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ほころび庵のムギ〜縁の糸が見える猫〜  作者: ゆも
第二章 残された人たち

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8/21

第7話:その猫の名前を、私は知っています

三月に入って、雨の日が増えた。


春の雨は冬の雨より柔らかいが、商店街の屋根を叩く音は同じだ。


私はほころび庵の窓の内側で、雨に煙る商店街を眺めていた。

雨の日は、糸が見えにくい。

水分が光を散らすせいか、糸の輪郭がぼんやりする。だから雨の日は、窓の外より窓の内側を見ることが多い。


澄江さんが、お茶を飲みながら古い雑誌をめくっていた。

客は来ない。


雨の日は決まって少ない。


私は丸まって、うとうとしていた。


ほころび庵の引き戸が、静かに開いたのは、そのときだった。


入ってきたのは、三十代くらいの女性だった。

傘を畳みながら、少し息を切らしていた。

急いで来たような、でも来るかどうかずっと迷っていたような、そういう顔をしていた。

糸を見た。

赤い糸でも、黒い糸でもなかった。

白に近い、薄い銀色の糸。

記憶の糸だ。

以前、健太さんが来たときと、同じ色だった。

でも、健太さんのときより、糸が太かった。そして震えていた。まるで長い時間をかけて張り詰めてきた弦が、今にも鳴り響こうとしているように。


その糸の先は——ほころび庵の奥、私の方へ、まっすぐ伸びていた。


「いらっしゃいませ〜」

澄江さんが雑誌を置いた。


「あの」


女性が言った。


「占いというより、少し確認したいことがあって」

「どうぞ、座ってください」


女性が座った。

傘を椅子の横に立てかけた。

雨粒が床に落ちた。


「花村朱音、という方を、ご存知ですか」


私は、動かなかった。


澄江さんが「はて」という顔をした。


「花村……朱音さん?」


「はい。二十八歳で亡くなった、霊能者の女性です。四年ほど前に、交通事故で」


澄江さんが首を横に振った。


「存じ上げないですねえ。どうして私のところへ?」


「朱音の遺品の中に、このお店の名前があったんです」


女性が言った。


「ほころび庵、という文字が、手帳に書いてあって」


私は窓の外を見た。

雨が、少し強くなっていた。


「朱音さんとは、どういうご関係ですか?」

澄江さんが優しい聞いた。


「双子の妹です」

女性が言った。


「花村彩音といいます。朱音の、双子の妹です」


私は、女性を見た。

双子の妹。

花村彩音。

記憶の中を探った。

朱音として生きていたとき、彩音は確かにいた。一卵性の双子で、よく間違えられていた妹が。


「朱音は変なものが見える」と言いながら、でも一番信じてくれていた妹だった。


彩音が、三十代になっている。

当然だ。朱音が死んで、四年が経っている。彩音も年を取る。


でも私には、彩音がまだあのころのままの気がした。朱音の手帳を持って、雨の中を急いで来た、あの顔が。


「朱音さんが亡くなって、四年になるんですね」

澄江さんが静かに言った。


「はい」


彩音が頷いた。


「去年、実家を整理していたら、朱音の手帳が出てきて。捨てられなくて、ずっと持っていたんですが、先月やっと読んだんです」


「その手帳に、うちの名前が」

「ええ。姉は、ここに来たかったみたいです。来る前に、亡くなってしまって」


私は目を閉じた。

そうだ。来たかった。

ほころび庵のことは、知っていた。商店街の古い占い処で、霊感のない占い師が長年続けている店だと、どこかで聞いたことがあった。いつか行ってみようと思っていた。霊能者として、霊感のない占い師がどんな相談を受けているのか、興味があった。


でも、行く前に、死んだ。

横断歩道を渡っていたとき、信号を無視した車が来た。それだけのことで、花村朱音の二十八年は終わった。


「手帳に、何が書いてあったんですか?」


澄江さんが聞いた。


彩音がバッグから、古い手帳を取り出した。

紺色の、小さな手帳だった。表紙が少し擦り切れていた。


私はその手帳を見た。

手帳から、糸が伸びていた。記憶の糸だ。

薄い銀色の糸が、手帳の中のページへ向かって、静かに光っていた。


「最後のページに」


彩音が言った。


「朱音らしい、言葉が書いてあって」


彩音がページを開いた。

澄江さんに向けて、置いた。

澄江さんが読んだ。


私はカウンターから降りた。

テーブルの上に乗って、手帳を覗き込んだ。

文字は読めない。

でも糸が、最後のページを指していた。


彩音が、静かに読み上げた。


『視えるのに、届かないことがある。届かなくても、視え続けることが、私の仕事だと思っている。いつかほころび庵に行って、あそこの占い師さんに聞いてみたい。霊感がなくても、人の話を聞き続けるのは、なぜですか、と』


ほころび庵の中が、静かになった。

雨の音だけが、屋根を叩いていた。

澄江さんが、目を閉じた。


私は手帳を見た。

視えるのに、届かないことがある。

そうだ。ずっとそうだった。糸が視えても、言葉が届かなくて、でも止められなくて、走り回っていた。猫になってからも、同じだ。肉球でバツを作っても、マルを作っても、どこまで届いているかわからない。


でも。

美咲は「伝わってた気がして」と言った。

木村さんは丸一つで動いた。

届いていた。少しずつ、届いていた。

澄江さんが、ゆっくりと口を開いた。


「その方が聞きたかったこと」


彩音が顔を上げた。


「霊感がなくても話を聞き続けるのはなぜか、でしたね」

「はい」


澄江さんが、少し笑った。


「昔、自分の言葉で誰かを傷つけたことがあるんです」


彩音が静かに聞いていた。


「だから、言葉を慎むようになった。でも、話を聞くことはできる。受け止めることはできる。それだけなら、霊感がなくてもできるから」


澄江さんが私を見た。


「最近は、この子に助けてもらってばかりですけどね」


私はそっぽを向いた。


「でも、その方にお伝えできるなら」


澄江さんが言った。


「視えなくても、聞き続ける人間がここにいます、と。視える人も、視えない人も、きっとやっていることは同じだと思うから」


彩音の目が、潤んだ。


「……朱音が聞いたら、喜んだと思います」


私は、窓の外を見た。

雨が、少し弱くなっていた。


視えるのに届かないことがある、と朱音は書いた。


視えなくても届くことがある、と澄江さんは言った。


どちらも、本当のことだ。


そしてどちらも、この場所でずっと続いてきたことだ。


彩音が帰り際、私を見た。


「この猫、いつからいるんですか?」

「四年前から」


澄江さんが言った。


「朱音さんが亡くなったころに、ちょうど来たんですね」


彩音が、私をまじまじと見た。

私は、彩音を見た。

双子の妹。いつも一緒にいた。


「朱音は変なものが見える」と言いながら、誰より私の言葉を信じようとしてくれた、あのころの彩音だ。


三十代になっても、目が変わっていなかった。

彩音が、そっと手を伸ばした。

私は、避けなかった。

彩音の手が、私の頭を撫てた。

温かかった。


「かわいい猫ね」


彩音が小さく言った。


「なんだか、懐かしい感じがする」


澄江さんが「まあ」と笑った。


私は、目を細めた。

似ている、というのは、正しいとも言えるし、間違いとも言える。


でも今は、どちらでもよかった。

彩音の手が温かくて、それだけで、十分だった。


彩音が出て行った後、澄江さんがぽつりと言った。


「不思議なご縁ね」


私は窓から彩音の後ろ姿を見送った。

雨の中を、傘をさして歩いていく。


彩音の胸から、白い糸が伸びていた。

記憶の糸だ。でもさっきより、震えが止まっていた。張り詰めていた弦が、少しだけ緩んだように。


なぜ猫に転生したのか、私にはわからない。

 

 ただ、ここにいる。


 それだけは確かだった。




夜、澄江さんが私を膝に乗せた。

雨の音が、遠くなっていた。


「ムギちゃん」


澄江さんが言った。


「あなた、ここに来てくれてよかった」


私は答えなかった。

答えられなかった。


ただ、澄江さんの膝の温かさを、静かに受け取った。


春の雨が、ほころび庵の屋根を、やわらかく叩いていた。

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