第9話|凛しか、見えなかった
去年11月のある日。
Unitesの地下1階にある練習室。
凛、理月、遼の3人は、メイ、寛人、篠原の前で週間テストを受けていた。
パフォーマンスが終わると、寛人が拍手を送った。
「おーいい感じだね!」
篠原は惜しそうにうなずいた。
「前よりは伸びている。だが、理月くんと遼くんはもっと頑張らないとな」
その言葉に、二人は短く返事をして頭を下げた。
メイは何も言わなかった。
表情は固いままだ。
パフォーマンス自体は、確かに以前よりぐっと良くなっている。
理月のフォームも予想よりずっと早く、以前の感覚を取り戻しつつあった。
遼も今は振りに抜かりなくついてきている。
問題は、歌唱力だった。
理月のリズム感自体は文句のつけようがなかった。
踊りながらでも音程はずいぶんと安定している。
しかし、歌い方がまっすぐすぎ、耳に残らない。
遼も先月に比べれば目に見えて上達していたが、3人の中では一番音程が不安定だった。
踊りながら歌まで安定してこなせているのは、やはり凛だけだった。
ダンスは練習すれば結果がすぐ見える。
しかし、歌はダンス以上に、時間と努力が要る。
そしてメイには、自分が理想とするレベルに彼らを到達させるための時間が、それほど残されていないと感じていた。
もっと深刻な問題があった。
——凛しか、見えなかった。
意識しないと、他の二人が目に入ってこない。
メイはプロデューサーとして見ていたからこそ、一人ひとりを細かく見るよう神経を研ぎ澄ませていた。
だから二人も見えた。
だが、もし一人の視聴者としてこのパフォーマンスを見ていたら、凛のことしか記憶に残らなかったはずだ。
メイは今のパフォーマンスを確認するために映像をモニターに映し出した。
硬い表情のメイを見て、寛人がそっと話しかけた。
「メイさん、みんな上手くやったと思うけど……ちょっと顔が怖いよ」
メイは答えず、問い返した。
「今のパフォーマンスで良かったところ、言ってみてください」
「えっと、Aメロ入りの凛くんのスタートが良かった。それから、2番のサビ前の凛くんの囁くようなフレーズは、俺が女の子だったらときめいてたかもしれない。そしてブリッジからサビにかけて凛くんの感情が爆発するところは、なんだか胸が熱くなったよ」
寛人は今見たばかりのパフォーマンスを思い描くように、すらすらと説明した。
「理月さんと遼くんはどうでしたか?」
メイの質問に、寛人はようやく気づいたように、申し訳なさそうに理月と遼の顔をうかがいながら、頭をかいた。
「言われてみれば……凛くんが上手かったから、パフォーマンス全体が良く見えたのかもしれないな」
「それから?」
「理月くんはダンスブレイクの時はかっこよかったけど、それ以外は真面目すぎたかな。遼くんはなんとかこなしてはいるけど、ついていくのが精一杯って感じが最後まで抜けてなかった」
寛人の感想を聞いて、メイはうなずいた。
「寛人さんはマネージャーです。これからは視聴者の立場ではなく、スタッフ側の目線で見てください」
「……気をつけるよ、以後」
モニターに3人の週間テストの映像が流れた。
メイの口調はいつもより厳しかった。
「パフォーマンスの完成度は、以前より上がっていると言えるでしょう。ですが、まだ、人前に出せるレベルではありません」
冷ややかなメイの声に、理月と遼はビクッとした。
メイは続けた。
「歌唱力はまだまだです。もちろん、歌は短期間で伸びるものではないと分かっています」
メイは理月と遼を見つめた。
「この状態が続けば、パート割のバランスが崩れます。そうなれば、このグループは『雨夜凛とその他』になります」
重苦しい空気が練習室に漂っていく。
それでもメイは続けた。
「『雨夜凛とその他』になりたくなければ、もっと死ぬ気で頑張ってください」
練習室の空気が完全に凍りついた。
***
事務室に帰った寛人が、メイの顔色をうかがいながら口を開いた。
「メイさん、今日に限って言い方がきつかったと思うよ。そこまで言わなくても、みんな分かっているはずだよ」
メイは振り返らず答えた。
「いつまでも部活気分ではいられません。必要なことを言ったまでです」
その声には、焦りが滲んでいた。
9月にデビューしたA.STRE。
デビューシングル『HERE』の活動が先日終了したばかりだ。
メイは彼らがデビューしてから今回の活動が終わるまで、一連の活動のすべてをモニタリングしてきた。
オーディションの時には実力不足に見えたメンバーでさえ、体系立てられたトレーニングと莫大な資本によって、今や立派な『アイドル』へと変貌を遂げていた。
彼らと比べると、今の自分のやり方は、まだ高校の部活レベルから抜け出せていない気がした。
あえてポジションを分けるなら、こうだ。
凛はオールラウンダー。
理月はメインダンサー。
遼はサブダンサー。
やはり、歌が圧倒的に足りなかった。
アイドルは、ステージで歌う者だ。
歌が弱ければ、いくらパフォーマンスが優れていても意味がない。
「篠原さん、誰かいい子はいませんか?」
メイの質問に、篠原はゆっくりと首を横に振りながら言った。
「最近は歌が上手い子を探すのも、なかなか難しい」
メイは何か決心したように言った。
「……分かりました。自分で探してきます。しばらく事務所には戻りません」
メイは机の上のカバンを手に取り、寛人を見て告げた。
「寛人さんは毎日練習動画を撮って、メンバーと私に送ってください。フィードバックも忘れずにお願いします」
メイはそのまま、風のように事務所を後にした。
***
メイはカラオケボックスの一室に座り、スマホを操作していた。
この数日間、カラオケ店を回りながら、ネットに投稿されている『歌ってみた』動画にも一通り目を通した。
良いと思った相手にはDMを送ってみたが、返事はほとんどない。
あっても、詐欺ではないかと疑われるか、すでに他の事務所に所属しているという答えばかりだった。
夏から自分の足でスカウトできたのは、たった一人。
才能を見抜く力には自信があったはずだが、現実はそう甘くはなかった。
以前、才能があると思って声をかけた人たちは、今やみなSTARZEN所属である。
壁越しに、音程もリズムも外れた歌声があちこちから聞こえてくる。
スカウトが思うようにいかず、苛立っていたメイには、その歌声すら自分をあざ笑っているように感じられた。
炭酸でこのイライラを鎮めようと、ドリンクバーへ向かった。
——その時だった。
廊下の喧騒が、一瞬遠のいた。
どこからか、かすかに清らかで透き通るような歌声が聞こえてきたのだ。
しかしその声は、すぐに他の部屋から漏れる伴奏にかき消されてしまった。
空耳かとも思ったが、自分の直感を信じ、メイは歌声の主を探すことにした。
メイは足音を殺して一部屋ずつ耳を傾け、先ほどの声を探し歩いた。
5階の一番端の部屋。
そのドアの前に立つと、歌声がはっきりと聞こえた。
マイクの音量もエコーも最小限に絞られていたため、他の騒音にすぐ埋もれてしまっていたのだ。
繊細で透明感のある音色。
歌詞を深く理解した、丁寧な感情の込め方。
高音も綺麗に伸び、それでいて音程は一切ぶれない。
——顔さえ良ければ。
残酷な話だが、いくら歌が上手くても、アイドルの世界ではビジュアルが一定の基準を満たしていなければ意味がない。
メイは半透明の窓から中を覗き込んだ。
しかし室内は暗く、顔まではよく見えない。
ならば、方法はたった一つ。
強行突破だ。
曲が終わった瞬間、メイは勢いよくドアを開けて中へ踏み込んだ。
歌っていた人は驚きのあまり、声がひっくり返った。
シルバーアッシュの髪が、目を隠すほど伸びている。
見開かれた淡い灰色の瞳は、肉食動物に出くわした小動物のように揺れていた。
一瞬、女の子かと思うほど中性的だが、この近くにある公立高校の男子制服を着ていた。
メイの目が、獲物を捕らえたかのように鋭く光った。
少年はメイの熱い視線に困惑し、必死にその目をそらしている。
「歌、本当に上手いね!」
メイは勢いよく少年の両手を掴んだ。
「名前はなんていうの?」
メイの問いに、少年はメイから逃れようと必死に身をよじった。
メイは慌てて両手を上げた。
「怪しい人じゃないから、ちょっと待って」
名刺を渡して身元を証明しようと、メイはカバンの中をかき回した。
こういう時に限って名刺入れが見つからなかった。
焦れば焦るほど、メイの手つきは荒っぽくなっていった。
ようやく見つけた名刺入れから一枚抜き取り、精一杯の笑顔を作った。
「私、こういう者なんだけど……」
だが、そこに少年の姿はすでになかった。




