第11話|早すぎるカウントダウン
去年12月のある日。
いろはがUnitesに通い始めて1ヶ月が経った日のことだった。
地下1階にある練習室。
ボーカルレッスンが終わり、ちょうど休憩時間だった。
「ぼく……アイドル、頑張ってみます」
いろはが恥ずかしそうにメイに言った。
その一言で、練習室にいた全員の動きが止まった。
この1ヶ月間、いろはのことは特別扱いしていた。
メイはいろはに対し、「歌を歌いに来るだけでいい」と伝えていたため、ダンスレッスンへの参加は本人任せにしていた。
見学したければすればいいし、帰りたければ帰ってもいい。
そうやって、いろはがゆっくりとこの世界に馴染むようにとみんなが気を遣っていた。
メイはその言葉を聞いた瞬間、今すぐにでもいろはに駆け寄りたかった。
心の中で「よく決心したね」「これからよろしく」と思ったが、ぐっと堪えた。
ここで勢いよく踏み込めば、この1ヶ月間でようやく縮まったいろはとの距離が、また遠ざかってしまいそうだったからだ。
メイはなるべく穏やかな声で聞き返した。
「『アイドルを頑張ってみる』は、歌だけじゃない。ダンスも表情も、ステージに立つために必要なことは全部やる——それが前提。理解してる?」
メイはいろはの反応をうかがいながら言葉を続けた。
「それに、今『やる』と言ったなら、途中で『やっぱりやめます』は聞かない。——それでもいいの?」
いろはは小さくうなずいた。
「……はい。やってみます」
メイはほっとした。
ここまで説明しても「やる」と答えたからには、いろはが二言はない子だということは、この1ヶ月間でよく分かっていた。
「いろはくんが、アイドルを頑張ってみようと思ったきっかけ——聞いてもいい?」
メイの問いに、いろはは困惑したように瞬きを繰り返した。
視線のやり場を失い、両手で自分のズボンをギュッと掴んだ。
練習室は静まり返った。
凛、理月、遼——誰一人として急かさなかった。
いろはが自分の言葉で話し始めるのを、皆がじっと待っていた。
しばらくして、いろはがようやく口を開いた。
「……こ、こはるが……」
「コハル?」
いろはの口から女の子の名前が出たことに、一同が驚いて目を見開いた。
いろはは言葉を継いだ。
「来春は、ぼくの……妹です。ぼくがUnitesに通っていることが、バレてしまって……」
声が震えていた。
「『お兄ちゃん、アイドルになる?!』って、ものすごく喜んでくれて……。それで、やらないとは……言えなくて……」
いろはの目は潤み、今にも涙がこぼれそうだった。
理月が「偉いじゃないか」といろはの頭を撫でた。
凛と遼は、その話に少し拍子抜けしたような表情を浮かべている。
メイは、力が抜ける思いだった。
この1ヶ月間の苦労は何だったのかと思うほど、妹の一言であっさりと事態が望む方向に動いたからだ。
だが、理由や過程がどうあれ、いろはが「やる」と決めたことが何より重要だと、考えることにした。
メイは小さく息をついた。
「そうか。……妹さんに、かっこいい姿を見せなきゃ」
その時、ノックの音が響いた。
ドアが開くと、篠原が笑顔で入ってきた。
「メイちゃん、ちょっといいかな。話があるんだ」
「分かりました。今行きます」
メイはすぐに返事をし、練習室を後にした。
***
会議室。
篠原はノートパソコンで音源を再生した。
「知り合いの作曲家たちからかき集めたデビュー曲のサンプルだよ」
メイは流れている音源に集中した。
コンセプトに合わせて少しアレンジを加えれば、そのまま使えるほどクオリティが高かった。
「どうやってこれほどの曲を集められたんですか?いくつかは今のメンバーとの相性が高いと思います」
「だろう?俺も色々と走り回ったからね」
篠原は満足げに笑いながら言葉を継いだ。
「どれをデビュー曲にするか、この中から早めに選んでほしい。作曲家さんとのスケジュール調整もあるからね」
「判断には時間が必要です。もう少し待てませんか」
「それは難しいね」
篠原ははっきりと言い切った。
「今の4人には才能がある。ただ、個性が強い分、一つのコンセプトに揃えるには時間がいる——それは分かってる。君がフォーメーションで奇数を好むのも、俺は把握している。プロデューサーの領分だから口は出さないつもりだったけど……」
篠原は一息ついてから、本題を切り出した。
「会社を運営する以上、投資は必要だ。結果が出ない期間が長引くと、次の資金調達が難しくなって、運営が厳しくなる」
メイは黙って聞いていた。
「俺が待てるのは、来年の4月までだ」
篠原は指4本を立てて見せた。
「来年の4月デビューを目標に、動いてほしい」
***
翌日。
珍しく篠原がメイ、寛人、凛、理月、遼、いろはを練習室に呼び出した。
篠原は淡々と告げた。
「君たちは、来年の4月にデビューする」
その宣言に、練習室の空気が凍りついた。
「年が明けたら本格的な準備に入る。レコーディング、プロフィール撮影、MV撮影——すべて4月デビューに向けて動く。基礎を固める時間は今月だけだ。全力でやってほしい」
メイは言いたいことが山ほどあったが、何も言わなかった。
寛人が、篠原の言葉が終わるなり口を開いた。
「思ったよりタイトですね。いつ決まったんですか?」
「ああ、寛人くんには先に話すべきだったね。悪かった。こちらの事情で急に決まってしまったんだ」
「……分かりました。上半期の日程を早急に組みますので、先に失礼します」
寛人は足早に練習室を出ていった。
「4ヶ月間、全力でやってほしい。君たちならできると思っているよ」
篠原は大人の笑みを浮かべて去っていった。
練習室のドアの閉まる音が響くと、室内は騒然となった。
「ぼくが、昨日、頑張ると……言ったからですか?」
いろはの目がまた潤んだ。
「違う、違う、そんなわけない」
理月はなだめるように頭を撫でながら、言葉を継いだ。
「急すぎて驚いたけど、篠原さんが言った通りに死ぬ気でやれば大丈夫だよ」
遼は困惑を隠すように、すぐに表情を整えた。
「いつまでも練習ばかりしているわけにはいきませんから」
自分に言い聞かせるような口調だった。
凛はメイを見た。
「お前、この日程——納得してるのか」
メイは視線をそらした。
「篠原さんの言う通りにやるしかないでしょ」
***
突然の発表の後、メイは4人の自主練習を見守っていた。
いろはが入ったことで歌は安定したが、代わりにパフォーマンスの精度が落ちたのは仕方ないことだった。
いろはには酷だが、これからの4ヶ月間、死ぬ気でついてきてもらうしかない。
この1ヶ月間、理月と遼が必死に練習した結果、二人の存在感は以前よりも増していた。
凛はチームのバランスを取るために無理をしていたが、今回はまた違う方向で彼に負担を強いることになってしまった。
あと一人。
あと一人だけ、この中に「あのピース」がいれば、メイが理想とするグループ像が完成する。
けれど、あまりにも時間がない。
この5ヶ月間でメイが自ら見つけ出したのは二人。
もう一人を探すには、少なくとも3ヶ月は必要だ。
それが現実だった。
***
12月末。
第49回MJA(Music Japan Award)が開催された。
この日は、練習も大切だが、他のアーティストのステージや受賞シーンを見ることがモチベーションに繋がると考え、全員で練習室に集まり、授賞式を視聴することにした。
男性アイドル新人部門の候補映像の中で、A.STREの映像が流れた。
遼のテンションがわずかに上がったが、凛の様子をうかがうように、すぐに姿勢を正した。
凛はその気遣いに気づきながらも、あえて反応しなかった。
シルバーがかったアッシュブラックの髪に、猫のような整った顔立ちをした男が画面に映った。
寛人はその男を見て口を開いた。
「真栄田も、ああしてるとアイドルみたいだな」
「真栄田さんのこと、知ってるんですか?」
寛人の独り言に、メイは反応した。
「ああ。大学の後輩なんだ」
真栄田朱以。
『STARZEN NEXT STAGE』で最終順位4位となり、A.STREのメンバーになった人物。
財閥の御曹司が出演していると、予告の段階から話題になっていた。
メイは言った。
「初耳です」
「そりゃ、今初めて言ったからね」
寛人は苦笑いしながら答えた。
メイは朱以のプロフィールを思い出した。
確か、名門大学の経営学科の学生だったはずだ。
「寛人さん、A大に通ってるんですか?」
「うん。そうだよ」
「どうして今まで言わなかったんですか?」
寛人は照れくさそうに答えた。
「この仕事をするのに、学歴は関係ないからね」
結局、男性アイドル新人賞は、予想するまでもなくA.STREが受賞した。
「今年の話題性を考えれば、妥当な結果か……」
メイは理解していても、悔しさを拭いきれなかった。
「……あんな人たちが、アイドルに……」
いろはが、ステージに上がるA.STREの姿を見つめながら呟いた。
A.STREのリーダー、加納新大がトロフィーを受け取り、コメントを述べた。
誰が聞いても事務所が事前に用意した完璧なコメントを暗記しているのが伝わった。
それもまた、新人らしさと言えた。
「——これからさらに精進し続けるA.STREになります。ありがとうございました!」
新大のコメントが終わると、会場は割れんばかりの拍手に包まれた。
A.STREがステージを降りようとすると、MCが次へと繋げた。
「A.STREの日野翔梧さんが、今回、MJAのためだけの特別なソロステージをご用意してくれました。それでは、どうぞ!」
その言葉に、メイと凛は驚きに目を見開いた。
理月がそっとメイに尋ねた。
「あの『日野翔梧』って人、ソロを任されるほど上手いのか?」
メイは少し間を置いてから答えた。
「……実力はあります」
デビューした年に授賞式でのソロステージ。
事務所の強力なバックアップがあるのは明らかだった。
STARZENとしては、A.STREのセンターが絶対的な実力者であることを、この場で知らしめたかったのだろう。
翔梧のソロステージが始まった。
そのクオリティは、メイの予想をはるかに超えていた。
切なく、それでいて凄まじい気迫のパフォーマンス。
過酷なオーディションを勝ち抜き、1位を獲った実力を誇示しているかのようだった。
画面に映る翔梧の瞳には、メイが今まで見たこともないような『凄み』が宿っていた。
メイの知っている翔梧は、いつも子犬のように後ろをついてくる少年だった。
だが、今の彼にその面影は一切なかった。
凛も、翔梧の急変ぶりに驚きを隠せなかった。
STARZENで共に練習していた頃は、こんな雰囲気ではなかったはずだ。
心のどこかで翔梧の実力は自分より一段下だと思っていたが、わずか半年でこれほどまで変貌を遂げるとは……。
翔梧のソロステージが終わるなり、凛はすぐ立ち上がった。
「凛、どこ行くの」
「個人練習。もう十分見た」
凛はそのまま練習室を出ていった。




