73話
午前七時半。
「…………ん」
目が覚めた。
カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。スマホを手に取って時間を確認し、もう少し寝ようかと考えたところで、妙な違和感に気づいた。
……重い。
いや、正確には。
「…………」
腰のあたりに腕が回っている。
背中には人の体温。
そして、肩のあたりに感じる規則正しい寝息。
「……真琴?」
振り返ろうとすると、腕に少し力がこもった。
「……ん……」
「…………」
ああ、またか。
七瀬真琴。俺のマネージャー。昔からの付き合いで、今では仕事でも私生活でも何かと一緒にいる人間だ。
そして、寝ているときに限って、やたらと人にくっついてくる。
本人に自覚はない。
少なくとも、本人はそう言っている。
「……真琴、朝」
「…………」
返事はない。
「起きて」
「……あと五分だけ……」
「それ、昨日も聞いた」
「……知りません……」
いや、知ってるだろ。
そもそも、ここは俺の家だ。
昨日、しずくが泊まることになったので、寝る場所をどうするかという話になった。
しずくには客用の布団を用意した。
真琴はというと、以前から何度も泊まりに来ているため、特に何も考えずにいつものように寝た。
その結果がこれである。
「……お前、抱きついてるぞ」
「……ん……」
「聞いてる?」
「……伊織……?」
「そうだけど」
「……おはようございます……」
「おはよう」
「…………」
「…………」
「……もう少しだけ……」
「何が?」
「……このままで……」
「いや、起きろよ」
そう言いながらも、俺は特に抵抗しなかった。
どうせ起こしても、寝ぼけている間はまともに話が通じない。
しばらく待っていれば、そのうち自分から離れるだろう。
……たぶん、そう思っていた、そのとき。
「……あの」
別の声がした。
「…………」
俺はゆっくりと顔を向けた。
部屋の入口。
そこには、寝起きのまま固まっているしずくが立っていた。
「…………」
「…………」
数秒間、沈黙。
しずくは俺を見て、真琴を見て、もう一度俺を見た。
「……クロさん」
「はい」
「……おはようございます」
「おはよう」
「……えっと」
しずくは視線を泳がせた。
「……真琴さん、ですか?」
「そうだよ」
「……抱きついて、いらっしゃいますよね?」
「そうだな」
「…………」
「…………」
「……あの、お二人は……」
「違うぞ」
「まだ何も聞いていません……!」
しずくが慌てて両手を振った。
「す、すみません! その、驚いてしまって……!」
「いや、まあ、驚くよな」
自分でもそう思う。
他人が見たら、どう考えてもそういう関係に見えるだろう。
ただ、俺としては慣れた光景だった。
問題は、本人がまだ寝ていることだ。
「真琴、起きろ。しずくいるぞ」
「…………」
「おい」
「……しずくさん……?」
真琴がようやく目を開けた。
そして、寝ぼけた顔のまま俺の肩越しに入口を見る。
「……あら。おはようございます、しずくさん」
「お、おはようございます……!」
真琴はにこやかに挨拶を返した。
それから、数秒。
自分が何をしているのか理解したらしい。
「…………」
腕が緩む。
ゆっくりと俺から離れる。
そして。
「…………」
「…………」
「……失礼しました」
真琴は布団の上で姿勢を正した。
「おはようございます。……その、見苦しいところをお見せしました」
「い、いえ! そんなことは……!」
「……伊織」
「はい」
「なぜ起こしてくれなかったんですか」
「起こした」
「起きていません」
「それはそう」
「…………」
真琴は小さく息を吐いた。
「……申し訳ありません。寝ている間のことなので、私も気をつけようがないのですが……」
「いえ、本当に大丈夫です!」
しずくは必死に首を振った。
「私、その……お二人が仲がいいのは知っていますし……!」
「そういう問題なのか?」
「クロさんは少し黙っていてください」
「はい」
真琴の声は丁寧だったが、妙に圧があった。
しずくは二人を見比べてから、恐る恐る尋ねる。
「……あの、真琴さんは、いつもこうなんですか?」
「…………」
真琴が黙った。
俺は普通に答える。
「まあ、たまに」
「伊織」
「いや、事実だろ」
「……そうですね。否定はできません」
真琴は観念したように頷いた。
「ただ、普段から意識しているわけではありません。寝ている間の癖のようなものですので……本当に、申し訳ありません」
「いえいえ! 謝らないでください!」
しずくは顔を赤くしながら、何度も首を振った。
「その……お二人らしいな、と思いました」
「俺たちらしい?」
「はい……」
しずくは少しだけ笑った。
「なんだか、安心しました」
「何に?」
「……秘密です」
そう言って、しずくはそそくさとリビングへ向かった。
残された俺と真琴。
「……伊織」
「ん?」
「次からは、もう少し早く起こしてください」
「努力する」
「お願いします」
真琴は髪を整えながら、小さくため息をついた。
「……本当に、恥ずかしいところを見られてしまいました」
「今さらじゃない?」
「伊織」
「はい」
「そういうところですよ」
……何がだよ。
結局、その朝もいつも通りだった。
リビングでは、しずくが朝食の準備を手伝おうとしていて、真琴が丁寧に断りながら一緒に台所へ向かっている。
俺はというと、寝起きのままソファに座っていた。
「クロさん、朝ご飯できそうですよ」
「ん」
「伊織、顔を洗ってきてください」
「はいはい」
「はいは一回です」
「はい」
そんな会話をしながら、俺たちの朝は始まった。
ただ一つ違ったのはしずくが朝食の間、何度か俺と真琴を見ては、楽しそうに微笑んでいたことくらいだった。
……頼むから、変な誤解だけはしないでほしい。
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