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ほころび庵のムギ〜縁の糸が見える猫〜  作者: ゆも
第二章 残された人たち

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9/21

第8話:地味な男の、隠れた本気

 四月になって、商店街のアーケードに鯉のぼりが下がった。


 まだ少し早いが、鮮魚店の老夫婦が毎年この時期に飾る。

「五月まで待ってたら短すぎる」というのが理由らしい。私はその鯉のぼりを窓から眺めながら、今日の糸の具合を確認していた。


 春の糸は、やはり好きだ。


 冬より色が明るく、夏より落ち着いている。人間が一番素直になる季節の糸だと思う。


 田中さんが来たのは、そういう四月の昼下がりだった。


 田中さんを、私は一度も直接見たことがなかった。


 前回、バリキャリ女子こと、相川奈緒さんのバッグから引っ張り出したメモの差出人。『締め切り終わったら、ちゃんとご飯食べてね。/田中』と書いた男。それだけしか知らなかった。


 でも、暖簾をくぐってきた男を見た瞬間、私にはわかった。


 糸が、奈緒さんの方向を向いていた。


 太い。真っ直ぐ。迷いのない赤い糸だ。


 男は三十代前半くらいだろうか。

 特別目立つところのない男だった。


 奈緒さんが「パッとしない」と言った理由は、見た目だけなら理解できる。際立って何かがあるわけではない。


 でも糸は正直だ。


 この男の糸は、木村さんの糸に似ていた。太くて、温かくて、一本しかない。よそ見をしていない糸だ。


「いらっしゃいませ〜」


 澄江さんが顔を上げた。


「あの、恋愛相談なんですが」


 田中さんが少し照れながら言った。声が静かだった。主張しない声だ。でも、嘘がない声でもあった。


「どうぞ」


澄江さんがハーブティーを出した。


 田中さんが座った。カウンターに両手を置いて、少し考えてから言った。


「好きな人がいるんですが、告白していいものかどうか、迷っていて」


「どんな方ですか?」


「同期です。仕事がすごくできて、頭もいい。でも、無理しすぎるところがあって」


 田中さんが少し笑った。


「締め切り前になると、ご飯を食べるのを忘れるんです。だから、たまに差し入れをしていたんですが」


 私は耳を動かした。


 やはり、田中さんだ。


「その方は、あなたのことをどう思っているんでしょう?」


澄江さんが優しく聞いた。


「わからないんですよね」


田中さんが首を傾げた。


「ありがとうとは言ってくれるんですが、それ以上でも以下でもなくて。ただ最近、なんか、こちらを見る目が変わった気がして」


 私は糸を確認した。


 田中さんの赤い糸は、奈緒さんの方向へまっすぐ伸びている。


 そして記憶を辿った。奈緒さんのバッグからメモを引っ張り出したとき、奈緒さんの小指から伸びていた赤い糸の方向を。


 同じ方向だった。


 二本の糸は、互いを指していた。



「告白を迷っている理由は何ですか?」


澄江さんが聞いた。


 田中さんが少し間を置いた。


「彼女、条件にうるさいんです」


 澄江さんが「条件?」と首を傾げた。


「年収とか、学歴とか。婚活アプリもやっていて、スペックの高い男性と会っているみたいで。私はそういうスペックが特別高いわけじゃないから、土俵に上がれないかなと思って」


 田中さんが苦笑いした。


「でも、最近メモを渡したときに、彼女が変な顔をしていて。嫌そうじゃなくて、なんか、困ったような、嬉しいような、そういう顔で。それが忘れられなくて、ここに来ました」


 澄江さんがうーんと水晶玉を覗き込んだ。


 私はカウンターから降りた。


 田中さんの目の前で、マルを作った。


 大きく、はっきりと。


「あっ」


田中さんが目を丸くした。


「猫が丸を」


「ムギちゃんが丸を作るのは、珍しいことじゃないんですけど」


澄江さんが微笑んだ。


「でも、こんなに早く作ったのは、初めて見ましたね」


 田中さんが私をまじまじと見た。


「……行っていい、ってこと?」


 私はもう一度、マルを作った。


 田中さんが、ゆっくりと笑った。


「猫に背中を押されるとは思わなかったな」



 田中さんが帰って、一時間ほど経ったころ。


 ほころび庵の引き戸が、勢いよく開いた。


 相川奈緒さんだった。


 コートを着ていなかった。会社から走ってきたような顔をしていた。


「澄江さん!」


「まあ、奈緒ちゃん、どうしたの」


「田中くんが!」


奈緒さんが息を切らしながら言った。


「さっき、告白してきて!」


 澄江さんが「まあ」と言った。


 私は窓際で、そっぽを向いた。


「なんで今日! 心の準備が!」


「嬉しくないんですか?」澄江さんが穏やかに聞いた。


 奈緒さんが口を閉じた。


 少し間があった。


「……嬉しいです」


 奈緒さんが、静かに言った。


「すごく嬉しくて、だから焦って、とりあえずここに来ました。なんでここに来たのかも、よくわからないんですけど」


 澄江さんがくすくす笑った。


「返事は?」


「まだです。明日、ちゃんと答えるって言って」


「そう」


澄江さんがハーブティーを出した。


「じゃあ、落ち着いて飲んで」


 奈緒さんが座った。ハーブティーを両手で持って、湯気を見つめた。


「澄江さん」


「なに?」


「条件って、関係ないんですかね」


 澄江さんが少し考えた。


「関係ない、とは言えないと思いますよ」


澄江さんが言った。


「生活は大事だから。でも」


 澄江さんが、私を見た。


「見えない繋がりがなければ、しんどいでしょうね。糸みたいなもの、と言えばいいのかしら」


 糸、という言葉を澄江さんが使ったのは、初めてだった。


 私は澄江さんを見た。


 澄江さんがにこにこしていた。


「直感、って言ってもいいけど」


澄江さんが続けた。


「奈緒ちゃんが走ってここまで来た、その足が、もう答えを知っているんじゃないかしら」


 奈緒さんが、ハーブティーを一口飲んだ。


 そして、少しだけ笑った。


「……そうかもしれません」



 奈緒さんが帰った後、澄江さんが窓を拭きながら言った。


「今日は賑やかだったわね」


 私は丸まったまま、目を細めた。


 田中さんと奈緒さん。二本の赤い糸が、今日ようやく向き合った。糸は随分前から互いを指していたのに、人間というのは、気づくまでに時間がかかる。


 でも、気づいた。


 それでいい。


「ムギちゃん」


澄江さんが言った。


「さっき、糸って言ったの、変だった?」


 私は澄江さんを見た。


「なんとなく、そういう気がして。人と人の間に、目に見えない何かがあるような」


 澄江さんが窓の外を見た。


「四十年近く、この仕事をしていると、そういうものが存在する気がしてくるのよね。霊感はないけれど」


私は何も言えなかった。言えるはずがない。

でも、澄江さんは正しい。


目には見えていないはずなのに、澄江さんは、いつも同じ場所を見ている




 私は窓の外を見た。


 四月の夕暮れの中、商店街の鯉のぼりが風に泳いでいた。


 赤い糸が、今日もあちこちで、静かに光っていた。

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