第6話:おめでとう、と言えない猫の話
二月の終わりごろ、商店街の花屋がミモザを店先に出し始めた。
黄色い小さな花が、まだ寒い風の中でぽんぽんと揺れている。私はその様子を窓から眺めながら、今日の糸の具合を確認していた。
冬の糸より、春の糸の方が好きだ。
色が明るい。人間は暖かくなると、少しだけ前を向く。糸もそれに連られて、柔らかくなる。
美咲が来たのは、そういう日の午後だった。
ピンクのマフラーではなかった。薄いベージュのコートに、白いマフラー。服が変わっていた。髪も少し切っていた。
でも一番変わっていたのは、糸だった。
胸から伸びる赤い糸が、第五話で見た夕暮れの商店街より、さらに太くなっていた。色も鮮やかだった。よく熟れた果実みたいな、温かい赤だった。
その糸の先は、言うまでもなく、八百屋の方向だった。
「美咲ちゃん、いらっしゃい」
澄江さんが顔を上げた。美咲を見て、すぐに目を細めた。この人は、人の顔の変化を読むのが上手い。霊感がなくても、長年人の話を聞いてきた勘がある。
「澄江さん、こんにちは」
美咲が笑った。
初めてほころび庵に来たときの笑い方と、全然違った。あのときの笑いは、どこか頑張って作っている感じがあった。今日の笑いは、するっと自然に出てきていた。
「報告に来たんです」
美咲がカウンターに座りながら言った。
「報告?」
澄江さんがにこにこした。
「嬉しそうな顔ね」
「はい」
美咲が少し照れた。
「付き合うことになりました。商店街の、八百屋さんの木村さんと」
澄江さんが「まあ」と言った。
知っていたはずなのに、本当に嬉しそうな顔をした。この人の「まあ」は、いつも本物だ。
「おめでとう」
澄江さんが言った。
「良かった。本当に良かったわ」
美咲の目が、少し潤んだ。
「ありがとうございます。なんか、ここに来て良かったなって、ずっと思ってて。澄江さんに話を聞いてもらって、ムギちゃんに——」
美咲が私を見た。
私はカウンターの端で、そっぽを向いていた。
「ムギちゃんに、色々してもらって」
色々、というのは遠慮のある言い方だと思う。お茶をこぼして、スマートフォンを隙間に落として、顔面にダイブして、男の鼻から血を出させた、あの一連の出来事を、「色々」と呼ぶのは、随分と上品なまとめ方だ。
でも、悪くない。
「どんなふうに付き合うことになったんですか?」
澄江さんが聞いた。
美咲が頬に手を当てた。
「木村さんが、直接言いに来てくれて」
「まあ」
「お店に野菜を買いに行ったら、『少し時間ありますか』って言われて。近くの公園に行って、そこで」
美咲が笑った。照れているのに、隠しきれていない。
「『好きです、付き合ってください』って、真っ直ぐ言ってくれて」
澄江さんが「素敵ね」と言った。
「びっくりしました。でも、嬉しくて。なんか、気づいたら泣いてて」
私は横目で美咲を見た。
赤い糸が、話しながらさらに輝いていた。人間は好きな人の話をするとき、糸が一番きれいになる。生前、それを何度も見てきた。
「木村さんが、ちょっと占いに行ったって言ってたんですよ」
美咲が言った。
私は耳を動かした。
「ここに来たって。それで、背中を押してもらったって」
澄江さんが「まあ」と言った。
今度は少し照れた「まあ」だった。
「ムギちゃんに丸を作ってもらったって、嬉しそうに言ってて」
美咲が私を見た。
「ありがとうね、ムギちゃん」
私はそっぽを向いた。
礼を言われるほどのことはしていない。丸を作っただけだ。
でも。
美咲が帰り際、暖簾の前で立ち止まった。
振り返って、私を見た。
「ムギちゃん」
私は窓から彼女を見た。
「最初に来たとき、覚えてる?」
覚えている。
黒いダウンコートに、ピンクのマフラー。ドス黒い糸を引きずって、「この人が絶対に運命の人」と言いながら、目は少し怖かった。
「あのとき、ムギちゃんがずっと見てたじゃないですか。まっすぐ」
美咲が少し笑った。
「最初は何なんだろうと思ったけど。でも、なんか、目が離せなくて。帰り道、ずっと頭に残ってて」
私は動かなかった。
「あのとき、私に何か言おうとしてたでしょ」
言っていた。
必死に言っていた。その男はやめろ、と。黒い糸が見える、と。でも言葉は届かなかった。
「猫だから、言葉は話せないけど」
美咲が言った。
「でも、なんか、伝わってた気がして。今でもそう思ってる」
私は、美咲を見た。
言葉が届いた瞬間と、届かなかった瞬間を、両方知っている。猫になって、言葉をなくして、それでも伝えようとしてきた。
届いていたのかどうか、わからないと思っていた。
でも。
美咲が、伝わっていたと言っている。
私は、カウンターから降りた。
美咲の足元まで歩いた。
そして、前足で、○を作った。
今まで作った丸の中で、一番大きな丸だったと思う。
美咲が、声を出して笑った。
「ありがとう、ムギちゃん」
今度は、そっぽを向かなかった。
私はそのまま、美咲を見上げていた。
それが精一杯の、返事だった。
美咲が帰った後、澄江さんが言った。
「ムギちゃん、今日は素直ね」
私は窓際に戻って、丸まった。
素直、というより、負けた、という感じに近い。
美咲に「伝わってた」と言われたとき、何か胸のあたりがほどけた気がした。
生前、お節介と言われながら走り回って、届いたかどうかわからないまま死んで、猫になって、また届かない日々が続いて。
それでも、届いていた。
一つでも届いていれば、十分だと、今は思う。
夕方、窓から外を見た。
美咲が八百屋の前で立ち止まった。木村さんが店先から顔を出した。二人が笑った。
赤い糸が、夕暮れの光の中で、きらきらと輝いていた。
私はその糸を、しばらく眺めた。
こういう糸を何本見てきただろう。
縁の糸は、始まりの瞬間が一番美しい。まだ細くて、でも確かで、これからどこへ伸びていくかわからない、あの最初の輝き。
何度見ても、悪くない。
むしろ。
これを見るために、この場所にいるのかもしれない、と思うことが、最近ある。
澄江さんが店を閉めながら、ぽつりと言った。
「春になってきたわね」
私は目を閉じた。
商店街の電球が、窓の外でほのかに光っていた。
ミモザの黄色が、風に揺れていた。




