12 補佐の交代
12 補佐の交代
あのサプライズ式典のあとから、朝の巡回は様変わりした。
それまでは、ブラウン一等航海士が指さした場所について、アイカが説明していた。壁の向こうにある動力機構の位置。救命具を配る際、乗客がどちらへ流れるか。覚えたことを自分の言葉で話し、間違っていれば、ブラウンが訂正してくれた。
ところが今は、ブラウン一等航海士が説明役に戻っていた。
「こちらの通路は、混雑した際にも人が行き違える幅を確保しています」
彼の隣で、エリザベス・ポージーが熱心にうなずいた。
ポージー家は、商売で財を築いた家だ。彼女の身なりを見れば、羽振りのよさはすぐにわかる。毎朝、違う帽子をかぶってくるのだから。
「今日もご一緒して、よろしい?」
巡回の始まりにそう尋ねるとき、エリザベスの笑顔はいつも完璧だった。
「もちろんです」
ブラウン一等航海士も穏やかに答える。
エリザベスはそれから、アイカに軽く会釈した。
「おはようございます、ポージー様」
アイカが制服の襟を意識しながら挨拶すると、エリザベスは小さく笑った。
「もう、補佐さんはおかたいわ。私なら、もう少しくだけて話すけれど」
「そうですか」
アイカが答えると、エリザベスはブラウン一等航海士のほうへ顔を向けた。
「私、大学では経済学と法学を学んだんです。卒業するときには、大学に残らないかと誘われましたのよ」
アイカはその話を昨日も、一昨日も聞いていた。
父親に反対されて大学には残れなかった。家に帰れば、親戚まで結婚を勧めてくる。王宮の文官になろうとしたら、今度は母親が泣いてしまった。
「私は両親のお人形ではないのに。自分で働いて、研究を続けたいんです」
「それは難しいお立場ですね。ご両親も、あなたを大切に思っておいでなのでしょう」
ブラウン一等航海士は、初めて聞いたような顔でうなずく。
(すごい芸当ね)
アイカには到底まねできそうになかった。
エリザベスが何を研究したいのかは、まだ聞けていない。尋ねても、話はいつの間にか両親の心配や、大学でどれほど評価されていたかに戻ってしまう。
「補佐さんは、自由に働けてうらやましいわ」
エリザベスがこちらを見た。
「私の場合は、家族が心配しますから、思い切ったことができなくて」
(私に聞かせたいのね)
アイカはそう感じた。おそらく、外れてはいないだろう。
「ご家族はポージー様を大事になさっているのですね」
アイカが何度目かの返事をすると、エリザベスは満足そうに微笑んだ。返す言葉も、そろそろ種切れだ。
巡回の終わりには、決まってブラウン一等航海士への質問が始まる。
「機関の出力は、どの程度ですの?」
「現在は最大出力の七十パーセントほどですね。運航の状況によって変わりますが、航海中は機関士が常に状態を確認しております」
ラルフ・ブラウン一等航海士は、穏やかな海を見やりながら答えた。
「まあ、そうなんですね。興味深いですわ。寄港地によって、積載量も変わるのでしょう?」
「ええ。この船は小さな港にも入りますから、細かい計算が必要です。寄港地ごとに水深も違います。バラスト水はもちろん、貨物や、乗り降りされるお客様の数も考慮します」
「やはり、皆さんの食欲を満たす食材も大事ですし、一等はともかく、二等はお客様の出入りも多いですものね」
「よく勉強なさっていますね」
ブラウン一等航海士の返答は丁寧だった。エリザベスも真剣な顔で聞いている。ただ、翌朝になると、少し言葉を変えた同じ質問が繰り返される。
ここ二、三日は、エリザベスの言い方も変わってきた。
「この通路、もっとわかりやすく案内できると思いますわ」
救命具の収納場所を見上げながら、エリザベスが言った。
「私なら、乗客の方が迷わないように説明できます。こういうことを考えるのは得意ですもの」
「そうかもしれませんね」
ブラウン一等航海士が答えると、エリザベスは勢いづいた。
「ああ、じれったい。私、上手にやれそうなのに」
アイカは窓の外へ目を向けた。海は今朝も穏やかだ。深呼吸を一つするには、ちょうどよかった。
その日の夕方、船長から呼び出しがあった。
執務室の窓から夕日が差し込み、机の上の書類を赤く染めていた。船長はアイカが入るのを待って、手にしていた紙を置いた。
「レトワール補佐」
「はい」
「補佐を交代していただきます」
アイカは一瞬、言葉の意味を測りかねた。胸の奥が、冷たい水に浸されたように沈んだ。
「交代、でございますか」
「ええ。ふさわしい人材が見つかりました。当社の理念にも賛同しておられますし、ご家族も支援する意向です」
その説明だけで、アイカには誰のことかわかった。
「ポージー様ですね」
「そうです」
船長は短く答え、アイカの反応をうかがった。
「いつからでしょうか」
「ポージーさんは、すぐにでもとおっしゃっていますので、あちらの希望どおり、明日からです」
アイカは体の脇で手を固く握った。今朝まで歩いていた通路が、鮮明に脳裏をよぎる。救命具の位置を必死で覚え、乗客が迷わないようにと言葉を選んでいた時間。あれを、もう繰り返すことはないのだ。
「あなたは、このままご乗船いただけます」
船長が続けた。
「お客様として」
「……お客様、ですか」
「ええ。今のお部屋も、そのままお使いいただいて構いません」
船長はほっとした表情を見せた。アイカが取り乱さなかったことに安心したのかもしれない。
「……承知いたしました」
アイカには、自分の声がどこか遠くから聞こえた。
退室して甲板へ出ると、冷たい潮風が頬に当たった。髪がほどけかけ、アイカは慌てて片手で押さえる。
(残念だわ)
浮かんだ言葉はあまりに単純で、それなのに胸が潰れそうなほど重かった。
一等航海士補佐なんて肩書きは、ただの飾りだ。そう思って、自分でも内心で馬鹿にしていたのに。
朝の巡回で、ブラウン一等航海士に説明がわかりやすいと褒められたときの誇らしさ。何も知らなかった船のことを、一つずつ覚える楽しさ。いつしか、次の朝がくるのを待つようになっていた。
あの時間が好きだったのだと、アイカは気づいた。
「……こんなに、残念だったなんて」
アイカが声に出すと、視界がじんわりと滲んだ。
制服を脱げば、ただのアイカに戻る。もともと、この船に乗りたかったのは逃げるためだ。望んでいたとおり、客として自由に過ごせる。それなのに、今は失ったもののことばかり考えてしまう。
船が揺れ、アイカは手すりを強く握った。
客であっても、補佐であっても、海は同じように揺れる。
アイカはそのまま、日が沈むのを眺めていた。




