06 見つけた!
06 見つけた!
彼の名は、ブライヤン・ミスリル。
ミスリル大佐として、海軍では期待の士官と呼ばれていた。部下の前で取り乱したことも、与えられた任務を投げ出したこともない。
その彼が今、たった一人の女を見つけられずにいた。
『ありがとう。素敵だったわ』
彼女がホテルの鏡に残していった、真っ赤な口紅の文字が脳裏に浮かんだ。その横に添えられた、小さな星も。
(俺にこんな残酷なお仕置きを残して消えるなんて――)
最初に彼女を見たとき、ブライヤンは東洋の姫君かと思った。高い頬骨に、少し吊り上がった強い瞳。水割りのグラスを手に、男たちに囲まれていながら、誰にも気後れしていなかった。
彼はなりふり構わず、街のタクシー運転手に尋ねて回った。
「女の客? そりゃあ乗せましたよ」
運転手は困った顔で首を振った。
「ですが大佐、美人なら山ほど乗せてます。お探しの姫君かどうかまでは……」
「そうか。時間を取らせた」
ブライヤンはそう言って引き下がった。手がかりは一つもなかったが、諦める気など毛頭なかった。
新造船の出航日には、桟橋にも立った。
(彼女があの船に乗るかもしれない)
そう考え、乗船する客を端から見張った。
白い船の前には、華やかな帽子や大きな旅行カバンが立ち並んでいた。手を振る家族連れ、笑い合いながらタラップを上っていく若い男女。ブライヤンはその顔を一人残らず確かめた。
だが、彼女はいなかった。
「くそ……」
ブライヤンは低く吐き捨てた。
見落としたとは思えなかった。それでも船が岸を離れ、水平線の彼方に消えるまで、彼は桟橋から動けなかった。
その帰り道、宝石屋へ寄った。ハンカチに包んだ翡翠の耳飾りを取り出し、老職人に見せた。
「これに合う箱をくれ」
職人はうれしそうに眼鏡を直し、石を細かく調べた。それから感心したようにブライヤンを見た。
「めったに見られない極上品ですね。いいものを見せていただきました」
「ああ」
ブライヤンは短く答えた。
「少々お待ちを」
職人が奥から持ってきたのは、内側に深い青のビロードを張った小箱だった。翡翠を収めると、石の緑がいっそう艶やかに浮き立った。
「天女の忘れ物ですかな」
「天女?」
ブライヤンが聞き返すと、職人は丁寧に箱の蓋を閉めた。
「これほどの代物です。王族の忘れ物と言われても信じますよ」
(天女、か)
馬鹿げた例えだったが、彼女が見つからない理由としては、案外しっくりきた。
それから数日後、ブライヤンは自分の軍艦の船橋にいた。
前方の窓には、どこまでも青い海が広がっていた。水平線を眺めていると、あの白い新造船が港を離れていく光景が、また脳裏をよぎった。
「大佐。ミスリル大佐」
背後から副官のテリウス・バードの声がした。ブライヤンが返事をせずに海を見つめていると、今度は船橋中に響く声で叫ばれた。
「おーい、ブライヤンさーん!」
当直の士官たちが、ちらりとこちらをうかがった。
「聞こえている。声を張るな」
ブライヤンが顔をしかめて振り返ると、バード副官は平然と答えた。
「普通にお呼びしても返事をなさらないでしょう」
副官は腕いっぱいに新聞の束を抱えていた。
「司令部へ出す書類が残っています。そろそろ執務室にお戻りください」
「お前が片づけろ」
ブライヤンが言うと、バード副官は首を振った。
「大佐の署名が必要なんです。それに、新聞にも目を通してください」
「捨てろ」
「少しは見てくださいよ」
副官はため息をつき、新聞を一部広げた。
「バナリア海の情勢が不穏だそうです」
「いつものことだ」
ブライヤンが素っ気なく返しても、副官はめげずに次の記事を示した。
「こちらは先日進水した新造船の就航記事です。桟橋から見送られたのでしょう?」
「ああ」
ブライヤンは、差し出された新聞を無関心を装って受け取った。
次の瞬間、彼の思考は停止した。
「……見つけた」
ブライヤンの口から声が漏れた。
船内の豪華なサロンで撮影された写真だった。背後には大きな花が飾られ、彼女が正面を向いて凛と微笑んでいた。
ぱりっとした制服に身を包み、まっすぐ立っている。あの夜とはまるで別人だった。
ブライヤンは必死で記事の文字を追った。
『一等航海士補佐――アイカ・レトワール』
「……ちくしょう」
彼は小さくつぶやいた。
似合っていた。悔しいほどによく似合っていた。
ブライヤンが新聞を握りしめたまま固まっていると、副官が脇から写真をのぞき込んだ。
「この方、素敵ですよね。おきれいで、実にしゃんとしている」
「……黙れ」
「褒めただけですよ」
バード副官は肩をすくめた。
記事には、新時代の女性登用を象徴する卓越した人材だと、誇らしげに書かれていた。
「象徴、か……」
ブライヤンは思わず苦笑した。あの夜、彼の手を取った彼女が、こんな大きな写真に収まっている。
あの賑やかな店で、水割りを飲んでいた彼女に、彼は声をかけたのだった。
「酒が強いな」
「踊るには、これくらいがちょうどいいの」
彼女はそう言って、周りの男たちではなく、迷わずブライヤンの手を取った。
一曲踊り終えても互いに手が離せず、彼は尋ねた。
「俺でいいのか?」
彼女はしばらく彼の目をまっすぐ見つめ、静かに答えた。
「……忘れさせてくれるなら」
「忘れない」
ブライヤンはそう答えた。
彼女が求めた答えではなかったかもしれない。だが、彼にはそう答えるほかなかった。
その夜、彼女はブライヤンを受け入れ、彼も夢中で彼女を抱いた。耳元の翡翠を外したときのずっしりとした重さも、彼女が甘く息を乱した声も、鮮明に覚えていた。
(なのに翌朝、彼女は鏡にあの素敵なお礼を残して去っていったんだ)
「大佐? また意識がどこかへ飛んでいらっしゃいますね」
バード副官の声で、ブライヤンは現実の船橋に引き戻された。
(だが、今度は違う。天女の衣をつかんだ)
彼は写真の下に書かれた船名と航路に視線を走らせた。
「新造船は、バナリア海を通るな」
「ええ。さっきからその話をしています」
バード副官があきれたように答えた。
「沿岸の動きは確認したか」
「司令部からの最新情報が届いています。本艦も港で補給を済ませれば、いつでも出航できます」
ブライヤンは新聞を折りたたみ、窓の向こうの海を見据えた。
「補給の完了を急がせろ。航路上の脅威情報も、出航前にもう一度精査しておけ」
副官の顔つきが、即座に士官のそれに変わった。
「承知しました。……その方を追われるおつもりですか」
「新造船の護衛だ」
「では、そういうことにしておきます」
副官はにやりと口元を緩めた。
「それと、向こうの二等客室の乗客名簿も取り寄せろ。可能な限り身元を確認する」
「了解です、大佐」
ブライヤンが胸ポケットの上から指で軽く叩くと、収められた小箱がかすかに音を立てた。
彼はもう一度新聞を開き、制服姿の彼女を見つめた。脳裏に、あの赤い口紅の文字がよみがえった。
「……お礼なら、直接耳元で言ってもらおうか」
ブライヤンは、副官には聞こえない声でつぶやいた。
(追いついたら、まずあの翡翠を返そう。そして問いただしてやる。あの夜の出来事を、彼女がどう思っているのかを)
「大佐、書類の署名もお願いしますよ!」
副官の声が飛んだ。
「わかっている」
ブライヤンは新聞を慎重に畳み、副官とともに船橋を出た。その一歩手前で、彼はもう一度だけ大海原を振り返った。
(アイカ・レトワール。天女は、確かにそこにいる)




