11 売店からの依頼
11 売店からの依頼
アイカが売店の係員から声をかけられたのは、ラングレーと棚の前を通りかかったときだった。午後の光が、ガラス瓶を明るく照らしている。
「あの、レトワール補佐。もしよければ、値札を書いていただけませんか?」
「値札ですか?」
アイカが聞き返すと、係員はうなずいた。
「はい。先日、バーンズ二等航海士と紅茶を選んでいらしたでしょう。そのとき、お品に添えるカードのお話をされていて」
係員は少し照れたように笑った。
「それに、食堂の入口に張られた新聞記事の翻訳も拝見しました。あの文字、とてもきれいでしたので。売店の商品にも書いていただけたらと思ったんです」
「まあ、そうなのですか?」
「お願いしたいのは、商品名と説明、それから……できましたら、短い詩のような言葉も」
「詩ですか?」
「はい。バーンズ二等航海士にお渡ししたカードのように、品物を手に取った方が、少し楽しい気持ちになる言葉を」
アイカがラングレーの贈り物のカードを書いたことまで、知られているらしい。アイカが隣を見ると、ラングレーは気まずそうに咳払いをした。
「大叔母が、カードの字をたいそう褒めまして。つい、売店でも話してしまいました」
「そういうことでしたか」
アイカは笑って、係員に向き直った。
「お引き受けします」
「ありがとうございます。使う用紙は、このようなものでよろしいでしょうか?」
係員は弾んだ声で言い、売店の奥から無地の厚紙を持ってきた。
アイカは部屋にペンとインクを取りに戻った。おりにふれて買い求めている、大切なコレクションだ。集めてきたインクの中から、紅茶には柔らかな茶色、船の模型には深い青を選ぶ。蓋を開けると、それだけでアイカの心が弾んだ。
売店に戻ると、最初に手に取ったのは、小鳥の絵が描かれた紅茶の箱だった。
「こちらは、レトワール補佐が大叔母様への贈り物に選んだ紅茶ですね」
係員が言った。
「ええ。春告げ鳥の紅茶です」
係員が値段を読み上げ、アイカは厚紙の端に控えた。それから、商品名を少し大きく書く。
『春告げ鳥の紅茶』
説明には、花の香りがほのかに漂う茶葉であることを記した。最後に余白を眺め、短い一節を添える。
『季節の扉を開いて、眠る大地に新しい物語を紡いでおくれ』
「まあ」
係員がアイカの肩越しに声を漏らした。
「紅茶を淹れると、春がくるみたいですね」
「そう感じていただけたなら、うれしいです」
次は、ラングレーが選んだ紅茶だった。箱には月明かりに照らされた庭が描かれている。レイチェルの庭を思い出しながら、アイカはペンを走らせた。
『銀色の庭。乙女の足元に、影がひとつ舞い降りた』
「影の正体は、何でしょう?」
ラングレーがのぞき込んで尋ねた。
「それは、飲む方に想像していただきましょう」
アイカが答えると、ラングレーは首をかしげた。
「気になりますね」
「きっと、皆さんそれぞれの答えがありますよ」
係員が棚から小さな船の模型を下ろした。手のひらに載るほどの大きさだが、甲板の手すりや窓まで細かく作られている。
「こちらもお願いできますか? レディオリエントの模型です」
アイカは模型を目の高さまで持ち上げた。小さな窓の向こうにも、乗客のいる部屋が続いているように見える。
『小さな船に、遠い海を託して。窓には灯りを』
ラングレーが模型と値札を交互に見た。
「窓に灯りがともると、今にも航海を始めそうですね」
「この船にも、夜になるとたくさんの灯りがつきますから」
アイカがそう答えると、ラングレーは小さく笑った。
最後は、船で焼いたビスケットだった。係員が試食用の一枚をアイカに差し出した。口に含むと、軽い甘さのあとに、塩気がほんの少し残った。
「厨房の説明によると、塩を少しだけ加えているそうです」
係員が教えてくれた。
「では、その味を書きましょう」
『潮の香りをひとつまみ。かじれば、旅の風が吹く』
書き上げた四枚を並べ、アイカはインクが乾くのを待った。係員は値段を一枚ずつ確かめ、うなずいていく。
「合っています。さっそく飾ってもよろしいですか?」
「ええ、どうぞ」
係員が値札を棚へ運ぶ。春告げ鳥の紅茶の前では、通りかかった婦人が足を止めた。
「あら、かわいらしい字。こちら、どんな香りなの?」
「花の香りがする紅茶です。よろしければ、箱もご覧ください」
係員が笑顔で品物を差し出す。婦人は値札をもう一度読んでから、箱を受け取った。
新聞記事の翻訳は、乗客が記事を読めるように書いたものだった。その文字を見た係員が、今度は売店の商品を紹介する仕事を頼んでくれた。書いたものが船の中を少しずつ巡っているようで、アイカは棚に並ぶ四枚をしばらく眺めていた。
それから、文字について尋ねられることが増えた。食堂の翻訳を見たという人もいれば、売店の値札を見て声をかけてくる人もいる。
「食堂で見たものもきれいでしたけれど、普段の生活には少し堅苦しく感じました。でも、これは素敵ですね。ああ、私もこんなふうに書けたらいいのに」
そう言ったのは、若い女性だった。別の乗客も、値札を見て微笑んだ。
「なんだか、紅茶が特別なものになりますね」
アイカが名刺を渡すと、乗客の一人がその小さなカードに目を留めた。
「この美しい字は、どこで学ばれたのですか?」
「祖母からです。カリグラフィーといいます」
アイカは、名刺を持つ相手の指先を見ながら答えた。
「親族の中では、何故か私だけが好きになりまして。祖母は早くに亡くなりましたが、手本を残してくれました。外国語で書かれたものもあったので、文字の意味を知りたくて、言葉も学び始めたんです」
「それで、あの新聞記事も翻訳できたのですね」
「はい。本を読みたくて覚えた言葉が、この船で役に立ちました」
そう答えるたびに、アイカは祖母の部屋を思い出した。
窓辺に置かれた小さな机。並んだインク瓶。紙の匂いと、午後の静かな光。祖母はアイカの手元をじっと見守り、線が震えると自分のペンを取った。
「線は呼吸よ。線に息を通しなさい」
祖母はそう言って、紙の上に一本の線を引いた。ゆっくり進んだ線は最後まで途切れず、柔らかく細くなって終わる。
アイカは何度もまねをした。祖母はうまく書けた日にも、そうでない日にも、アイカの紙を最後まで見てくれた。
そしてある晩、アイカは夢を見た。
月明かりに照らされた庭に、アイカは立っていた。レイチェルの庭に似ていた。だけど、どこか違う。夢だとわかっているのに、目を覚ますことはできなかった。
向こうから、一人の少女が歩いてくる。何かに腹を立てているらしく、早足で小道を進んでいた。
そのとき、反対側から青年が現れた。少女を見つけると、彼は駆けだす。
少女が顔を上げた。
アイカは、少女がレイチェルだと気づいた。若いころの彼女だと、何故かわかった。
(あの青年が、きっとロバートさんなのね)
彼はレイチェルに駆け寄り、抱きしめようと腕を広げる。けれどレイチェルは両手を突っ張り、彼の胸をぽかぽかと叩きはじめた。
怒っている姿もレイチェルによく似合っていて、可愛らしかった。アイカは思わず笑みをこぼした。
(胸をぽかぽか叩くのが似合うなんて、レイチェルったら)
ロバートは叩かれるまま、笑っている。やがてレイチェルの手が止まると、彼は彼女をしっかりと抱きしめた。
二人とも笑っていた。そして、泣いていた。
しばらくして、レイチェルがアイカを見た。
「ありがとう、アイカ。さようなら」
ロバートも振り返り、アイカに会釈をした。
(今度は、振り返ってくれたのね)
二人は寄り添いながら、月明かりの庭を歩いていった。
アイカが目を覚ますと、頬が濡れていた。涙を拭っても、またこぼれてくる。
アイカはベッドの中で、レイチェルと、会ったことのないロバートのことを思った。
二、三日して、アイカは少し目の赤いラングレーから、レイチェルの死を知らされた。




