10 思いがけない歓迎
10 思いがけない歓迎
港に近づいたとき、甲板の空気がどこか浮き立ってきた。
いつもより旗が多い。桟橋の先に、楽団らしき人影。色とりどりの布が揺れている。
「式典の準備のようですね」
ラングレーが、遠くを見ながら言った。
「連絡はありましたか?」
アイカが尋ねると、ラングレーは首を横に振った。
「いえ、聞いていません」
そこへ船長が歩み寄り、首をかしげた。
「私も聞いていない。寄港の歓迎に、こんな準備をするという話は初耳だ」
(つまり、公式の予定ではないということ?)
アイカは戸惑った。
船がゆっくりと接岸すると、岸壁から拍手が上がった。花冠を持った女の子たち。白い衣装の青年たち。地元の楽団が軽やかな旋律を奏でている。
アイカは周囲を見回した。船長でもなく、一等航海士でもなく、何故か人々の視線はアイカに集まっている。
(嫌な予感がするわ)
タラップが下ろされた。
アイカが降り立った瞬間、拍手が波のように押し寄せた。
岸壁で待っていた恰幅のいい男性が進み出て、異国の言葉でゆっくりと話し始めた。この町の市長らしい。
その挨拶を聞いて、アイカはめまいがしそうになった。
市長の挨拶が終わると、通訳が一歩前に出て、アイカの横で訳し始めた。
「レディオリエント号の皆様、ようこそ私たちの町へ。本日は、この船を町の皆でお迎えできることを、うれしく思います」
タラップの上に並んだ乗客たちが、笑顔で拍手を返した。甲板からも手を振る人がいる。
「私は、レディオリエント号の就航記念パーティーを伝える新聞記事で、アイカさんのことを知りました。そこには、女性にも海で働く道を開いていきたいという船会社の方針とともに、彼女が紹介されていました。記事の見出しは、『女性登用、新時代の象徴』。私はその言葉を読んで、船が港に着く日を楽しみにしていたのです」
記事の見出しが訳されると、乗客がざわめいた。
「新しい船が海を渡り、新しい時代を象徴する方がその船で働いている。私たちの町にとって、今日は記憶に残る日です。レディオリエント号の皆様、そしてアイカさん。心から歓迎いたします!」
乗客たちの拍手が、岸壁の拍手に重なった。甲板から身を乗り出して手をたたいている。
通訳が話し終えると、アイカは市長に向かって答えた。
【ありがとうございます。このような温かいお迎えを受け、大変光栄です】
異国の言葉で。
一瞬、空気が止まった。
通訳がアイカの目を見て、驚いたように笑った。
市長の目が見開かれた。
ざわり、と群衆が揺れた。
アイカは続けた。
【少しですが、話せます】
通訳はうなずくと、船のほうへ向かった。そこで、乗客に向けてアイカと市長のやりとりを通訳し始めた。
市長は、今度は通訳を見ずに、アイカに直接話しかけてきた。
【改めてお会いできて光栄です】
アイカは答えた。
【こちらこそ、お会いできてうれしいです】
町の人たちの拍手が、先ほどより大きくなった。
乗客たちがデッキから身を乗り出している。
要人が次々と話しかけてきた。アイカはそのすべてに直接答えた。
誰かが言うのが聞こえた。
【発音が美しい】
アイカはその言葉を聞きながら、応対を続けた。
市長が笑いながら尋ねた。
【どうしてこの国の言葉を?】
アイカは少しだけ息を整え、異国の言葉のまま語り始めた。
【子どものころ、旅行好きの親戚がこの国を訪れました】
港は静まり返っていた。
【その人が、お土産に小物入れを持ち帰ってくれました】
アイカの胸の奥に、あの光景がよみがえった。
黒い漆。細かな金の模様。蓋の裏に描かれた鳥。
【とても美しくて、毎晩それを眺めていました】
観衆の中で、年配の女性がうなずいていた。
【けれど、私は蓋の裏に添えられた小さな文字が読めませんでした】
アイカは指で、空に文字を書く仕草をした。
【それが悔しくて】
少し笑いが起きた。
【意味を知りたくて、言葉を習い始めました】
市長の表情が変わった。
【最初はただの好奇心でした。でも、言葉を知ると、その国の人の心も少しわかるようになりますし、もっとわかりたいと思うようになります】
アイカは続けた。
【だから今日、直接お話しできることが、とてもうれしいのです】
拍手が起きた。アイカに向かって手を振る人もいる。
今度はゆっくりと、重みのある拍手だった。
子どもたちが目を輝かせている。
市長が尋ねた。
【その小物入れは、まだ持っていますか?】
アイカは答えた。
【ええ、大切にしています。今も、あの船の机の上に置いています】
その言葉の通り、小物入れは今もアイカの船室の机の上に置いてあった。
それは、アイカの原点だった。
絶賛の声が上がった。
写真撮影が始まった。
今度は、距離が違った。
要人が肩を並べ、市長が親しげに話しかけ、子どもがアイカの腕を引いた。
乗客たちのざわめきも、変わっていた。
横に立っていたブラウン一等航海士が、そっと言った。
「こんなに流ちょうだと、聞いていなかった」
アイカは答えた。
「聞かれていませんでしたから」
いつの間にか渡された花束を抱えたまま、アイカは海を見た。
逃げるために乗った船。
だが、逃げた先で、子どものころの好奇心がアイカを支えている。
飾りの補佐。
それでいいと思っていた。
けれど、あの小物入れがなければ、今のアイカはいなかった。
市長が最後に言った。
【あなたは、我々の友人です】
アイカは微笑んだ。
【光栄です】
異国の言葉で、もう一度。
拍手が、港いっぱいに広がった。
その音を聞きながら、アイカは不思議な気持ちを味わっていた。
逃げたはずなのに、何故か少しだけ誇らしかった。




