05 翻訳の依頼
05 翻訳の依頼
しばらくして、二等船室の乗客から思いがけない依頼があった。
二等船客用の食堂前の壁に飾られている新聞記事を翻訳してほしいというのだ。
それは、この船の就航記念パーティーを紹介した記事だった。女性登用の象徴として、一等航海士補佐に任命されたアイカの名前も載っている。
バーンズ二等航海士がその件を報告しにきたとき、アイカはちょうどブラウン一等航海士の後ろに控えていた。
「二等船室の乗客が、食堂に飾ってある新聞記事を翻訳してほしいと言っているのですが……」
バーンズ二等航海士の報告に、ブラウン一等航海士は困惑したように眉をひそめた。
「翻訳? どの言葉に訳せばいいんだ」
ブラウン一等航海士が聞き返すと、バーンズ二等航海士は答えた。
「東洋の言葉だと思います」
「東洋といっても広いぞ。どこの国の言葉だ?」
「それが、わかりません。向こうもこちらの言葉がよくわからないようで、詳しい話が聞けないのです」
バーンズ二等航海士は困ったように首を振った。
二人は顔を見合わせた。
東洋の言葉というだけでは、さすがに見当がつかないらしかった。
しばらく考えていたブラウン一等航海士が、アイカを振り返った。
「補佐、一緒にきて、話を聞いてみてくれないか。乗客への対応も、君の仕事のうちだ」
「承知しました」
アイカは短く答え、二人とともに食堂へ向かった。
食堂では、件の新聞記事の前に数人の乗客が集まっていた。記事を指さしながら盛んに話している。文字が読めないため、何が書かれているのか推測し合っているようだった。
三人に気づくと、そのうちの一人が期待を込めた目を向けてきた。
「私がお話ししてもよろしいですか?」
アイカが隣に立つブラウン一等航海士へ尋ねると、彼は短くうなずいた。
「ああ、頼む」
アイカは乗客たちに向き直り、彼らが話していた言葉で声をかけた。
【皆様がいま話している言葉に、この記事を翻訳すればよろしいですか?】
乗客たちの目が大きく見開かれた。
【あなたは、私たちの言葉を話せるのか?】
一人の乗客が、同じ言葉で尋ねた。
【はい。あまり上手ではありませんが、読むことも書くこともできます】
アイカは答えた。
(本を読んで覚えた言葉だから、話し方は少し堅いかもしれないわね)
乗客は身を乗り出して続けた。
【この記事に何が書かれているのか知りたい。翻訳を頼めるだろうか】
アイカは微笑んでうなずいた。
【わかりました。書いてお持ちしますので、ここでお待ちください。ただ、少し時間がかかります】
【構わない。ぜひ頼む】
乗客は胸に手を当て、深く頭を下げた。
すると、少し離れたところにいた別の乗客が、異なる言葉でアイカに呼びかけてきた。
『こちらの言葉にも翻訳できるか?』
そちらも、アイカが学んだことのある言語だった。
『はい、できます。そちらの言葉でも書いてお持ちしますね』
アイカは、その乗客の言葉に切り替えて答えた。
『本当か。ありがたい』
乗客は顔をほころばせた。
二つの言葉が続けて通じたことに驚いたのか、周囲から感嘆の声が上がった。
「ありがとう」
一人の乗客が、覚えたばかりらしい船員たちの言葉で礼を言った。
「どうも、ありがと」
別の乗客も、たどたどしく続けた。
【どういたしまして】
『どういたしまして』
アイカはそれぞれの言葉で返した。皆がうれしそうに笑った。
アイカはバーンズ二等航海士に向き直った。
「それでは、いったん戻って翻訳いたします。二つの言語に訳しますので、少々お時間をいただきます」
「ああ、頼む。俺たちではどうにもならなかったから、本当に助かるよ」
バーンズ二等航海士は安堵したように息をついた。
「では、戻ろう」
ブラウン一等航海士に促され、アイカたちは食堂をあとにした。
新聞記事はそれほど長くなかったが、ただ言葉を置き換えればよいというものでもなかった。
船や役職に関する言葉には、直訳しても伝わりにくいものがある。アイカは表現を一つずつ選びながら、二つの言語で記事の内容を書き起こしていった。
記事には就航記念パーティーの様子だけでなく、アイカがこの船で一等航海士補佐を務めることや、今後は女性にも海で働く道を開いていきたいという船会社の方針まで書かれていた。
(改めて訳してみると、ずいぶん大げさな記事ね)
自分が女性登用の象徴として紹介されている部分では、少しばかり手が止まった。
(それでも、乗客が知りたいと言っているのだから、勝手に省くわけにはいかないわ)
アイカは再びペンを動かした。
すべてを書き終えたころには、窓の外が夕暮れの色に染まり始めていた。
アイカは二つの翻訳をそろえ、ブラウン一等航海士のもとへ持っていった。
「遅くなりました。翻訳が終わりましたので、ご確認をお願いいたします」
ブラウン一等航海士は受け取った紙に目を落とした。けれど、内容ではなく、文字そのものを眺めているようだった。
「……見事な筆跡だな」
「ありがとうございます」
アイカは軽く頭を下げた。
「こちらの文字とは形がまったく違うのに、どちらも整っている。専門的に習ったのか?」
ブラウン一等航海士が続けて尋ねた。
「いいえ。こうしたことは、ひととおりのたしなみとして身につけました」
アイカが答えると、ブラウン一等航海士は何ともいえない表情でつぶやいた。
「これが、たしなみなのか……」
(何かおかしなことを言ったかしら)
アイカは彼の顔を見ながら、言葉を続けた。
「私は読書も、文字を書くことも好きなのです」
「語学も得意なのか?」
「得意というより、好きなのだと思います。知らない言葉を覚えれば、それだけ多くの本が読めますから」
「なるほどな」
ブラウン一等航海士はもう一度、翻訳した紙へ目を落とした。
「本当に立派な字だ。俺には何が書いてあるのか、さっぱりわからないが」
「自分でも、文字を書くのはそれなりに上手なほうだと思っております」
アイカが正直に答えると、ブラウン一等航海士は一瞬目を丸くし、それから小さく笑った。
「そうか。補佐は、自分のできることをきちんとわかっているんだな」
「できないことも、きちんとわかっております」
アイカがそう言い添えると、ブラウン一等航海士はうなずいた。
「それなら結構だ」
二人はそろってバーンズ二等航海士のもとへ向かった。
バーンズ二等航海士は翻訳を受け取ると、心底ほっとしたように表情を緩めた。
「一等航海士補佐、本当に助かった。ありがとう」
「お役に立てたのでしたら、何よりです」
アイカが答えると、バーンズ二等航海士は翻訳の紙に目を細めた。
「さっそく、記事の隣に張り出してきます。乗客たちはずっと待っているんですよ。何度も様子を見にくるものですから、いやあ、参りました」
そう言いながらも、バーンズ二等航海士の顔には笑みが浮かんでいた。
「折れたり汚れたりしないよう、気をつけて運びます」
彼は翻訳の紙を大事そうに両手で持つと、足早に去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、アイカはぼんやりと考えた。
(飾りとして任命された私にも、できる仕事があるのね)
航海の技術で役に立ったわけではなかった。それでも、乗客の困りごとを解決することはできた。
(これも、一等航海士補佐の仕事なのかしら)
「補佐」
ブラウン一等航海士に呼ばれ、アイカは顔を上げた。
「はい」
「さっき、自分のことを飾りだと思っていただろう」
言い当てられ、アイカは思わず彼の顔を見つめた。
「……顔に出ていましたか?」
「少しな」
ブラウン一等航海士はそう答えて歩き出し、アイカもその隣についていった。
「確かに、船会社が君を任命した理由には、話題作りや女性登用を示す狙いもあっただろう。だが、飾りに二つの言語への翻訳はできない」
「それは……そうかもしれません」
アイカが小さく答えると、ブラウン一等航海士は続けた。
「乗客の要望を聞き、必要な対応をする。それも立派な船の仕事だ」
慰めるような口調ではなかった。ただ事実を告げているだけだった。
だからこそ、その言葉は素直にアイカの胸へ入ってきた。
彼女の部屋の前に着くと、ブラウン一等航海士は足を止めた。
「しかし、すごいものだな。語学も、美しい文字も、すべてたしなみか」
「ブラウン一等航海士にも、航海士として身につけていて当然だと思っていることがおありでしょう?」
アイカが尋ねると、ブラウン一等航海士は首をかしげた。
「まあ、それはあるが……君の当然は、少し範囲が広すぎる気がする」
「そうでしょうか?」
「そうだ」
ブラウン一等航海士はあきれたように言ったが、その目にはかすかな笑みがあった。
「今日は助かった。ゆっくり休め」
「はい。お疲れさまでした」
アイカは部屋へ入り、扉を閉めた。
(結局、こういうことも私の仕事なのかしら)
まだ、はっきりとはわからなかった。
けれど、船の中で誰かの役に立てたことが、少しだけうれしかった。




