第7話:その猫の名前を、私は知っています
三月に入ってから、冷たい雨の降る日が一気に増えた。
春の雨は冬のそれよりも幾分か柔らかい肌触りがするけれど、商店街のアーケードの屋根を激しく叩く雨音の重さは、あの凍えるような冬の日と何ら変わりはない。
私はほころび庵の窓の内側、特等席のクッションの上で丸くなりながら、白く煙る雨の商店街の景色をぼんやりと眺めていた。
雨の日は、私にとって少しだけ厄介な日だ。空気中の水分が光を乱反射させるせいか、人間の身体から伸びる縁の糸の輪郭が、どうにもぼやけて見えにくくなってしまう。だからこういう日は、窓の外の人間を追うよりも、静かな店内の内側に意識を向けることが多かった。
ストーブの上のヤカンが、優しく湯気を上げている。
受付カウンターの奥では、澄江さんが温かいお茶をすすりながら、いつの段階のものかも分からない古い婦人雑誌のページを、のんびりとめくっていた。
当然、客は来ない。雨の日は決まって、ほころび庵の足元を叩く客足は途絶えるものだ。
心地よい静寂の中、私は身体を丸めて、浅い微睡み(まどろみ)の中に落ちていた。
ほころび庵の年季の入った引き戸が、ガラガラと静かに開いたのは、ちょうどその時だった。
入ってきたのは、三十代前半とおぼしき一人の女性だった。
彼女は濡れた傘を小さく畳みながら、少しだけ肩を上下させて息を切らしていた。何かから逃げるように急いでここへやってきたような、あるいは、この暖簾をくぐるべきかどうかを何日も、何ヶ月も迷い続けてようやく辿り着いたような――そんな、ひどく複雑な切迫感を孕んだ顔立ちをしていた。
私はうとうとしていた目を細め、彼女の胸元を凝視した。
そこに視えたのは、恋の赤でも、悪意の黒でもない。
白に近い、どこか儚げな「薄い銀色」の糸。
かつて第二話で、あの桐原春翔さんが持ってきたものと全く同じ色――過去の強い未練や追憶が紡ぎ出す、『記憶の糸』だった。
だが、あの時の春翔さんのものよりも、彼女の銀色の糸は圧倒的に太く、そして激しく震えていた。まるで、ずっと緊張していたものが、最後に美しい瞬間を迎えて、穏やかにほどけていくように。
そして。驚くべきことに、その震える銀色の糸の先は――澄江さんではなく、受付カウンターの端にいる「私」の方へ向かって、遮るものなく真っ直ぐに伸びていたのだ。
「いらっしゃいませ〜」
澄江さんが雑誌を机に置き、いつもの穏やかな声で迎えた。
「あの……」
女性は低く、けれど芯のある声で言った。
「占いをお願いしたいというよりは、少し……確認したいことがあって、お邪魔しました」
「どうぞ、冷たい雨の中大変でしたね。まずはそちらにお掛けになってくださいな」
女性は促されるまま、パイプ椅子に腰掛けた。
立てかけられた傘の先端から、ぽつり、ぽつりと大粒の雨粒が床に落ちて、小さな水溜りを作る。
「――花村朱音、という女性を、ご存知ですか」
私は、呼吸を止めた。ぴくりとも動けなかった。
澄江さんは、一瞬だけ記憶を探るように「はて」と首を傾げた。
「花村……朱音さん、ですか?」
「はい。二十八歳で亡くなった、霊能者の女性です。……今から四年ほど前に、不慮の交通事故で亡くなりました」
澄江さんはしばらく気の毒そうに視線を落としたあと、ゆっくりと首を横に振った。
「いえ、残念ながら、私はそのような素晴らしい方をご存知ないですねぇ……。あの、どうしてその方のお名前が、私のこのような店に?」
「朱音の遺品を整理していたら、このお店の名前が出てきたんです」
女性は、どこか遠くを見るような目で言った。
「ほころび庵、という文字が……姉の手帳の隅に、はっきりと書き残されていました」
私は窓の外を見やった。
いつの間にか、雨の音が少しだけ強くなっていた。
「その、朱音さんという方は……あなたと、どういったご関係だったのですか?」
澄江さんが、壊れ物に触れるような優しい声で尋ねる。
「双子の、姉です」
女性は、まっすぐに澄江さんを見つめて言った。
「私は花村彩音といいます。朱音の、双子の妹です」
私は、じっと目の前の女性――彩音の顔を見つめた。
双子の妹。花村彩音。
猫の脳味噌の奥底から、私が「花村朱音」として生きていた頃の記憶が、鮮烈に蘇ってくる。一一卵性の双子で、子供の頃は近所の人からも毎日のように間違えられていた、私の大切な片割れ。
「朱音は、いつも変なものばかり視える」なんて言いながらも、誰よりも私の力を信じ、誰よりも私の孤独を理解しようとしてくれていた、あの彩音だ。
その彩音が、もう三十代になっている。
当然だ。私が死んでから、もう四年という歳月が流れたのだ。私が二十八歳で時間を止めてしまっている間に、残された彩音はちゃんと年を重ね、大人になっていた。
けれど、私には分かった。手帳を大切にバッグに忍ばせ、雨の中を必死に走ってきたあのひたむきな表情は、あの頃の彩音のままだ。
「朱音さんが亡くなられて、もう四年になるのですね」
澄江さんが、静かに、悼むように言った。
「はい」
彩音は小さく頷いた。
「去年、ようやく少し気持ちの整理がついて、実家の姉の部屋を片付けていたんです。その時に、朱音が愛用していた古い手帳が出てきて……。どうしても捨てられなくて、ずっと自分の部屋に置いていたんですが、先月、やっとそれを開いて読む覚悟ができました」
「その手帳の中に、うちの店名が」
「ええ。姉は、どうしてもここに来たかったみたいです。でも……ここに来る約束を隠すように手帳に書いたきり、その前に、突然亡くなってしまって」
私は、そっと目を閉じた。
――そうだ。私は、どうしてもこの『ほころび庵』に来たかったのだ。
生前、私はここの噂を耳にしていた。下町の寂れた商店街に、霊感なんてこれっぽっちもないのに、何十年もお客の相談に乗り続けている不思議な占い師がいる、と。
本物の霊能力を持ち、視えるがゆえに傷つき、言葉が届かないもどかしさに絶望していた当時の私は、その「霊感のない占い師」が、一体どんな顔をして、どんな言葉を使って迷える人間たちの相談を受けているのか、どうしても興味があった。いつか会いに行こう、そう手帳にメモしていたのだ。
けれど、その願いが叶う前に、私の二十八年の人生は唐突に終わった。
ただ横断歩道を渡っていただけの夕暮れ、信号を無視して突っ込んできた一台の車。それだけの、あまりにも呆気ない理由で。
「その手帳には、一体、どのようなことが書かれていたのですか?」
澄江さんが尋ねる。
彩音はバッグの中から、一冊の小さな手帳を取り出した。
それは、見覚えのある深い紺色の手帳だった。表紙の角が少し擦り切れていて、私が生前、毎日のように持ち歩いていたものだった。
その手帳から、一本の美しい銀色の糸が伸びている。
『記憶の糸』は、手帳のいちばん最後のページに向かって、静かに、優しく明滅していた。
「手帳の、最後のページに」
彩音が、愛おしそうに手帳を撫でながら言った。
「いかにも、不器用だった朱音らしい言葉が、遺されていました」
彩音はそのページを開き、澄江さんから読めるようにテーブルの上に置いた。
私はたまらず受付カウンターから飛び降り、テーブルの上へと音もなく移動して、その手帳を覗き込んだ。猫の目には文字の形は認識できない。けれど、銀色の記憶の糸が、その最後の数行を激しく指し示しているのだけは、はっきりと視えていた。
彩音が、震える声を微かに押し殺しながら、静かにそのページを読み上げた。
『視えるのに、どうしても言葉が届かないことがある。それでも、届かなくても、視え続けることが、私の課せられた仕事だと思っている。いつか、あの商店街の「ほころび庵」に行って、あそこの占い師さんに聞いてみたい。霊感がなくても、人の話を、あの笑顔で聞き続けるのは、一体なぜですか、と』
ほころび庵の店内から、一切の音が消えた。
ただ、トタン屋根をトントンと叩く、柔らかな雨の音だけが静かに響いている。
澄江さんは、何も言わずに、そっと目を閉じた。
私はじっと、その手帳の文字の温もりを感じていた。
――視えるのに、届かないことがある。
そうだ。私の前世は、その絶望の繰り返しだった。糸がどれだけ鮮明に視えても、私の放つ言葉は人間の頑固な心を穿つことができず、すり抜けていく。それでも止められなくて、お節介だと笑われながら走り回っていた。
それは、猫の「ムギ」になってからも、基本的には何も変わっていなかったはずだった。肉球でバツを作っても、マルを作っても、それがどれだけ人間の心に届いているのか、私には確信が持てなかった。
けれど。
美咲は「最初から、ムギちゃんの気持ちは伝わってた気がする」と言ってくれた。
木村さんは、私の一つのマルを信じて、大好きな女性へ真っ直ぐに突き進んでくれた。
届いていたのだ。言葉を失ったこの小さな身体の足掻きは、少しずつ、確実に、大切な人たちへと届いていた。
澄江さんが、長い沈黙のあと、ゆっくりと愛おしそうに目を開けた。
「その、朱音さんという方が、どうしても聞きたかったこと」
彩音が、顔を上げた。
「霊感がなくても、なぜ私がここに座って、話を聞き続けているのか……でしたね」
「はい」
澄江さんは、どこか遠い昔を愛おしむように、ふっと優しく微笑んだ。
「昔ね……私はまだ若くて愚かだった頃、自分の不用意な言葉で、大切なお客さんの人生をひどく傷つけてしまったことがあるんです」
彩音は口を挟まず、静かにその告白を耳で受け止めていた。
「だから、私は自分の言葉で誰かを導くことをやめました。言葉を、とても慎むようになった。……でもね、言葉で指針を示せなくても、その人が抱えている苦しみを聞くことはできる。その人が流す涙を、この笑顔で、まるごと受け止めることならできる。それだけなら、私のように霊感がこれっぽっちもない人間にだって、いくらでもできるから」
澄江さんはそう言うと、テーブルの上の私を、優しく見つめた。
「まあ、最近は、このムギちゃんに助けてもらってばかりなんですけれどねぇ」
私は気恥ずかしくなって、いつものようにフイとそっぽを向いた。
「でも、もしその朱音さんという方に、今からでもお答えできるのだとしたら」
澄江さんは言った。
「『視えなくても、あなたの代わりに、ここでずーっと話を聞き続けている人間がいますよ』と、そうお伝えしたいですね。不思議なものを視る力がある人も、私のように何も視えない人も、目の前の誰かを救いたいと思ってやっていることは、きっと、何一つ変わらないと思うから」
彩音の大きな瞳から、ついに堪えきれなくなった涙が、一粒、ポロリと溢れ落ちた。
「……ありがとうございます。朱音がもしこれを、あの時に聞いていたら、きっと……すごく救われて、喜んだと思います」
私は窓の外を見やった。
激しかった雨が、いつの間にか少しだけ弱まり、優しい霧雨へと変わっていた。
――視えるのに、届かないことがある、と朱音は遺した。
――視えなくても、届くことがある、と澄江さんは笑った。
どちらも、間違いなく本当のことだ。
そしてどちらも、この『ほころび庵』という小さくて温かい場所で、形を変えながらずっと紡がれてきた、大切な真実だった。
お茶を飲み終え、少し表情の晴れた彩音が、帰り際にふと私の方を見つめた。
「あの……澄江さん、この猫ちゃんは、いつからここにいるんですか?」
「この子ですか? ええと、確か四年前の、ちょうど今くらいの時期でしたかねぇ。ある日突然、店の前に迷い込んできたんですよ」
澄江さんの言葉に、彩音はハッと息を呑んだ。
「朱音が亡くなった時期と、ちょうど同じ頃に……」
彩音は、私の姿をまじまじと、何かの面影を探すように見つめてきた。
私は逃げることもせず、その真っ直ぐな瞳を見つめ返した。
私の、大好きな双子の妹。いつも私の後ろをついて歩いていた、彩音。
「朱音、また変なこと言ってる」と呆れながらも、誰よりも私の味方でいてくれた、あの頃の彩音のままだ。
三十代になっても、その優しい目の形は、あの頃と少しも変わっていなかった。
彩音が、おずおずと、そっと綺麗な手をこちらへ伸ばしてきた。
いつもなら他人に触られるのを嫌う私だけれど、今日の私は、その手を避けようとはしなかった。
彩音の手のひらが、私の小さな頭を、そっと優しく撫でる。
――びっくりするほど、温かかった。
「……かわいい猫ちゃんね」
彩音は、涙の混じった声で小さく呟いた。
「なんだろう。初めて会った気がしないというか……すごく、懐かしい感じがする」
澄江さんが「おやまあ、不思議ねぇ」とくすくす笑った。
私は、心地よく目を細めた。
魂が私であるという事実は、人間的な意味で「正しい」とも言えるし、猫の身体である以上「間違い」とも言える。
でも、今の私にとっては、そんな定義なんてどうでもよかった。
ただ、愛おしい妹の手のひらが温かくて、その温もりが私の背中に伝わっている。それだけで、もう、十分すぎるほど十分だった。
彩音が何度も振り返りながら店を出て行ったあと、澄江さんがぽつりと呟いた。
「本当に……不思議なご縁って、あるものねぇ、ムギちゃん」
私は窓辺に戻り、雨の中を相合傘のように手帳を抱えて歩いていく彩音の後ろ姿を見送った。
彼女の胸から伸びるあの銀色の『記憶の糸』は、先ほどまでのように激しく震えてはいなかった。まるで、精一杯張り続けた心が、やり切ったあとに、そっと力を抜いたかのように。
なぜ私が人間の言葉を奪われ、この小さな猫の身体に転生したのか、その本当の理由は今でも分からない。
ただ、私は今、この『ほころび庵』という場所にいる。
それだけは、何があっても揺るがない、確かな事実だった。
その日の夜。すべての片付けを終えた澄江さんが、私をそっと抱き上げ、自分の膝の上に乗せた。
窓の外では、いつの間にか雨の音がすっかり遠のいていた。
「ムギちゃん」
澄江さんが、私の頭を愛おしそうに撫でながら言った。
「あなた……四年前、ここにこうして来てくれて、本当に本当によかったわ」
私は鳴き声一つ返さなかった。いや、返す言葉が見つからなかった。
ただ、澄江さんの温かい膝の温もりを、静かに、体中でお裾分けしてもらうように受け止めた。
優しくなった春の雨が、ほころび庵の古いトタン屋根を、いつまでも、やわらかく叩き続けていた。




