第19話|迫る足音
寛人は久しぶりに大学へ顔を出した。
寛人が講義室へ足を踏み入れると、同じ授業を受ける学生たちが歓声を上げて迎えた。
あまりに突然の歓迎に、寛人は一瞬足を止めて戸惑った。
「お、アイドル様のお出ましだ」
「愛川さん、あんなイケメンだったなんて知りませんでした!」
普段から円満に大学生活を送っていたおかげで、周囲は一様に寛人のデビューを祝福するムードに包まれていた。
寛人がアイドルオタクであることは、同じ学部の人なら誰もが知っているほど有名だった。
そのうえ、プロフィール写真が公開された当日、寛人のスマホの通知は鳴り止まなかった。
「じゃあ、学校にはもうあまり来られないんですか?」
「単位はほとんど取れてるから。ゼミのある日だけは来るつもりだよ」
寛人を中心に、講義室は和やかな空気に満ちていた。
そんな光景を、講義室の隅からA.STREの真栄田朱以がじっと見つめていた。
講義室のドアが開き、教授が入ってきた。
教授は寛人の顔を見ると、穏やかな笑みを浮かべた。
「愛川くん、もう就職の心配はいらなさそうだね」
「高橋先生まで、そんな……」
教授は学生たちの顔をさらりと見渡してから、口を開いた。
「全員揃っているようだね。それじゃあ、前回の続きを始めようか」
***
昼休みになっても、寛人は他学部の学生たちに囲まれ、注目の的になっていた。
「愛川さん、一緒に写真撮ってもいいですか?」
「悪いけど、写真は事務所の許可が必要だからできないんだ」
「愛川、可愛い芸能人に会った?誰か紹介してよ」
「さすがにそれは、ちょっとできないな」
食事中も質問攻めは途絶えなかった。
無理な要求や無遠慮な質問に対しても、寛人は笑顔で一つ一つ丁寧に断り続けていた。
だが、さすがの寛人もそろそろ疲労の色を隠せなくなっていた。
「愛川さん、少しお話があります」
寛人を囲んでいた輪を割って入ってきたのは、朱以だった。
朱以の登場に、嘘のように周囲が静まり返った。
寛人は椅子から立ち上がった。
「ここは人目が多いし、外で話そうか」
***
寛人はキャンパスの隅にあるベンチに腰を下ろした。
朱以は近くの自動販売機で買った、寛人の好物の缶コーヒーを手渡しながら隣に座った。
しばらく沈黙が続いた後、朱以が口を開いた。
「……一応、デビューおめでとうございます」
「うん、ありがとう」
「……お祝いのためだけに呼んだわけじゃないです」
朱以は手の中で缶を転がしながら、言葉を継いだ。
「STARZENで、マネージャーとして一緒にやってほしかったんです。……本音を言えば」
寛人の目が見開いた。
プロフィール写真が公開された日、真っ先に連絡をくれたのは朱以だった。
あの日だけはメッセージもなく、いきなり電話がかかってきた。
——今からでもデビュー、取り消してください!
寛人が「もう決まったことだから無理だよ。真栄田らしくない」と返すと、朱以は何も言わずに電話を切った。
それ以来、こうして二人きりで話すことはなかった。
朱以が静かに口を開いた。
「……あの日は、言い過ぎました」
「……そこまで思ってくれてたとは、知らなかったな」
「それもありますが……正直に言えば、向いていないと思いました。人を信用しすぎますから」
朱以は少し間を置いてから、再び口を開いた。
「愛川さんは我慢するんでしょう。……そういうタイプが一番先に壊れますよ」
寛人は言葉に詰まった。
無理に笑おうとしたが、引きつったように口元が固まった。
朱以は寛人の反応を察して、事務的なトーンに話題を変えた。
「ところで、あれほど好きだったアイドルを実際やってみて、どうですか?」
「まだ実感が湧かないんだ。デビューすれば死ぬほど忙しくなると思ってたけど、こうして普通に授業にも参加できたし」
寛人は顔を上げ、空を見つめた。
「プレイヤーになる思いはとっくに捨てたはずだったのに。実際やってみると、高揚感もあるけど、それ以上に大変だね。なんだか真栄田に軽く『やってみて』と言ったのが申し訳ないくらいだよ」
「案外すぐ慣れたので、気にしないでください」
朱以は淡々と答えた。
そして、時間を確認すると、その場から立ち上がった。
「次の授業、講義室が遠いので、お先に失礼します」
「あ、うん。またね」
立ち去りかけた朱以が、足を止めて振り返った。
「やっていく中で辛いことがあったら、連絡してください。……いつでも受けます」
朱以はわずかに苦笑を浮かべ、その場を去っていった。
寛人は朱以の背中を、黙ったまま見送った。
***
理月は一人、練習室でダンスの自主練に励んでいた。
早朝から踊ることに慣れていない理月は、リハーサルの際、体がいつもより重いことを痛感していた。
生放送の本番前になんとか体をほぐしたものの、本来のキレを取り戻すには時間が足りなかった。
メイは「思ったより目立ってなかったら、次から気をつければ大丈夫です」と言ってくれたが、納得はいかなかった。
——最近、どこかで気が緩んでいたか?
そう自分を律するように、理月は休みを返上して練習室に残ったのだ。
「疲れた……」
夜明け前から動いていた疲労が押し寄せ、理月はその場に座り込んだ。
タオルで汗を拭い、一気に水を飲み干した。
一息つこうとスマホを手にした。
ネットをほとんど見ない理月だが、「暇な時にでもエゴサくらいはしてみた方がいいですよ」というメイの言葉が不意に頭をよぎった。
理月は試しに検索窓に『須賀理月』と打ち込んでみた。
「お、マジで出てくるんだな」
公開されたばかりのプロフィールと写真が最上位に表示され、理月は不思議な感覚で見つめた。
本当に有名人になったという実感が湧いてきた。
関連記事から、ファンが理月を分析したブログまであった。
新しい世界に触れたような高揚感を覚えながらスクロールしていくと、ふと親指が止まった。
——須賀理月、うざっ
これまでの投稿とは明らかに毛色の違う見出しに、目が釘付けになった。
よく見ると、匿名で運営されているダンスコミュニティの掲示板だった。
長年目を背けてきた、かつての自分の居場所。
再びその空間と対峙した理月の心拍数が跳ね上がった。
見てはいけない、と本能が警鐘を鳴らし、スクロールしようとした指が止まった。
悩んだ末、理月の指は先ほど見た見出しをタップした。
——センター取った瞬間から、全体のライン崩れて見えるのウケるw
——また「俺が主役」みたいな顔してる。空気読めよ
——どこでもダンサー面すんのやめろ。見てて痛いわ
陰口には慣れていたつもりだったが、文字となって突きつけられると、やはり心に突き刺さった。
読み続ければ傷つくと分かっていながらも、一人くらいは擁護してくれる人がいるはず、という愚かな期待を捨てきれずに読み進めてしまった。
だが、目に入ったのはアイドルへ転向した理月への、より陰湿な嘲笑ばかりだった。
——一度逃げ出した奴は、また何度でも逃げるだろ
理月はスマホを振り上げ、投げつけようとした。
だが、すぐに思い留まって、音を立てないようにそっと置いた。
「……間違ってはいないけど」
自虐気味に呟いた言葉が、虚しく練習室に響いた。
どっと疲れが押し寄せ、理月はそのまま大の字になって横になった。
鏡に映る理月の横顔には、これまでにない深い陰が落ちていた。
理月の手元のスマホが、短く震えた。
仕事の連絡かと思い画面を確認すると、理月は思わず笑みを浮かべた。
——兄ちゃん!今日の番組見たよ!マジで最高にカッコよかった。やっぱ兄ちゃんは最強だよ!
弟、理仁からのメッセージだった。
3つ下の理仁は、幼い頃から理月を慕ってくれる自慢の弟だ。
理月は深く息を吐き出し、力強く立ち上がった。
「……よし、もう1回やるか」
***
都内の有名なカフェ。
凛と朔弥が向かい合って座っていた。
花岡朔弥。
凛と同じSTARZEN練習生出身で、『STARZEN NEXT STAGE』に参加したものの、最終ラウンドで惜しくも脱落した少年だ。
凛がこれまで出会った中で最も美しいと思うほど、その顔立ちは整っていた。
朔弥が先に口を開いた。
「朝の生放送の後に、いきなり呼び出してごめん」
「気にするな。今は自由時間だから、ちょうどいい」
「デビューお祝いってほどじゃないけど、今日は俺の奢り。安いもんだけど」
「……じゃあ、遠慮なく」
朔弥は、先日のショーケースに行けなかったお詫びとして凛を誘った。
凛はハーブティーを一口含んだ。
朔弥が凛の様子をうかがうように言った。
「最近はどう?忙しい?」
「オファーがあれば出ているけど、そこまでじゃない。だからこうしてお前と座っていられる」
凛は少しだけ苦笑した。
朔弥もそれ以上追求せず、静かにコーヒーをすすった。
朔弥は思い出したように言った。
「そういえば、この間お前と玲志さんのツーショットがトレンドに入ってたな」
「やっぱり見たか。結構色々言われた」
ショーケースの翌日、PENTARISの公式アカウントに投稿された凛と玲志の写真。
それは瞬く間に拡散され、大きな話題となった。
満足にパフォーマンスをこなせなかった息子のデビューを祝う玲志は『聖者』として崇められ、一方の凛には「父親をもっと敬え」という心ない声が寄せられた。
朔弥が言った。
「おかげでトレンド入りは果たしたな」
「それだけだけど」
「贅沢言うな。トレンドに入っただけで、ありがたく思え」
「お前もメイと同じことを言うんだな」
凛は鼻で笑い、ハーブティーをすすった。
朔弥もつられて笑った後、ふと真面目な顔をして口を開いた。
「実は、お前のデビュー祝いもそうだけど、直接伝えておきたいことがあって」
「何だ?」
「俺も、アイドルとしてデビューする。6月に向けてな」
カップを運んでいた凛の手が、ピタリと止まった。
「お前、アイドルはもうやらないって……」
「事情ができてしまって、な」
朔弥はカップを持ったまま、淡々と言葉を継いだ。
「俺のために集まってくれた人たちがいた。やらないわけにはいかなかった。……あの日も、ジャケット撮影が重なって行けなかった」
朔弥は再びコーヒーを口にした。
「俺がデビューすれば、俺とお前、それに庵の3人で今年の新人賞で争うことになるな」
「それぞれのチームとして、か」
「『昨日の友は今日の敵』ってやつだな」
朔弥はどこか楽しげに、ふふ、と笑った。
その時、凛のスマホが振動した。
PENTARISのメンバーとメイ、篠原が入っているグループチャットに、メイからメッセージが届いていた。
——来週『MUSIC SHOW TIME』ラインナップ:A.STRE、KAITO、SORA、NEXXTONE、PLUTO、PENTARIS
メイのメッセージを読み、凛の瞳がかすかに揺れた。
朔弥は凛の反応に気づき、何があったのかと問いかけた。
「いや……別に、大したことじゃない。来週の音楽番組ラインナップに、俺らとA.STREが載っていただけ」
「ああ、来週2ndシングルのリリースだったな、あいつら」
A.STREが来週カムバックすることは凛も分かっていたが、同じ番組に出演するとなれば話は別だ。
朔弥は軽い調子で続けた。
「久しぶりに皆に会えるな。よろしく伝えておいてくれ」
凛は視線をそらした。
「分かった」という言葉が、どうしても喉の奥でつかえて出てこなかった。
STARZENを去って以来、凛からカクや新大、翔梧に連絡したことは一度もなかった。
最初は自分のことで精一杯で、余裕がなかった。
昨年末、ふと連絡しようかと思ったこともあったが、——今さら何もなかったように連絡するのも気まずい——とためらっているうちに、ただ時間だけが流れていった。
朔弥は少し言いにくそうに、口を開いた。
「カクと新大は相変わらずだけど……翔梧は……うまく言えないけど、お前とメイがいなくなってから、かなり変わった」
朔弥は凛の目をまともに見られず、視線を泳がせた。
「久しぶりに会ったら……戸惑うかもしれないな、お前」
朔弥が言い淀むと、凛の視線も自然と足元へ落ちた。
凛とメイがSTARZENを離れた、あの日。
メイを探しに行った凛は、メイと翔梧が話しているところを偶然耳にしてしまった。
二人が交わした会話の内容を知ってしまった凛には、翔梧の変化の理由もおよその見当はついていた。
だが、今の凛にできることは、何も知らないふりをすることだけだった。
凛は顔を上げ、静かに言った。
「アイドルを続けるなら、あいつらと会わずに済ませるわけにはいかない。……俺はただ、自分のパフォーマンスを全力でやり切るだけ」
「その通りだな」
それから二人は、言葉を交わすことなく、残った飲み物をゆっくりと口にした。
朔弥は空になったカップを置くと、穏やかに言った。
「早朝からのスケジュールで疲れているだろうし、もう帰って休めよ」
凛は少し間を置いてから、答えた。
「お前と話して、十分休めた」
凛もカップをテーブルへと戻した。
「来週のラインナップも出たことだし、練習に戻る。……ごちそうさま」
凛はその場から立ち上がり、カフェを後にした。
冷たくなった指先を、誰にも見られないように、そっと拳の中に隠した。




