72話
午後八時半。
「……いや、今のはおかしいだろ」
俺はコントローラーを置いた。
テレビ画面には、対戦ゲームの結果が表示されている。
一位、クロ。
二位、七瀬真琴。
三位、雨音しずく。
「ええっ、また負けました……!」
しずくが悔しそうに声を上げた。
「クロさん、強すぎませんか?」
「まあ、こういうゲームは慣れてるから」
「それにしてもです! 私、さっきから一回も勝ててないんですけど……」
「いや、さっき一回勝っただろ」
「それは真琴さんにです!」
「私も一回だけですよ」
真琴は苦笑しながらコントローラーをテーブルに置いた。
「伊織には勝てませんでしたけど」
「真琴さんも十分強いと思います……」
「ありがとうございます。でも、伊織は昔からゲームになると容赦がないので」
「いや、手加減してるけど」
「それで一位なんですか?」
しずくがじっと俺を見る。
「……手加減とは?」
「いや、ちょっとは」
「クロさん、もう一回お願いします」
「まだやるの?」
「はい!」
しずくはコントローラーを握り直した。
その隣で真琴も、少し考えてからコントローラーを手に取る。
「私も、もう一回やりましょうか」
「真琴さんもですか?」
「はい。次こそ伊織に勝ちたいので」
「二人ともやる気だな……」
結局、もう一戦。
そして結果は。
一位、クロ。
二位、七瀬真琴。
三位、雨音しずく。
「…………」
しずくが無言になった。
「……しずく?」
「クロさん」
「はい」
「私、もう少し練習してきます」
「お、おう」
「次に来るときは絶対に勝ちますから!」
「別にいつでも来ていいけど」
「……はい?」
「あ?」
「……いえ、ありがとうございます」
しずくは一瞬だけ目を丸くしてから、嬉しそうに笑った。
その様子を見ていた真琴が、ふと壁の時計に目を向ける。
「……あら、もうこんな時間なんですね」
時計は午後九時を少し回っていた。
しずくも時計を確認する。
「あ、本当ですね。そろそろ帰らないと……」
そう言いながらも、しずくはすぐには立ち上がらなかった。
テーブルの上には、飲みかけのジュースと食べ終わったお菓子の袋。
テレビではゲームのメニュー画面が流れている。
特別なことは何もしていない。
ただ、三人でゲームをしていただけだ。
それなのに、楽しい時間はあっという間に過ぎていた。
「しずくさん、お家まではどのくらいかかるんですか?」
真琴が尋ねる。
「電車で帰るので、少し時間がかかります。駅まで歩いて、そこから乗って……」
「なるほど」
真琴は少し考えた。
「今からですと、帰宅するのも遅くなりそうですね」
「そうですね。でも、大丈夫です」
しずくは笑顔で答えた。
「今日は急にお邪魔してしまいましたし、そろそろ失礼しますね」
そう言って立ち上がろうとしたところで、真琴が口を開いた。
「……しずくさん」
「はい?」
「よろしければ、今日は泊まっていかれせんか?」
「…………え?」
しずくの動きが止まった。
俺も真琴を見る。
「……真琴?」
「はい?」
「いや、普通に聞いたけど」
「ええ。もう遅いですし、今から帰るのも大変でしょう?」
真琴は落ち着いた口調で続けた。
「もちろん、ご都合もあると思いますので、無理にとは言いません。ただ、伊織もいますし、泊まる場所に困ることはないでしょうから」
「えっ、あの……」
しずくは俺と真琴を交互に見た。
「本当に、いいんですか?」
「私は構いませんよ」
真琴が微笑む。
それから、俺を見る。
「伊織も大丈夫ですよね?」
「うん。別に問題ないけど」
「……!」
しずくの表情がぱっと明るくなった。
しかし、すぐに少し申し訳なさそうな顔になる。
「でも、お二人にご迷惑ではありませんか?」
「別に」
「そうですね。伊織の家ですし、私が勝手に決めることでもありませんが……伊織本人もいいと言っていますから」
「真琴さんも、今日は泊まるんですか?」
しずくが尋ねた。
「そうですね。明日の予定を考えると、こちらにいたほうが都合がいいので」
「……そうなんですね」
しずくは小さく頷いた。
そして、少しだけ恥ずかしそうに笑う。
「それでは……お言葉に甘えてもいいですか?」
「もちろんです」
「うん」
「ありがとうございます、クロさん。真琴さんも、ありがとうございます」
しずくは丁寧に頭を下げた。
そのあと、何かを思い出したように顔を上げる。
「……あっ。でも、着替えがありません」
「それなら、明日の服はどうするか考えないといけませんね」
真琴が言った。
「近くのお店も、もう閉まっているところが多いでしょうし……」
「まあ、適当でいいんじゃない?」
「伊織」
「はい」
「女の子が泊まるんですから、もう少し考えてあげてください」
「……はい」
しずくが慌てて首を振る。
「あっ、いえ! クロさんは悪くないです! 私が急に泊まることになったので!」
「しずくさん、伊織はこういうところがありますから、気にしなくて大丈夫ですよ」
「真琴?」
「事実でしょう?」
「……そうだけど」
しずくがくすくすと笑った。
「ふふっ。お二人、本当に仲がいいですね」
「そうでしょうか?」
「はい」
「長い付き合いですからね」
真琴はそう答えてから、立ち上がった。
「それでは、寝る場所を準備しましょうか」
「俺、布団出してくる」
「お願いします。私はしずくさんが使うタオルなどを用意しますね」
「ありがとうございます、真琴さん」
三人で準備を始める。
俺が押し入れから布団を出し、真琴がタオルや歯ブラシを用意する。
しずくはその様子を見ながら、何度も申し訳なさそうに頭を下げていた。
「本当にありがとうございます……」
「そんなに何度もお礼を言わなくても大丈夫ですよ」
「でも、急に泊めていただくことになったので……」
「私も、以前からしずくさんには何度も遊びに来ていただいていますし。遠慮しなくていいんです」
「……はい」
しずくは嬉しそうに微笑んだ。
準備が終わると、三人でリビングに戻った。
ゲーム機はまだ起動したままだ。
しずくが画面を見つめる。
「……クロさん」
「ん?」
「最後に、もう一回だけ対戦しませんか?」
「まだやるの?」
「はい。今日の最後に、一度くらい勝ちたいです」
「いいけど」
「私も参加していいですか?」
真琴も自然にコントローラーを手に取った。
しずくが驚く。
「真琴さんもですか?」
「はい。せっかくですから」
「……分かりました。今度こそ勝ちます!」
三人で最後の一戦を始めた。
そして。
一位、クロ。
二位、七瀬真琴。
三位、雨音しずく。
「…………」
「……しずくさん」
「はい」
「惜しかったですね」
「真琴さん、優しいです……」
「いや、結構惜しかっただろ」
「クロさんは一位なので、そう言えるんですよ……!」
しずくが頬を膨らませる。
俺は笑いながら、コントローラーを置いた。
「じゃあ、また次に来たときな」
「……はい!」
しずくは、今度こそ嬉しそうに笑った。
その夜。
寝る前に、しずくは用意してもらった布団の前で、少しだけ立ち止まっていた。
「……クロさん」
「ん?」
「今日は、本当にありがとうございました」
「うん」
「急に遊びに来たのに、ゲームもできて……泊めていただけることにもなって」
しずくは少し俯いた。
「……すごく楽しかったです」
「そっか」
「はい」
少しの沈黙。
それから、しずくは顔を上げた。
「また、遊びに来てもいいですか?」
「もちろん」
俺はいつも通りに答えた。
「暇なときに来ればいいよ」
「……ありがとうございます」
しずくは、ほっとしたように笑った。
その横で、真琴が小さく微笑んでいた。
「伊織は、こういうところは昔から変わりませんね」
「どういうところ?」
「自分では何でもないことのように言うところです」
「……よく分からん」
「ふふっ。そうですね」
真琴はそれ以上説明しなかった。
しずくは二人を見て、また少し笑った。
今日は、もう帰らなくていい。
明日の朝まで、ここにいられる。
それが思っていた以上に嬉しかった。
「……おやすみなさい、クロさん。真琴さん」
「おやすみ」
「おやすみなさい、しずくさん」
部屋の明かりが消える。
静かになった家の中で、しずくは布団に入った。
今日のゲームのことを思い出す。
何度挑戦しても、クロには勝てなかった。
真琴にも勝てなかった。
けれどまた来てもいいと言ってもらえた。
それだけで、次が楽しみになった。
しずくは布団の中で小さく笑い、ゆっくりと目を閉じた。
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