07 評判
07 評判
二等食堂の入口脇に掲示された翻訳は、いつの間にか船内の小さな名所になっていた。
淡い色の台紙の上に、切り抜かれた新聞記事が貼られている。その隣には、藍色のインクで流れるように記された異国の文字が並んでいた。
丸みを帯びた線と、鋭く跳ねる払い。
記事の内容を伝えるだけではない。その文字は美しいものとして、人々の目を引きつけていた。
昼食の時間を過ぎても、掲示の前から人だかりが途切れない。
「これが例の翻訳?」
上質なドレスをまとった婦人が、記事を見上げて言った。休暇中らしく普段より気軽な装いだが、仕立ての良さは一目でわかる。
「ええ。二等食堂に飾られていると聞いて、見にきたの」
隣の婦人が楽しそうに答えた。宝石やゆったりとした物腰からも、二人が一等の乗客であることは明らかだった。
「見事な字ね。この船に、これほど書ける方がいらっしゃるの?」
最初の婦人が感心したように尋ねた。
「新時代だの女性登用だのと世間では騒いでいるけれど、昔ながらのたしなみも大切よね」
「どなたがお書きになったのでしょう」
「あら、アイカさんよ」
隣の婦人が、こともなげに答えた。
「え? 新時代の代表といわれている、あの方が?」
少し離れたところで記事を眺めていた紳士も、大きくうなずいた。
「理念を掲げるだけでなく、教養も備えているのだな。この会社を見直したよ」
感心した口ぶりだったが、会社とそこで働く者たちを値踏みするような響きもあった。
二等食堂では、何人かが食事の手を止め、入口の様子をうかがっていた。自分たちの食堂に一等の乗客が立っている。それだけで、いつもの昼食とは違う落ち着かなさが広がっていく。
入口に立つ婦人が、ふと思いついたように言った。
「そういえば……私たちも、ここで食事をしてよいのかしら?」
冗談めかした声だったが、目は空いている席に向けられている。
「構わないでしょう」
連れの紳士が笑った。
「同じ船に乗っているのですから」
やがて、一等の乗客が二、三人、食堂へ入ってきた。
絨毯のない、磨かれた板張りの床。丈夫で実用的な食器。二等の乗客には見慣れた場所のはずなのに、一等の客が席に着いただけで、まるで知らない食堂のように感じられた。
二等の若い男が、小声でつぶやいた。
「今日は……ずいぶん混んでいるな」
向かいの男が肩をすくめた。
「ここは俺たちの食堂だったはずだよな?」
二人は笑ったが、その声はどこか硬かった。
普段なら賑やかな食堂が、この日は妙に静かだった。椅子を引く音も、食器の触れ合う音も、いつもより大きく響く。
一等の婦人が料理をひと口食べ、わずかに目を見開いた。
「あら、おいしいわ」
「本当ね」
連れの婦人もうなずいた。
何気ない感想のつもりなのだろう。けれど、近くの席では二等の夫婦がそろって手を止めた。
婦人たちは気づかずに食事を続けた。背筋を伸ばし、慣れない食器にも戸惑う様子を見せず、静かに肉を切り分けている。
先ほどの夫婦は視線を伏せて食事を再開したが、いつの間にかナイフを動かす手つきが慎重になっていた。近くの若い娘もそっと背筋を伸ばし、パンを小さくちぎって口に運ぶ。
彼らは同じ場所で、同じ料理を食べていた。
それでも、互いを意識せずにはいられなかった。
婦人の身のこなしに憧れて、もう一度背筋を伸ばす者もいた。その隣では、「おいしいわ」という言葉を聞いて、あらためて料理を味わうようになった者もいた。
始まりは、ただの新聞記事の翻訳だった。
その一枚を見るために一等の乗客が足を運び、今は二等の乗客と同じ食堂に座っていた。食事が終わっても、今日の出来事はそれぞれの胸に残るだろう。




