02 一人の目覚めと翡翠の耳飾り
02 一人の目覚めと翡翠の耳飾り
アイカが船に乗り込んだころ、一人の男が幸福な気分で目を覚ました。
それなのに、天井の模様がやけに白く、よそよそしく見えた。
隣にあるはずの体温がないからか?
昨夜の余韻は、まだはっきりと残っている。シーツのしわ、肌に残る香り、指先の感触。夢ではない。確かにあった。確かに、彼女を抱いた。
眠りに落ちる前、彼女は彼の手のひらに優しくキスしてくれた。
そんなことをしてくれた女は初めてだった。
妙な達成感が胸を満たした。
(最高の戦利品だ)
見知らぬ女。名も知らない。未来も約束もない。ただ、欲望のままに溶け合った一夜。
(悪くない。いや、最高だった)
今日、これからお互いのことを知ればいいのだ。
彼はゆっくりと腕を伸ばし、隣のシーツを探った。指先に触れるのは、布の感触だけだった。
(身支度でもしているのだろう)
彼は女性に好かれる。
それは疑ったことがなかった。
笑えば視線が集まり、言葉をかければ頬が染まる。望めば、たいていの女性は拒まない。
昨夜もそうだった。見るからに高嶺の花だった。東洋の姫君のようだった。そして、揺れる翡翠の耳飾りに抗えず、声をかけた。
だが――。
彼は体を起こした。部屋が静かすぎる。
バスルームをのぞく。誰もいない。
クローゼットを開ける。彼の服だけだった。
床に散らばっていたはずのドレスもない。彼が脱がしたドレス。それが跡形もなく消えている。
(冗談だろう)
彼は一歩下がり、部屋を見渡した。
そこで、鏡が目に入った。
口紅の赤が、朝の光にくっきりと浮かんでいる。
鏡には、口紅でこう書かれていた。
『ありがとう。素敵だったわ』
その横には、小さな星まで添えられている。
しばらく意味が理解できなかった。
(……ありがとう?)
彼は鏡に近づいて、文字を指でなぞった。
指に残る赤い色。彼女の色。
昨夜の記憶がよみがえる。彼女の声。荒い呼吸。熱を帯びた指先。確かに、満たされていた。彼女も、彼も。
最高に相性がよかったではないか。神が作った一対だったではないか。
(なのに、何故いない。何故、黙って去る)
胸の奥で、なにかがきしんだ。逃げられた。置き去りにされた。
その事実が、ゆっくりと染み込んでくる。
(自分が置いていかれたのか? いや、そんなはずはない)
彼は選ぶ側だった。去られる側ではない。
鏡に映る自分を見る。
いつもそこに写るのは、整った顔。自信に満ちた男の顔。
それなのに、今は少しだけ、間抜けに見えた。
「ふざけるな……」
彼の声が低く落ちた。怒りで心を満たさないと泣きそうだった。どこかの若造みたいに泣きそうだった。
礼を言って消えるなど、まるで、遊びだったのはあちらだと言わんばかりだ。
(そんなの許せない。探し出して、言わせてやる)
逃げて後悔している、恋しかった、と。
必ずだ。
謝らせる。黙って去ったことを。彼を選ばなかったことを。
そのとき、視界の端に小さな緑が光った。
ベッドの脚のそばに一個。窓辺に一個。翡翠の耳飾りだった。
それを見た瞬間、心臓が一度、強く打った。
そうだ。最初に目に入ったのは、あれだった。揺れる緑。深い色。耳元の水辺。誰も寄せつけない水辺。あの耳元に触れたいと思ったのが始まりだった。
確か、彼女が丁寧にはずすのも待ちきれず、キスの嵐を降らせた……
彼はしゃがみ込み、慎重にそれを拾い上げた。
何代にもわたって大切にされてきた品だろう。身につける者を選ぶ宝石。
彼は立ち上がって、カーテンを開けた。
「必ず見つける」
自分に言い聞かせるように、彼は低くつぶやいた。
逃げられたわけではない。謝ってもらうことなんて、ない。
大事な忘れ物を預かっているから、相手を探す。
それだけだ。
そう思いながら、彼は翡翠にそっと口づけた。
ひやりとした感触が唇に残る。
そして、ほんのわずかに、甘い記憶がよみがえった。
あの息遣い、囁く声。そして笑い声。
(……探し出す)
鏡の文字? ああ、東洋の姫君は育ちがいいから、お礼を言ったのだろう。
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