74話
朝食を食べ終えた頃には、午前九時を過ぎていた。
「ごちそうさまでした」
しずくが手を合わせる。
「お粗末さま」
「いえ、とても美味しかったです。真琴さん、ありがとうございます」
「いえいえ。大したものではありませんから」
真琴は食器を片付けながら、穏やかに笑った。
今朝の一件があったせいか、しずくは真琴と目が合うたびに少しだけそわそわしている。
一方、当の真琴はすっかりいつも通りだった。
「伊織、お皿をお願いします」
「はい」
「そちらではなく、流しの横に置いていただけますか?」
「あ、そっちか」
「はい。ありがとうございます」
……なんか、俺だけ妙に指示されてないか?
「クロさん、普段からこんな感じなんですか?」
しずくが小声で聞いてきた。
「何が?」
「真琴さんと一緒に家事をされているところです」
「まあ、いるときは手伝うけど」
「そうなんですね……」
しずくは、どこか納得したように頷いた。
「なんだよ」
「いえ。お二人とも自然だなと思いまして」
「長い付き合いだからな」
「……そうですよね」
しずくは微笑んだ。
その後、真琴が食器を片付け終えると、今度はしずくが時計を見た。
「……そろそろ帰る準備をしますね」
「もう帰るの?」
俺が尋ねると、しずくは少し驚いたようにこちらを向いた。
「はい。昨日からお邪魔していますし、あまり長居してしまうのも申し訳ないので」
「別にいいけど」
「クロさん、そういう問題ではありませんよ」
真琴が横から口を挟む。
「しずくさんにもご予定があるでしょうし、帰る時間はご本人に決めていただきましょう」
「……はい」
「ありがとうございます、真琴さん」
しずくは立ち上がり、借りていたタオルなどをまとめ始めた。
俺もソファから立ち上がる。
「駅まで送る?」
「えっ、大丈夫です! 一人で帰れますから」
「そっか」
「はい。お気遣いありがとうございます」
しずくは丁寧に頭を下げた。
それから、荷物を持って玄関へ向かう。
真琴も見送りに来た。
「しずくさん、忘れ物はありませんか?」
「はい。大丈夫だと思います」
「何かあれば、遠慮なく連絡してくださいね」
「ありがとうございます」
靴を履いたしずくが、玄関の扉に手をかける。
しかし、そこで動きが止まった。
「……クロさん」
「ん?」
「昨日は、本当にありがとうございました」
「うん」
「ゲームも楽しかったですし、朝ご飯も美味しかったですし……」
しずくは少し照れたように笑った。
「お二人と一緒に過ごせて、すごく楽しかったです」
「そっか。また遊べばいいじゃん」
「……はい」
しずくは嬉しそうに頷いた。
けれど、すぐには扉を開けなかった。
何かを言おうとして、少し迷っているようだった。
「……あの、クロさん」
「うん?」
「また……泊まりに来てもいいですか?」
思っていたよりも、小さな声だった。
俺は特に考えずに答える。
「いいよ」
「……えっ」
「別に、泊まるくらいなら問題ないし。遊びに来るのも好きにすればいい」
「…………」
しずくが固まった。
「しずく?」
「あっ、いえ!」
慌てて顔を上げる。
「ありがとうございます。……本当に、嬉しいです」
その声は、いつもより少しだけ弾んでいた。
真琴も隣で微笑んでいる。
「もちろん、私も歓迎しますよ。今度は前もって予定を決めておけば、準備もしやすいですから」
「はい! ありがとうございます、真琴さん」
しずくは二人に向かって、深く頭を下げた。
「では、また連絡しますね」
「おう。またな」
「お気をつけて」
「はい。それでは、失礼します」
扉が閉まる。
しずくの足音が遠ざかっていった。
「……帰ったな」
「そうですね」
真琴は玄関を片付けながら、ふと俺を見る。
「伊織」
「ん?」
「しずくさん、嬉しそうでしたね」
「そうだな」
「また泊まりに来たいそうですよ」
「聞いてたけど」
「ええ。聞いていましたね」
真琴は少し笑った。
「伊織は、誰かが遊びに来ることに抵抗がなくなりましたね」
「そうか?」
「以前は、自分から誰かを家に呼ぶこともあまりなかったでしょう?」
「……まあ、そうだったかも」
「しずくさんも、きっと居心地がよかったんだと思います」
真琴はそう言って、リビングへ戻っていく。
俺もその後を追った。
「真琴はどうなの?」
「何がですか?」
「俺の家にいるの、居心地いい?」
真琴は一瞬だけ足を止めた。
それから、振り返って微笑む。
「もちろんですよ。長くお世話になっていますから」
「いや、俺がお世話してる側じゃない?」
「……そうでしたね」
真琴は小さく笑った。
「でも、私にとっても落ち着ける場所なんです」
「そっか」
「はい」
それだけ言うと、真琴はいつものようにソファへ座った。
俺も隣に腰を下ろす。
テレビをつけると、何気ない休日の番組が流れ始めた。
しずくが帰ったことで、家の中はまた静かになった。
けれど、昨日までとは少し違う。
また遊びに来ると言っていた。
きっと、そのうち本当に来るのだろう。
「……次は何のゲームやるかな」
俺が呟くと、真琴がこちらを見る。
「しずくさんと、ですか?」
「うん。今度こそ勝ちたいって言ってたから」
「伊織は毎回勝っていますよね」
「だから、次も勝つ」
「……少しは手加減してあげてください」
「考えとく」
「お願いしますね」
真琴は呆れたように笑った。
そんな、いつも通りの休日だった。
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