第5話:八百屋の恋は、いつも新鮮です
一月の商店街は、正月飾りが片付いて、少しだけ素っ気ない顔になる。
ほころび庵の前も例外ではなく、澄江さんが年末に飾った小さな松飾りも、七日を過ぎたころにはきれいに消えていた。私はいつものように窓から商店街を眺めながら、今日の糸の具合を確認していた。
冬の糸は、夏より色が濃い。寒さが人間を内向きにさせるからだと思う。
木村さんが来たのは、午後の、客の少ない時間だった。
最初、私は見間違えたかと思った。
八百屋の木村さんが、ほころび庵の暖簾の前に立っている。腕を組んで、暖簾を見上げて、入るべきか入らざるべきか、という顔をしていた。
米俵を担ぐ腕で。
以前、りょうくんを取り押さえた、商店街で一番頼りになる男が、ほころび庵の暖簾の前で、完全に動けなくなっていた。
私は目を細めた。
木村さんの胸から、赤い糸が伸びていた。
太い。かなり太い。
そしてその糸の先は——私にはすでにわかっていた。あの時から、ずっと気になっていた。あの糸の先は、商店街のある方向を指していた。
ピンクのマフラーの、あの子の方向を。
木村さん、と私は思った。
ようやく来たか。
木村さんが、えいっという感じで暖簾をくぐった。
「いらっしゃいませ〜」
澄江さんが顔を上げた。木村さんを見て、少し驚いた顔をした。
「あら、木村さん。どうしたんですか、珍しい」
「お、お邪魔します」
木村さんが頭を下げた。百八十センチの体が、ほころび庵の低い天井の下で、少し窮屈そうだった。
「どうぞ座って。お茶でも」
「あ、はい。すみません」
木村さんがカウンターの椅子に座った。椅子がわずかに沈んだ。
私はカウンターの端から木村さんを観察した。
糸は本物だ。太くて、真っ直ぐで、迷いがない。この男の感情は、糸に正直に出ている。
澄江さんが湯呑みを出した。
「相談、ですか?」
「……はい」
木村さんが湯呑みを両手で持った。大きな手だった。その手が、少しだけ緊張していた。
「好きな人がいるんですが」
澄江さんの顔が、ぱっと明るくなった。
「まあ」
「どうしたらいいか、わからなくて」
木村さんが、まっすぐ言った。照れてはいた。でも、ごまかしはなかった。
私は、この男が好きだと思った。
「どんな方なんですか?」
澄江さんが優しく聞いた。
木村さんが湯呑みを置いた。
「商店街で、よく見かける子で。去年の秋ごろから気になってて」
秋ごろ。
私は記憶を辿った。秋。第一話が十一月だった。
美咲が初めてほころび庵に来た日、私は糸の先が八百屋の方向を向いていることに、うっすら気づいていた。
つまり木村さんも、あのころから、だ。
「明るくて、よく笑う子で。うちの前をよく通るんですけど、みかんとか買ってくれて」
澄江さんが「みかん」という言葉でぴんと来た顔をした。でも何も言わなかった。
「ただ、その子、少し前まで良くない男と付き合ってたみたいで」
木村さんが少し眉を寄せた。
「詳しくは知らないんですけど、去年の冬に、なんかあったみたいで。その後、うちの前を通るとき、前より顔が明るくなった気がして」
私は窓の外を見た。
美咲が、あの男と来た日のことを思い出した。
木村さんが暴れる男を取り押さえた日のことも。
あのとき木村さんは美咲の顔をちゃんと見ていたのだろう。
「それで、声をかけたいんですけど」
木村さんが言った。
「なかなか、タイミングがわからなくて」
澄江さんが水晶玉を覗いた。
「う〜ん、そうですねえ」
私は立ち上がった。
澄江さんの「う〜ん、そうですねえ」は、長くなると「もう少し様子を見ては」という着地になる。
木村さんにそれは必要ない。
この男の糸は、もう答えを出している。
私はカウンターから木村さんの膝の前に降りた。
木村さんが私を見た。
「あ、猫」
私は木村さんの前足で、マルを作った。
はっきりと。大きく。
「ムギちゃんが丸を」
澄江さんが目を細めた。
木村さんが私をまじまじと見た。
「……行け、ってこと?」
私はもう一度、マルを作った。
木村さんが、少しだけ笑った。
「猫に言われるとは思わなかったな」
帰り際、木村さんが言った。
「そういえば、うちの母親も昔、ここに来たことがあるって言ってたんですよ」
澄江さんの手が止まった。
「木村さんのお母様が?」
「ええ。父と結婚するかどうか迷ってたとき、背中を押してもらったって。それで、ここのことは昔から知ってて」
澄江さんが、ゆっくりと微笑んだ。
「……そうでしたか」
「母がよく言ってたんですよ。あの占いのおかげで踏み出せたって」
私は澄江さんを見た。
澄江さんの目が、少し潤んでいた。
でも笑顔だった。
今日の笑顔は、鉄壁じゃなかった。
あの夜から、澄江さんの笑顔は隙間のある温かい笑顔に少しだけ変わっていた。
「お母様に、よろしく伝えてください」
「はい」
木村さんが頭を下げた。
「ありがとうございました」
暖簾をくぐって、木村さんが出て行った。
私は窓から見送った。
木村さんが商店街を歩いていく。
その胸から伸びる赤い糸は、真っ直ぐ、迷いなく、美咲の方向へ向かっていた。
糸の先で何が起きるかは、まだわからない。
でも、向きは正しい。
それだけで、十分だ。
その日の夕方。
私はいつものように窓から商店街を眺めていた。
八百屋の前で、美咲が笑った。
木村さんも笑った。
二人の間の赤い糸は、夕暮れの中で静かに揺れていた。
私は糸を見た。
美咲の胸から伸びる赤い糸と、木村さんの胸から伸びる赤い糸が、二人の間でゆっくりと、絡まり始めていた。
まだ細い。まだほんの入口だ。
でも、確かに、絡まっていた。
私は目を細めた。
糸が絡まり始める瞬間を、何度も見てきた。これがどこへ向かうかは、まだわからない。人間の縁は、視えても、保証はできない。
それでも。
この二本の糸は、悪くない。
むしろ、かなりいい。
澄江さんが店を閉めながら言った。
「ムギちゃん、今日は木村さんに丸を作ったのね」
私はそっぽを向いた。
「最近、丸を作ることが増えたわね」
澄江さんがくすくす笑った。
「最初のころは、バツばかりだったのに」
私は窓の外を見た。
一月の商店街に、電球の光がともっていた。
バツばかり、というのは否定しない。でも。
バツを作るのは、赤い糸が見えないときだ。
この商店街に、赤い糸が増えてきた気がする。




