01 腕のなかの目覚め
01 腕のなかの目覚め
アイカは、誰かの腕の中で目を覚ました。
重いまぶたを開くと、見覚えのない白い天井が目に入った。カーテンの隙間から朝の光が差し込み、床にはアイカのドレスや下着と誰かの下着が点々と散らばっている。
彼女の身体に回された腕は太く、日に焼けていた。
(誰、この人……)
アイカは一瞬だけ考えて、昨夜の記憶をたどった。
浮かれて繰り出したバーで飲んだ強い酒と、低い声で笑う男の姿が思い浮かんだ。
アイカは顔を確かめようと、そっと振り向いた。
男の髪はオレンジがかった金色だった。眠っているせいか、昨夜よりもずいぶん若く見える。
(目は何色だったかしら)
アイカは男の目の色も、名前も思い出せなかった。そもそも、名前は聞かなかったような気もした。
(まあ、いいか)
彼女の名は、アイカ・レトワール。
今日から大型客船『レディオリエント』で働くことになっている。昨夜は長い航海に出る前に、ほんの少し羽目を外したのだ。
街のバーへ出かけて、一杯飲んだ。三人目に声をかけてきた男がしつこくて困っていたところへ、この男が現れたのだったと、ぼんやり思い出した。
(もう会うこともないでしょう)
アイカは男の腕をそっと持ち上げ、起こさないようにベッドから抜け出す。
床に散らばった服を拾って身につけた。片方の靴がなかなか見つからず、ベッドの下をのぞき込むと、男のシャツに絡まっていた。
「まったく……」
アイカは小さくつぶやき、靴を引っ張り出した。
最後に鏡をのぞくと、髪は乱れ、化粧もひどいことになっていた。
髪を手櫛で整え、口紅を塗った。
ふと、いつか見た映画の一場面を思い出した。
(二度と会わない男だもの……悪戯してもいいよね)
普段の彼女からは考えられないことをした。
鏡に、大きく文字を書いた。
『ありがとう。素敵だったわ』
少し考えてから、その横に小さな星を描き足した。
「それじゃあ、さようなら」
眠ったままの男に囁き、アイカは部屋を出た。
アイカは廊下へ出たところで、妙な違和感を覚えた。
壁紙も、足元の絨毯も見覚えがある。
それに、耳が軽い。
はっとして耳元に触れた。指先に触れるはずのイヤリングがない。揺れる翠色が頭に浮かんだ。
けれど、取りに戻る気にはなれなかった。
(あれも過去の一つ。もう、いらない)
そう考えている間にも、足は勝手に動いていた。階段を一つ下りると、自分の部屋のドアがすぐに見つかった。
「……私の部屋、すぐ下だったのね」
アイカはつぶやいた。
酔っていたとはいえ、自分が泊まっているホテルへ連れ込まれていたことにも気づかなかったのだ。アイカは少しあきれた。
(でもまあ、無事に戻ってこられたのだから、航海に出る身としては縁起がいいかもしれないわ)
自分の部屋に入り、そのまま浴室へ向かった。
熱いシャワーを頭から浴びる。昨夜の火遊びが、泡と一緒に流れていった。
「今日から仕事。しっかりしなさい、アイカ」
アイカは鏡の中の自分に言い聞かせた。
船の仕事は初めてだ。そもそも、働くこと自体が初めてだった。
ここ最近、アイカの人生には初めてのことが多すぎた。
知らない男と飲んだ。その男と寝た。
(……いい気持ちだった)
口紅で鏡にメッセージを書いたことも初めてだ。
家出したことも。離婚したことも。
アイカは身支度を済ませると、荷物をまとめてホテルを出た。
玄関前でタクシーを拾い、港へ行くように告げる。
運転手がバックミラー越しに何か聞きたそうにしていたので、先回りして行き先を付け加えた。
「レディオリエント号へ」
アイカが告げると、運転手は答えた。
「承知しました」
やがて港が見えてきた。
海を背に停泊する白い船体は、写真で見たものよりもはるかに大きかった。何層にも並ぶ客室の窓が朝日に輝き、その横腹には『レディオリエント』の名が鮮やかな青い文字で記されている。
タクシーを降りて荷物を受け取ると、運転手は「よい航海を」と言って去っていった。
「大きい……」
アイカは思わず船を見上げてつぶやいた。
期待と不安が、胸の中で同時に膨らんだ。
そこへ、ひとりの男性が近づいてきた。
「アイカ・レトワールさんですね?」
男性が声をかけた。
「はい。本日からお世話になります」
アイカが姿勢を正すと、男性は穏やかに微笑んだ。
「一等航海士のラルフ・ブラウンです。ようこそ、『レディオリエント』へ」
アイカは差し出された手を握った。
大きくて、ごつごつした海の男の手だった。
「わざわざ一等航海士の方が迎えてくださるんですか?」
アイカが尋ねた。
「はい。あなたは特別ですよ。ご自分でもおわかりでしょう」
ブラウンは答えた。
「ええ。今、改めて実感いたしました」
アイカはうなずいた。
「詳しいことは、今夜の顔合わせでわかるでしょう」
ブラウン一等航海士はそれ以上説明せず、アイカの荷物に手を伸ばした。
「自分で持てます」
アイカが断ると、ブラウン一等航海士は言った。
「そうですか。頼もしいですね」
「荷物くらいで褒められては、先が思いやられます」
アイカが答えると、彼の口元にわずかな笑みが浮かんだ。
アイカは案内された部屋に入って驚いた。
彼女に与えられたのは乗組員用の居室ではなく、豪華な乗客用の一室だったのだ。
あらかじめ送っていた荷物はすでに荷解きされ、中身もきちんと棚に収められていた。
そしてベッドの上には、アイカの制服がきれいに広げられている。
白いシャツに、濃紺のジャケットとスカート。ジャケットの胸元には、金糸で船の徽章が刺繍されていた。
貴婦人の横顔と、その背後から昇る朝日。
『レディオリエント』の名にふさわしい意匠だった。
「本日の午後六時、職員の顔合わせがあります。五分前には中央会議室へ来てください。その制服を着用するように」
ブラウン一等航海士が告げた。
「わかりました」
アイカは答えた。
「遅刻は厳禁です」
「はい」
「それと――」
ブラウン一等航海士は何かを言いかけ、アイカの顔をじっと見た。
「なんですか?」
アイカが問うと、ブラウン一等航海士は答えた。
「いえ。今夜になればわかります」
ブラウン一等航海士が出ていったあと、アイカは制服のジャケットを持ち上げた。
生地も仕立ても一流だった。
制帽をかぶって鏡の前に立つ。見慣れた自分の顔が、見知らぬ帽子の下から、少し戸惑ったようにこちらを見返していた。
机の上には、アイカの名刺が入った箱が置かれていた。
印刷された名前の下には、手書き用の余白がある。
アイカは、自分で整理すると伝えておいた別の箱を開けた。
そこには、彼女と人生をともに歩んできた宝物が収まっていた。
インクとペンと東洋の小物入れだ。意匠の小鳥が可愛い。
一つずつ取り出して、棚に並べていく。頼もしくて愛しい相棒たちが、そこから彼女を励ましてくれているようだった。
小物入れは机の定位置に収まった。部屋が一気に自分の場所になった。
海の色のインクとお気に入りのペンを選び、机に座る。
まずは、備え付けの便箋に書いてみた。
――『海は、過去を静かに溶かす』
好きな詩の一節を、さらりと書く。文字は流れるように整っていた。
(良さそうね)
名刺を手に取り、何枚かに同じ言葉を書き込んでおく。挨拶代わりに、誰かに渡すことになるかもしれない。
一等航海士補佐として、自分にはこうした優雅な振る舞いや社交性が期待されているのだろうと、アイカは考えた。
壁の時計を見る。
午後六時まで、まだかなり時間がある。
一度船が出港してしまえば、簡単には降りられない。ここで働く人々がどんな人間なのかも、船内の細かい決まりも、不文律も、まだよく知らない。
それでも、不安より好奇心のほうが勝っていた。
アイカは制服の襟を指でなぞり、ひとりでくすりと笑った。
「今晩六時が、職員の顔合わせ……」
アイカはつぶやいた。
(海の男たちの洗礼というやつかしら)
(上等だわ。どんな洗礼でも、受けて立ってやる)
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