第8話:地味な男の、隠れた本気
四月になって、商店街のアーケードに鯉のぼりが下がった。
まだ少し早いが、鮮魚店の老夫婦が毎年この時期に飾る。
「五月まで待ってたら短すぎる」というのが理由らしい。私はその鯉のぼりを窓から眺めながら、今日の糸の具合を確認していた。
春の糸は、やはり好きだ。
冬より色が明るく、夏より落ち着いている。人間が一番素直になる季節の糸だと思う。
田中さんが来たのは、そういう四月の昼下がりだった。
田中さんを、私は一度も直接見たことがなかった。
前回、バリキャリ女子こと、相川奈緒さんのバッグから引っ張り出したメモの差出人。『締め切り終わったら、ちゃんとご飯食べてね。/田中』と書いた男。それだけしか知らなかった。
でも、暖簾をくぐってきた男を見た瞬間、私にはわかった。
糸が、奈緒さんの方向を向いていた。
太い。真っ直ぐ。迷いのない赤い糸だ。
男は三十代前半くらいだろうか。
特別目立つところのない男だった。
奈緒さんが「パッとしない」と言った理由は、見た目だけなら理解できる。際立って何かがあるわけではない。
でも糸は正直だ。
この男の糸は、木村さんの糸に似ていた。太くて、温かくて、一本しかない。よそ見をしていない糸だ。
「いらっしゃいませ〜」
澄江さんが顔を上げた。
「あの、恋愛相談なんですが」
田中さんが少し照れながら言った。声が静かだった。主張しない声だ。でも、嘘がない声でもあった。
「どうぞ」
澄江さんがハーブティーを出した。
田中さんが座った。カウンターに両手を置いて、少し考えてから言った。
「好きな人がいるんですが、告白していいものかどうか、迷っていて」
「どんな方ですか?」
「同期です。仕事がすごくできて、頭もいい。でも、無理しすぎるところがあって」
田中さんが少し笑った。
「締め切り前になると、ご飯を食べるのを忘れるんです。だから、たまに差し入れをしていたんですが」
私は耳を動かした。
やはり、田中さんだ。
「その方は、あなたのことをどう思っているんでしょう?」
澄江さんが優しく聞いた。
「わからないんですよね」
田中さんが首を傾げた。
「ありがとうとは言ってくれるんですが、それ以上でも以下でもなくて。ただ最近、なんか、こちらを見る目が変わった気がして」
私は糸を確認した。
田中さんの赤い糸は、奈緒さんの方向へまっすぐ伸びている。
そして記憶を辿った。奈緒さんのバッグからメモを引っ張り出したとき、奈緒さんの小指から伸びていた赤い糸の方向を。
同じ方向だった。
二本の糸は、互いを指していた。
「告白を迷っている理由は何ですか?」
澄江さんが聞いた。
田中さんが少し間を置いた。
「彼女、条件にうるさいんです」
澄江さんが「条件?」と首を傾げた。
「年収とか、学歴とか。婚活アプリもやっていて、スペックの高い男性と会っているみたいで。私はそういうスペックが特別高いわけじゃないから、土俵に上がれないかなと思って」
田中さんが苦笑いした。
「でも、最近メモを渡したときに、彼女が変な顔をしていて。嫌そうじゃなくて、なんか、困ったような、嬉しいような、そういう顔で。それが忘れられなくて、ここに来ました」
澄江さんがうーんと水晶玉を覗き込んだ。
私はカウンターから降りた。
田中さんの目の前で、マルを作った。
大きく、はっきりと。
「あっ」
田中さんが目を丸くした。
「猫が丸を」
「ムギちゃんが丸を作るのは、珍しいことじゃないんですけど」
澄江さんが微笑んだ。
「でも、こんなに早く作ったのは、初めて見ましたね」
田中さんが私をまじまじと見た。
「……行っていい、ってこと?」
私はもう一度、マルを作った。
田中さんが、ゆっくりと笑った。
「猫に背中を押されるとは思わなかったな」
田中さんが帰って、一時間ほど経ったころ。
ほころび庵の引き戸が、勢いよく開いた。
相川奈緒さんだった。
コートを着ていなかった。会社から走ってきたような顔をしていた。
「澄江さん!」
「まあ、奈緒ちゃん、どうしたの」
「田中くんが!」
奈緒さんが息を切らしながら言った。
「さっき、告白してきて!」
澄江さんが「まあ」と言った。
私は窓際で、そっぽを向いた。
「なんで今日! 心の準備が!」
「嬉しくないんですか?」澄江さんが穏やかに聞いた。
奈緒さんが口を閉じた。
少し間があった。
「……嬉しいです」
奈緒さんが、静かに言った。
「すごく嬉しくて、だから焦って、とりあえずここに来ました。なんでここに来たのかも、よくわからないんですけど」
澄江さんがくすくす笑った。
「返事は?」
「まだです。明日、ちゃんと答えるって言って」
「そう」
澄江さんがハーブティーを出した。
「じゃあ、落ち着いて飲んで」
奈緒さんが座った。ハーブティーを両手で持って、湯気を見つめた。
「澄江さん」
「なに?」
「条件って、関係ないんですかね」
澄江さんが少し考えた。
「関係ない、とは言えないと思いますよ」
澄江さんが言った。
「生活は大事だから。でも」
澄江さんが、私を見た。
「見えない繋がりがなければ、しんどいでしょうね。糸みたいなもの、と言えばいいのかしら」
糸、という言葉を澄江さんが使ったのは、初めてだった。
私は澄江さんを見た。
澄江さんがにこにこしていた。
「直感、って言ってもいいけど」
澄江さんが続けた。
「奈緒ちゃんが走ってここまで来た、その足が、もう答えを知っているんじゃないかしら」
奈緒さんが、ハーブティーを一口飲んだ。
そして、少しだけ笑った。
「……そうかもしれません」
奈緒さんが帰った後、澄江さんが窓を拭きながら言った。
「今日は賑やかだったわね」
私は丸まったまま、目を細めた。
田中さんと奈緒さん。二本の赤い糸が、今日ようやく向き合った。糸は随分前から互いを指していたのに、人間というのは、気づくまでに時間がかかる。
でも、気づいた。
それでいい。
「ムギちゃん」
澄江さんが言った。
「さっき、糸って言ったの、変だった?」
私は澄江さんを見た。
「なんとなく、そういう気がして。人と人の間に、目に見えない何かがあるような」
澄江さんが窓の外を見た。
「四十年近く、この仕事をしていると、そういうものが存在する気がしてくるのよね。霊感はないけれど」
私は何も言えなかった。言えるはずがない。
でも、澄江さんは正しい。
目には見えていないはずなのに、澄江さんは、いつも同じ場所を見ている
私は窓の外を見た。
四月の夕暮れの中、商店街の鯉のぼりが風に泳いでいた。
赤い糸が、今日もあちこちで、静かに光っていた。




