76話
「……で、どこに行けばいいの?」
スマートフォン越しに聞こえてきた声は、昔と何も変わっていなかった。
「駅前。前に行ったことあるカフェ、覚えてる?」
「覚えてるよ。私が注文したケーキを、クロが一口食べて半分くらい持っていったところでしょ」
「一口だっただろ」
「私の記憶では半分だったけど?」
「記憶を改竄するな」
「ふふっ。相変わらずだね、クロ」
通話の向こうで、楽しそうに笑う声がした。
久遠カナタ。
かつて個人勢VTuberとして活動し、引退時には約六十五万人の登録者を抱えていた人物。そして、クロがまだ個人勢だった頃からの古いゲーム仲間。
現在はVTuberとしての活動を完全に引退している。
今回の大会に参加することは、すでに本人から了承をもらっていた。
だから今日会うのは、細かい参加条件の確認でも、説得のためでもない。
ただ、久しぶりに顔を合わせるためだった。
「じゃあ、待ってるね。私、楽しみにしてるから」
「はいはい」
「……クロ?」
「ん?」
「ちゃんと来てね。私、待つの苦手だから」
「お前、昔大会の集合時間に三十分遅れてきただろ」
「それはそれ、これはこれ」
「はいはい。じゃあ後で」
通話を切る。
クロはスマートフォンをポケットにしまい、駅前へと向かった。
そもそも、カナタと最後に直接会ったのはいつだっただろう。
活動を引退する少し前だったか。それとも、もっと前だったか。
オンラインでは何度か話した。引退後も、連絡先自体は消えていなかった。たまにゲームの話をしたり、どうでもいい雑談をしたりすることもあった。
それでも、直接会うとなると話は別だった。
クロは駅前の信号を渡り、以前よく利用していたカフェへと向かった。
そして、店の前に着いたところで。
「あっ」
聞き覚えのある声がした。
「クロ!」
店の入り口近くに、一人の人物が立っていた。
最初に目に入ったのは、柔らかそうな淡い銀髪だった。
肩にかかるくらいの長さで、毛先が少し内側にまとまっている。
前髪は目元にかかり、青みがかった瞳を引き立てていた。
白いブラウスに、ゆったりとした黒のカーディガン。
細身のパンツに、小さなショルダーバッグ。
全体的に華奢で、顔立ちも整っている。
遠目に見れば、可愛らしい女の子にしか見えない。
本人はそんな視線を気にした様子もなく、クロを見つけると嬉しそうに手を振った。
「久しぶり!」
「……おう」
「何その反応」
「いや」
「いや?」
「相変わらずだなって」
「それ、さっき電話でも言ってたよね?」
カナタは少し頬を膨らませた。
その仕草まで妙に可愛らしい。
「私、今日のためにちゃんと準備したんだけど」
「何の?」
「服とか」
「普通じゃね?」
「ひどい!」
「いや、別に変じゃないだろ」
「可愛い?」
「……は?」
「可愛い?」
二度目は、少し顔を近づけて聞いてきた。
クロは数秒ほど黙り込んだ。
「……可愛いんじゃない?」
「えへへ」
カナタは、あっさりと笑った。
「よし」
「何がよしなんだよ」
「クロに言ってもらえたから」
「お前、昔からそういうところあるよな……」
「そういうところって?」
「何でもない」
クロは店のドアを開けた。
「入るぞ」
「うん!」
カナタは楽しそうに後ろをついてきた。
席に着いて飲み物を注文すると、二人の間にしばらく静かな時間が流れた。
気まずいわけではない。
ただ、久しぶりに直接会ったことで、互いに少しだけ相手の様子を確かめているような時間だった。
先に口を開いたのはカナタだった。
「……なんか、不思議だね」
「何が?」
「こうしてクロと会ってること」
カナタは両手でカップを包みながら、目を細めた。
「私、もうVTuberじゃないんだよね」
「そうだな」
「昔はさ、毎日のように配信して、大会に出て、終わったらクロとゲームして。寝る時間も忘れて、朝になってから後悔して」
「お前が勝手にランク回し始めるからだろ」
「クロだって付き合ってたじゃん」
「誘われたからな」
「断ればよかったのに」
「……まあ、そうだな」
「ふふっ。今さらだね」
カナタは笑った。
けれど、その表情はすぐに少しだけ落ち着いたものに変わった。
「引退したときは、もうこういうこともなくなると思ってた」
「ゲームはしてただろ」
「オンラインならね。でも、こうやって会うのは違うよ」
「そうか?」
「そうだよ」
カナタはまっすぐクロを見た。
「だから、連絡をもらったとき、嬉しかった」
クロは黙って話を聞いていた。
「私が引退したこと、クロはちゃんと尊重してくれてたでしょ。無理に戻ってこいとか、配信しようとか、一度も言わなかった」
「本人が辞めるって決めたんだから、こっちが口を出すことじゃないだろ」
「うん。だから、今回もびっくりした」
カナタは小さく笑う。
「クロから、私が必要だからって言われるなんて思わなかった」
「……あれ、そんなに変だったか?」
「変じゃないよ。嬉しかったの」
少しだけ間を置いて、カナタは続けた。
「私、もう表に出るつもりはないって決めてた。今も、その気持ちは変わってないよ」
「分かってる」
「でも、今回だけならいいかなって思ったんだ」
カナタはカップを置いた。
「クロと一緒にゲームするの、久しぶりだから」
「別に、今回が終わったって遊べるだろ」
「……え?」
「ゲームくらい、いつでも誘えばいいじゃん」
カナタが目を丸くした。
「いや、でも、クロって忙しいでしょ、LIVENTOの仕事もあるし、配信もあるし、ほかの人との付き合いだって……」
「空いてるときなら遊べるだろ」
「……」
「何だよ」
「いや」
カナタは顔を伏せた。
肩が小さく震えている。
「おい、何笑ってんだ」
「だって……」
顔を上げたカナタは、少し赤くなった頬を隠すように口元を押さえていた。
「クロって、昔からそうだよね」
「だから何が」
「私が勝手に考えすぎてると、すごく簡単なことを言ってくる」
「実際、簡単なことだろ」
「そうなんだけどさぁ……」
カナタは困ったように笑った。
「私、クロに会えてよかった」
「……おう」
「それだけ?」
「俺も久しぶりに会えてよかったよ」
「……っ」
カナタは再び顔を伏せた。
「どうした?」
「ちょっと待って」
「何を?」
「今、顔が熱いから」
「熱でもあるのか?」
「違うよ!」
勢いよく顔を上げる。
「そういうところだよ、もう!」
「何がだよ……」
クロには本当に分からなかった。
カナタはしばらく彼を睨んでいたが、結局、諦めたように息を吐いた。
「……もういい。私が勝手に恥ずかしくなってるだけだから」
「そうか」
「うん」
「じゃあ、ケーキ食うか?」
「食べる!」
返事だけは驚くほど早かった。
二人はそれぞれケーキを注文し、昔の大会の話や、当時一緒に遊んでいた人たちの話をした。
「あの大会、覚えてる? クロが最後の試合で回線落ちしたやつ」
「やめろ」
「私、あのとき一人で三人倒したんだよ」
「そのあと負けただろ」
「言わなくていいじゃん!」
「事実だろ」
「クロのせいでしょ!」
「回線落ちしたのは俺のせいじゃない」
「そのあと私が焦ったのはクロのせい!」
「理不尽すぎるだろ」
カナタは楽しそうに笑った。
クロも、わずかに口元を緩めた。
配信をしていた頃と同じだった。
勝った負けたで言い合って、くだらないことで笑って、気づけば何時間も経っている。
引退しても、変わらないものはあるらしい。
「……ねえ、クロ」
食事を終えた頃、カナタが声をかけた。
「ん?」
「大会、楽しみにしてるね」
「ああ」
「私、引退してから大勢の前でゲームをすることなんてなかったから、ちょっと緊張してるけど」
「嫌なら、今からでも――」
「嫌じゃないよ」
カナタはすぐに首を振った。
「クロが呼んでくれたんだもん。ちゃんとやるよ」
そして、少しだけいたずらっぽい笑みを浮かべる。
「それに、クロと同じチームなんでしょ?」
「そうだけど」
「だったら、負けられないね」
「俺に勝つつもりか?」
「もちろん。昔から一度は勝ち越したいと思ってたんだから」
「無理だろ」
「ひどい! 私だって成長してるんだよ!」
「ゲームしてなかったんじゃないのか?」
「……そこは、ほら」
「ほら?」
「昔の貯金があるから!」
「それ、いつまで使えるんだよ」
二人の笑い声が、カフェの一角に響いた。
帰り際、店を出たところでカナタが立ち止まった。
「クロ」
「ん?」
「今日はありがとう」
「別に。俺が誘ったんだし」
「ううん。会いに来てくれて、ありがとう」
カナタは少し背伸びをして、クロの顔を覗き込む。
「大会が終わっても、また誘ってね」
「分かった」
「絶対だよ?」
「分かったって」
「約束ね」
そう言って、カナタは小指を差し出した。
クロはそれを見て、呆れたように息を吐く。
「お前、いくつだよ」
「クロと同じくらい」
「そういう意味じゃねえよ……」
文句を言いつつも、クロは小指を絡めた。
カナタは満足そうに笑った。
「えへへ。約束」
その笑顔は、かつて配信画面の向こうで見せていたものと、よく似ていた。
ただ一つ違うのは。
今は画面越しではなく、すぐ目の前にいるということだった。
「じゃあ、またね。クロ」
「おう。またな、カナタ」
手を振って別れる。
数歩進んだところで、クロのスマートフォンが震えた。
カナタからのメッセージだった。
『今日は本当に楽しかった! 大会、頑張ろうね。あと、次は私がケーキを奢ってもらう番だから!』
クロは短く返信した。
『自分で払え』
すぐに返事が来る。
『けち!』
クロは小さく笑い、スマートフォンをしまった。
引退したはずの友人が、もう一度だけ大会の舞台に立つ。
その理由が自分にあるのなら、少しくらいは責任を持ってやろう。
そんなことを考えながら、クロは帰路につい
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