階段を下りてくる。
「よくきたわね、ラングレー」
女性はラングレーをしっかりと抱きしめた。ラングレーが少し照れた顔をする。その表情は、いつもより幼く見えた。
ラングレーの大叔母は彼から離れると、アイカに向き直った。
「あなたは、ラングレーの……」
「同僚のアイカ・レトワールと申します」
アイカが答えると、大叔母は目を細めた。
「まあ、一緒にお仕事をしている方なのね。よくいらしてくださったわ」
アイカが差し出した紅茶の包みを受け取ると、ラングレーの大叔母は添えたカードに目を留めた。
「この字、あなたが書いたの?」
「はい」
「まだ、こんなふうに書ける人がいたのね」
ラングレーの大叔母はカードを眺め、指先でそっと端を押さえた。
文字を褒められると、アイカの心に祖母の顔が浮かんだ。文字を書くことは、祖母が彼女に教えてくれた大切なものだった。
「祖母に教わりました」
「まあ。それは素敵ね」
ラングレーの大叔母はアイカの手を取って微笑んだ。
家の中には、花の香りと海の匂いが満ちていた。石造りの床が奥へと続き、木の手すりはつやつやと磨かれている。窓の向こうには段々畑が広がり、庭には背の高い糸杉とオリーブ、淡い色の薔薇が植えられていた。噴水の水音も聞こえる。
(ラングレーが話してくれたとおりだわ。ううん、想像していた以上に美しい)
お茶と菓子が運ばれた。
「さあ、どうぞ。山の蜂蜜を使っているの」
一口食べると、素朴であたたかい甘さが広がった。船でいただく洗練された菓子とは違う。何故だか、少し泣きたくなる味だった。
ラングレーは二つ目を食べ終えたところで、椅子にもたれて目を閉じた。
「……少しだけ」
そう言ったきり、すぐに寝息が聞こえはじめる。
(この家にいると、ラングレーは子どもに戻るのね)
あの坂道を上ってきて、疲れも出たのかもしれない。
ラングレーの大叔母はラングレーを見て、くすりと笑った。
「昔から、この子はここに座ると眠るのよ。変わらないわ」
起こさないよう声を落として、ラングレーの大叔母は紅茶の包みに目を向けた。そこには鳥の絵が描かれている。
「この鳥、春告げ鳥っていうの」
ラングレーの大叔母はそこで言葉を切った。しばらく絵を見つめてから、アイカに顔を向ける。
「戻ってこなかった人の話を、聞いてくださる? あの人を覚えているのは、もう私だけになったの。だから、誰かにも覚えていてほしくて」
「はい。聞かせてください」
アイカが答えると、ラングレーの大叔母は小さくうなずいた。
「兄が亡くなってから、誰も私を名前で呼ばなくなったの。私は末の娘でね、家族にずいぶん甘やかされて育ったわ」
懐かしむような声で、彼女は続けた。
「兄はいつも、レイチェル、気をつけて。レイチェル、これを食べてごらんって。今は皆、叔母さんとか大叔母さんと呼ぶでしょう。ときどき、レイチェルと呼ばれたくなるのよ」
アイカは黙って耳を傾けた。
「ロバートと知り合ったのは、春告げ鳥が鳴くころだったわ。あの鳥が鳴きはじめると、春がくるの。出会った朝はまだ寒くて、土の匂いに草の青い匂いが少しだけ混じっていた」
ラングレーの大叔母の視線が、窓の外へ向かう。
「あの人が笑うと、何故か春告げ鳥が鳴くのよ。遠くで一声、近くでもう一声。あの人の笑顔に返事をするみたいに」
「ロバートさんも、その鳥の声を聞いていたのでしょうか」
アイカが尋ねると、彼女はうなずいた。
「ええ。二人で顔を見合わせて笑ったわ」
ラングレーの大叔母も微笑んだ。けれど、その笑みはすぐに寂しそうなものに変わった。
「次に春告げ鳥が鳴いたとき、あの人は戦争に行ってしまった」
テーブルの上で、彼女は両手を重ねた。
「出発する前に、笑って待っていてねって言ったのよ。あの人も笑っていたわ。わざと大げさに、何度もね。私が忘れないように」
彼女は一度、唇を結んだ。
「私はうなずいた。うなずくしかできなかったの」
開けた窓から風が入り、カーテンを揺らした。静かな部屋には、ラングレーの寝息が聞こえている。
「笑った顔を覚えているはずなのに、いちばんはっきり思い出せるのは、振り返らずに歩いていった背中なの。肩の線も、土を踏む足音も覚えているわ」
「振り返らなかったんですね」
アイカが静かに言うと、彼女は首を振った。
「振り返れなかったのよ。あの人、泣いていたもの」
ラングレーの大叔母は困ったように笑った。
「笑って待っていてねと言ったばかりなのに、自分が先に泣いてしまったの。私に泣き顔を見せたくなかったんでしょうね」
彼女は窓の向こうを見つめたまま続ける。
「私は約束を守ったわ。いつ振り返ってもいいように、笑って見送った。だけど、あの人は一度も振り返らなかった。私の笑顔を見せたかったのに」
アイカには返す言葉が見つからなかった。紅茶のカップを置き、彼女の手にそっと触れる。
「でもね、アイカさん」
「アイカと呼んでください」
アイカが言うと、ラングレーの大叔母は彼女を見た。
「……アイカ。私ね、待ちくたびれてしまったの。一人で不幸だったわけではないわ。だけどね……ここはこんなに美しいのに、もうここで待っていたくないと思うことがある。ロバートに会いたいの」
その声は静かだった。アイカは彼女の手を握ったまま、名前を呼んだ。
「レイチェル」
「ああ……」
レイチェルは目を細めた。
「そう呼ばれると、昔に戻れるわ。世界が素敵なもので満ちていたころに」
彼女はアイカの手を握り返した。
「ありがとう、アイカ。あの人に会えるまで、笑って待つわ。今度こそ、ちゃんと見てもらえるように」
「ええ、レイチェル」
そのとき、隣でラングレーが身じろぎした。
「ん……あれ、寝てしまった。何時ですか?」
寝ぼけた顔で時計を探す彼に、レイチェルが笑いかける。
「ちょうどよかったわ。そろそろ船へ戻る時間よ」
ラングレーは慌てて姿勢を正した。
「すみません。せっかくきたのに」
「よく眠っていたわよ。またいらっしゃい」
「うん。またくるね、大叔母様」
家を出て、坂道を下る。振り返ると、レイチェルは扉の前に立ち、手を振っていた。
アイカも手を振り返した。
「さようなら、レイチェル」
声は風に紛れるほど小さかったけれど、彼女は微笑んだ。
船に戻ってからも、アイカはレイチェルのことを考えていた。
ロバートが戻らなかったあとのことを、彼女はほとんど語らなかった。どんな日々を過ごし、何を楽しみに生きてきたのだろう。きっと、周りの人たちにも大切にされてきたのだろうと、アイカは思った。勝手に推し量るのは失礼かもしれない。それでも、考えずにはいられなかった。
あの美しい家で、これからも穏やかな日々を過ごしてほしいと、アイカは願った。
その夜、アイカは歩き疲れて、早めにベッドへ入った。
ロバートのエピソードは私の短編「春告げ鳥」を元にしております。
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