第7話:その猫の名前を、私は知っています
三月に入って、雨の日が増えた。
春の雨は冬の雨より柔らかいが、商店街の屋根を叩く音は同じだ。
私はほころび庵の窓の内側で、雨に煙る商店街を眺めていた。
雨の日は、糸が見えにくい。
水分が光を散らすせいか、糸の輪郭がぼんやりする。だから雨の日は、窓の外より窓の内側を見ることが多い。
澄江さんが、お茶を飲みながら古い雑誌をめくっていた。
客は来ない。
雨の日は決まって少ない。
私は丸まって、うとうとしていた。
ほころび庵の引き戸が、静かに開いたのは、そのときだった。
入ってきたのは、三十代くらいの女性だった。
傘を畳みながら、少し息を切らしていた。
急いで来たような、でも来るかどうかずっと迷っていたような、そういう顔をしていた。
糸を見た。
赤い糸でも、黒い糸でもなかった。
白に近い、薄い銀色の糸。
記憶の糸だ。
以前、健太さんが来たときと、同じ色だった。
でも、健太さんのときより、糸が太かった。そして震えていた。まるで長い時間をかけて張り詰めてきた弦が、今にも鳴り響こうとしているように。
その糸の先は——ほころび庵の奥、私の方へ、まっすぐ伸びていた。
「いらっしゃいませ〜」
澄江さんが雑誌を置いた。
「あの」
女性が言った。
「占いというより、少し確認したいことがあって」
「どうぞ、座ってください」
女性が座った。
傘を椅子の横に立てかけた。
雨粒が床に落ちた。
「花村朱音、という方を、ご存知ですか」
私は、動かなかった。
澄江さんが「はて」という顔をした。
「花村……朱音さん?」
「はい。二十八歳で亡くなった、霊能者の女性です。四年ほど前に、交通事故で」
澄江さんが首を横に振った。
「存じ上げないですねえ。どうして私のところへ?」
「朱音の遺品の中に、このお店の名前があったんです」
女性が言った。
「ほころび庵、という文字が、手帳に書いてあって」
私は窓の外を見た。
雨が、少し強くなっていた。
「朱音さんとは、どういうご関係ですか?」
澄江さんが優しい聞いた。
「双子の妹です」
女性が言った。
「花村彩音といいます。朱音の、双子の妹です」
私は、女性を見た。
双子の妹。
花村彩音。
記憶の中を探った。
朱音として生きていたとき、彩音は確かにいた。一卵性の双子で、よく間違えられていた妹が。
「朱音は変なものが見える」と言いながら、でも一番信じてくれていた妹だった。
彩音が、三十代になっている。
当然だ。朱音が死んで、四年が経っている。彩音も年を取る。
でも私には、彩音がまだあのころのままの気がした。朱音の手帳を持って、雨の中を急いで来た、あの顔が。
「朱音さんが亡くなって、四年になるんですね」
澄江さんが静かに言った。
「はい」
彩音が頷いた。
「去年、実家を整理していたら、朱音の手帳が出てきて。捨てられなくて、ずっと持っていたんですが、先月やっと読んだんです」
「その手帳に、うちの名前が」
「ええ。姉は、ここに来たかったみたいです。来る前に、亡くなってしまって」
私は目を閉じた。
そうだ。来たかった。
ほころび庵のことは、知っていた。商店街の古い占い処で、霊感のない占い師が長年続けている店だと、どこかで聞いたことがあった。いつか行ってみようと思っていた。霊能者として、霊感のない占い師がどんな相談を受けているのか、興味があった。
でも、行く前に、死んだ。
横断歩道を渡っていたとき、信号を無視した車が来た。それだけのことで、花村朱音の二十八年は終わった。
「手帳に、何が書いてあったんですか?」
澄江さんが聞いた。
彩音がバッグから、古い手帳を取り出した。
紺色の、小さな手帳だった。表紙が少し擦り切れていた。
私はその手帳を見た。
手帳から、糸が伸びていた。記憶の糸だ。
薄い銀色の糸が、手帳の中のページへ向かって、静かに光っていた。
「最後のページに」
彩音が言った。
「朱音らしい、言葉が書いてあって」
彩音がページを開いた。
澄江さんに向けて、置いた。
澄江さんが読んだ。
私はカウンターから降りた。
テーブルの上に乗って、手帳を覗き込んだ。
文字は読めない。
でも糸が、最後のページを指していた。
彩音が、静かに読み上げた。
『視えるのに、届かないことがある。届かなくても、視え続けることが、私の仕事だと思っている。いつかほころび庵に行って、あそこの占い師さんに聞いてみたい。霊感がなくても、人の話を聞き続けるのは、なぜですか、と』
ほころび庵の中が、静かになった。
雨の音だけが、屋根を叩いていた。
澄江さんが、目を閉じた。
私は手帳を見た。
視えるのに、届かないことがある。
そうだ。ずっとそうだった。糸が視えても、言葉が届かなくて、でも止められなくて、走り回っていた。猫になってからも、同じだ。肉球でバツを作っても、マルを作っても、どこまで届いているかわからない。
でも。
美咲は「伝わってた気がして」と言った。
木村さんは丸一つで動いた。
届いていた。少しずつ、届いていた。
澄江さんが、ゆっくりと口を開いた。
「その方が聞きたかったこと」
彩音が顔を上げた。
「霊感がなくても話を聞き続けるのはなぜか、でしたね」
「はい」
澄江さんが、少し笑った。
「昔、自分の言葉で誰かを傷つけたことがあるんです」
彩音が静かに聞いていた。
「だから、言葉を慎むようになった。でも、話を聞くことはできる。受け止めることはできる。それだけなら、霊感がなくてもできるから」
澄江さんが私を見た。
「最近は、この子に助けてもらってばかりですけどね」
私はそっぽを向いた。
「でも、その方にお伝えできるなら」
澄江さんが言った。
「視えなくても、聞き続ける人間がここにいます、と。視える人も、視えない人も、きっとやっていることは同じだと思うから」
彩音の目が、潤んだ。
「……朱音が聞いたら、喜んだと思います」
私は、窓の外を見た。
雨が、少し弱くなっていた。
視えるのに届かないことがある、と朱音は書いた。
視えなくても届くことがある、と澄江さんは言った。
どちらも、本当のことだ。
そしてどちらも、この場所でずっと続いてきたことだ。
彩音が帰り際、私を見た。
「この猫、いつからいるんですか?」
「四年前から」
澄江さんが言った。
「朱音さんが亡くなったころに、ちょうど来たんですね」
彩音が、私をまじまじと見た。
私は、彩音を見た。
双子の妹。いつも一緒にいた。
「朱音は変なものが見える」と言いながら、誰より私の言葉を信じようとしてくれた、あのころの彩音だ。
三十代になっても、目が変わっていなかった。
彩音が、そっと手を伸ばした。
私は、避けなかった。
彩音の手が、私の頭を撫てた。
温かかった。
「かわいい猫ね」
彩音が小さく言った。
「なんだか、懐かしい感じがする」
澄江さんが「まあ」と笑った。
私は、目を細めた。
似ている、というのは、正しいとも言えるし、間違いとも言える。
でも今は、どちらでもよかった。
彩音の手が温かくて、それだけで、十分だった。
彩音が出て行った後、澄江さんがぽつりと言った。
「不思議なご縁ね」
私は窓から彩音の後ろ姿を見送った。
雨の中を、傘をさして歩いていく。
彩音の胸から、白い糸が伸びていた。
記憶の糸だ。でもさっきより、震えが止まっていた。張り詰めていた弦が、少しだけ緩んだように。
なぜ猫に転生したのか、私にはわからない。
ただ、ここにいる。
それだけは確かだった。
夜、澄江さんが私を膝に乗せた。
雨の音が、遠くなっていた。
「ムギちゃん」
澄江さんが言った。
「あなた、ここに来てくれてよかった」
私は答えなかった。
答えられなかった。
ただ、澄江さんの膝の温かさを、静かに受け取った。
春の雨が、ほころび庵の屋根を、やわらかく叩いていた。




