03 顔合わせ
03 顔合わせ
六時十分前、アイカは中央会議室の前に立っていた。
扉の取っ手に手をかける前に、濃紺の制服のスカートから靴までを見下ろす。
やや短いスカート丈は、動きやすさを重視したのだろう。だが、それだけでなく、脚をきれいに見せていた。
上着の肩章は、船の指揮権を持つ者たちのものより控えめだった。それでも、写真に撮れば、いわゆる海の女を凛々しく見せるだろう。
アイカの頭に、新聞の見出しが浮かんだ。
(女性の社会進出を象徴する、アイカ・レトワール嬢)
会社が彼女に何を期待しているのかは、よくわかっていた。
船内を華やかに彩り、上流階級の乗客に愛想よく挨拶し、取材を受けたときには会社の先進性を褒める。船橋に立つのは写真を撮るときだけでも、誰よりも勇ましく胸を張ることを要求されるだろう。
(おそらく、そういう役目ね)
アイカは姿勢を正し、時計を確認した。
六時九分前。一度深呼吸をしてから、扉を開ける。
その瞬間、いくつもの視線が集まった。
鏡のように磨き上げられた床。天井から下がる真鍮のランプ。壁にはこの船の設計図と、造船所から贈られた処女航海の記念プレートが飾られている。
何もかもが新しかった。
室内のすべてが、これから歴史を刻むのだと誇っているように、アイカには見えた。
すでに主要な乗組員たちは揃っていた。
二等航海士のラングレー・バーンズ。機関長のドミニク。給仕長、無線士、甲板長。そして、窓際にはブラウン一等航海士が立っている。
彼らの顔と経歴は、事前に渡された資料で確認していた。
アイカに向けられる目には、好奇心や警戒、侮りがうかがえた。
ここに女を連れてきて何をさせるつもりなのか。そんな戸惑いも感じられた。
「皆様、本日より一等航海士補佐を務めます、アイカ・レトワールでございます。どうぞよろしくお願いいたします」
アイカは声が震えないよう気をつけながら、ゆっくりと頭を下げた。
沈黙は、ほんの一瞬だった。
バーンズ二等航海士が、彼女の肩章を確かめるように眺めてから、軽くうなずいた。
「航海士補佐殿、船橋には立たれますか?」
丁寧ではあるが、試すような口調だった。
(あなたに何ができるのですか、ということね)
アイカはすぐには答えず、一拍置いた。
「立つべきときに、立つべき場所へ参ります。ご指示をお願いいたします」
アイカが答えると、バーンズ二等航海士は言った。
「なるほど」
その口元が、かすかに緩んだ。
(逃げたと思われたかしら。それとも、分をわきまえていると判断されたかしら)
自分でも意味がわからないことを言ったのだから、相手の反応を判断するのは難しかった。
正直なところ、アイカは船には客としてしか乗ったことがない。今回乗り込むにあたっても、覚悟などなかった。
今度はドミニク機関長が、太い腕を組んで口を開いた。
「海は揺れますよ。お嬢様は慣れておられますかな」
低い声とともに、周囲から小さな笑いが漏れた。
アイカは彼の顔をまっすぐ見た。
「慣れていると思います」
「酔ってしまえば、学ぶどころではありませんぞ」
ドミニク機関長が言うと、アイカは落ち着いて返した。
「その際は、ご迷惑をかけない場所で倒れるよう努めます」
一瞬の静寂のあと、ドミニク機関長が声を上げて笑った。
「それだけ言えれば結構。機関室だけは避けてください。倒れたご婦人を運ぶほど、うちの連中は優しくない」
「覚えておきます」
アイカが答えると、先ほどよりも室内の空気がわずかに和らいだ。
続いて給仕長が進み出た。
「レトワール補佐には、明日の就航記念パーティーで上級客へのご挨拶をお願いすることになります」
「承知いたしました。後ほど、乗客名簿を見せていただけますか?」
アイカが尋ねると、給仕長は聞き返した。
「名簿を?」
「お名前だけでなく、爵位、ご家族の構成、座席の位置も確認しておきたいのです。同じお名前の方を取り違えては失礼ですから」
アイカが説明すると、給仕長は少し驚いた顔をしたあと、満足そうにうなずいた。
「よろしいでしょう。食事の席順表も用意いたします」
「お願いいたします」
アイカは軽く頭を下げた。
やがて扉が開き、入り口から声がかかった。
「船長がお見えになりました」
全員が一斉に姿勢を正した。
船長は室内へ入ると、並んだ顔ぶれをゆっくり見渡した。その表情には、新造船を任された誇りと、重い責任がうかがえた。
「諸君、明日からいよいよ処女航海だ」
低く、よく通る声が室内に響いた。
「この船には、会社だけでなく、国中の目が注がれている。小さな失敗であっても、大きく取り上げられるだろう。事故は許されん。形式も、実務も、どちらも疎かにするな」
「はい、船長」
全員の返事が重なった。
船長の目が、アイカのところで止まった。
「レトワール補佐」
「はい」
アイカが答えると、船長は続けた。
「あなたの役割は理解しているな」
アイカは、試されていると感じた。
(ここで、承知しておりますと答えるだけでは足りないのね)
会社が与えた役目と、この船で求められる役目。その両方を口にしなければならないのだろうと、彼女は考えた。
「はい、船長。私はこの船にとって、象徴であると同時に、秩序を守る一員でもあります」
室内が静まり返った。
船長はしばらくアイカを見つめたあと、わずかに目を細めた。
「結構。象徴もまた責任だ。華やかな場に立つ仕事だが、それだけではない。あなたの振る舞い一つが、この船全体の評価につながると心得なさい」
「肝に銘じます」
アイカは深く頭を下げた。
短い会議が始まった。
予定航路、天候、出港時の配置、非常時の連絡手順。アイカは配られた資料に目を通しながら、聞き慣れない言葉の多さに驚いた。
わからないことは多かった。
(わかったふりだけはするまい)
そう心に決め、アイカは説明に耳を傾けた。
会議は滞りなく終わった。
しかし、本当の顔合わせはそのあとだった。
給仕長が、用意していたワインを全員のグラスへ注いだ。それを合図に、張り詰めていた空気が緩み、あちこちで形式ばらない会話が始まった。
「レトワール補佐は、何故この船に?」
無線士がグラスを片手に尋ねてきた。
「海が好きだから」
アイカが答えると、無線士は言った。
「ええ。できれば新聞に載っていないお答えを」
周囲から軽い笑いが起きた。
「魅力的な募集条件だったから」
アイカが言い直すと、無線士はにやりとした。
「先ほどよりましな答えですね」
無線士の言葉に、笑いが大きくなった。
アイカも微笑みながら、グラスに口をつけた。
海が好きだというのは嘘ではなかった。
けれど、それだけでもなかった。
彼女は海に憧れて、この船に乗るのではない。
離れたかったのだ。
両親から、元夫から、所属している世界から。
アイカは他の船員たちとの会話を続けた。
媚びすぎず、冷たくもならず、聞かれたことには答え、わからない話題では無理に口を挟まない。
今まで、ずっとやってきたことだった。
こういう場では、話すことよりも相手を見ることが大切だと、彼女は心得ていた。
甲板長は言葉こそ少ないが、部下の話になると表情が和らぐ。無線士は噂好き。ドミニク機関長は女性を船に乗せることに否定的らしいが、仕事を覚えようとする者まで嫌う人ではなさそうだった。
やがて、給仕長が空になった瓶を下げた。
顔合わせは終わりらしかった。
アイカは先に退室する者たちへ、一人ずつ挨拶をした。
「ドミニク機関長、機会があれば機関室について教えていただけますか?」
アイカが尋ねると、ドミニク機関長は答えた。
「倒れない自信がついてからですな」
「では、できるだけ早く」
「ははっ。楽しみにしておきましょう」
ドミニク機関長を見送ると、アイカは最後にブラウン一等航海士の前へ向かった。
「明日の出航、楽しみにしております。一等航海士殿」
アイカが言うと、彼は笑わずに答えた。
「海は容赦しない。楽しむ余裕があるうちは幸運だ」
脅すような言葉なのに、その声音は真剣だった。
(きっと、この人は冗談でも海を軽く扱わないのね)
アイカは静かにうなずいた。
「では、その幸運を大切にいたします」
「これも大切にしてくれ」
ブラウン一等航海士はそう言って、乗客名簿と席順表を差し出した。
「ありがとうございます」
アイカはそれを受け取り、会議室を出た。
廊下へ足を踏み出すと、疲れを感じた。
(女王のように振る舞うのは、相変わらず苦手だわ)
もっとも、女王になった経験など一度もない。アイカは心の中でそう付け加えた。
長い廊下の先には、丸い船窓が並んでいた。その向こうで、夕闇に沈みかけた海が静かに揺れている。
象徴や補佐と呼ばれていても、彼女がいてもいなくても、船の運航には影響しない。
女性が職業を持つことを支持する先進的な会社。その主張を示すために、アイカは雇われたのだ。
求められているのは、文字通り、お飾りの役割だった。
アイカは手にした乗客名簿と席順表に目を落とした。
(だったら、全力でその役割をこなしてみせる)




