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ほころび庵のムギ〜縁の糸が見える猫〜  作者: ゆも
第一章 ほころび庵へようこそ

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6/21

第5話:八百屋の恋は、いつも新鮮です

一月の商店街は、正月飾りが片付いて、少しだけ素っ気ない顔になる。


 ほころび庵の前も例外ではなく、澄江さんが年末に飾った小さな松飾りも、七日を過ぎたころにはきれいに消えていた。私はいつものように窓から商店街を眺めながら、今日の糸の具合を確認していた。


 冬の糸は、夏より色が濃い。寒さが人間を内向きにさせるからだと思う。


 木村さんが来たのは、午後の、客の少ない時間だった。


 最初、私は見間違えたかと思った。


 八百屋の木村さんが、ほころび庵の暖簾の前に立っている。腕を組んで、暖簾を見上げて、入るべきか入らざるべきか、という顔をしていた。


 米俵を担ぐ腕で。


 以前、りょうくんを取り押さえた、商店街で一番頼りになる男が、ほころび庵の暖簾の前で、完全に動けなくなっていた。


 私は目を細めた。


 木村さんの胸から、赤い糸が伸びていた。


 太い。かなり太い。


 そしてその糸の先は——私にはすでにわかっていた。あの時から、ずっと気になっていた。あの糸の先は、商店街のある方向を指していた。


 ピンクのマフラーの、あの子の方向を。


 木村さん、と私は思った。


 ようやく来たか。


 木村さんが、えいっという感じで暖簾をくぐった。


「いらっしゃいませ〜」


 澄江さんが顔を上げた。木村さんを見て、少し驚いた顔をした。


「あら、木村さん。どうしたんですか、珍しい」


「お、お邪魔します」


 木村さんが頭を下げた。百八十センチの体が、ほころび庵の低い天井の下で、少し窮屈そうだった。


「どうぞ座って。お茶でも」


「あ、はい。すみません」


 木村さんがカウンターの椅子に座った。椅子がわずかに沈んだ。


 私はカウンターの端から木村さんを観察した。


 糸は本物だ。太くて、真っ直ぐで、迷いがない。この男の感情は、糸に正直に出ている。


 澄江さんが湯呑みを出した。


「相談、ですか?」


「……はい」


 木村さんが湯呑みを両手で持った。大きな手だった。その手が、少しだけ緊張していた。


「好きな人がいるんですが」


 澄江さんの顔が、ぱっと明るくなった。


「まあ」


「どうしたらいいか、わからなくて」


 木村さんが、まっすぐ言った。照れてはいた。でも、ごまかしはなかった。


 私は、この男が好きだと思った。


「どんな方なんですか?」


澄江さんが優しく聞いた。


 木村さんが湯呑みを置いた。


「商店街で、よく見かける子で。去年の秋ごろから気になってて」


 秋ごろ。


 私は記憶を辿った。秋。第一話が十一月だった。


 美咲が初めてほころび庵に来た日、私は糸の先が八百屋の方向を向いていることに、うっすら気づいていた。


 つまり木村さんも、あのころから、だ。


「明るくて、よく笑う子で。うちの前をよく通るんですけど、みかんとか買ってくれて」


 澄江さんが「みかん」という言葉でぴんと来た顔をした。でも何も言わなかった。


「ただ、その子、少し前まで良くない男と付き合ってたみたいで」


 木村さんが少し眉を寄せた。


「詳しくは知らないんですけど、去年の冬に、なんかあったみたいで。その後、うちの前を通るとき、前より顔が明るくなった気がして」


 私は窓の外を見た。


 美咲が、あの男と来た日のことを思い出した。 

 

 木村さんが暴れる男を取り押さえた日のことも。


 あのとき木村さんは美咲の顔をちゃんと見ていたのだろう。


「それで、声をかけたいんですけど」


木村さんが言った。


「なかなか、タイミングがわからなくて」


 澄江さんが水晶玉を覗いた。


「う〜ん、そうですねえ」


 私は立ち上がった。


 澄江さんの「う〜ん、そうですねえ」は、長くなると「もう少し様子を見ては」という着地になる。


 木村さんにそれは必要ない。

 この男の糸は、もう答えを出している。


 私はカウンターから木村さんの膝の前に降りた。


 木村さんが私を見た。


「あ、猫」


 私は木村さんの前足で、マルを作った。


 はっきりと。大きく。


「ムギちゃんが丸を」


澄江さんが目を細めた。


 木村さんが私をまじまじと見た。


「……行け、ってこと?」


 私はもう一度、マルを作った。


 木村さんが、少しだけ笑った。


「猫に言われるとは思わなかったな」


 帰り際、木村さんが言った。


「そういえば、うちの母親も昔、ここに来たことがあるって言ってたんですよ」


 澄江さんの手が止まった。


「木村さんのお母様が?」


「ええ。父と結婚するかどうか迷ってたとき、背中を押してもらったって。それで、ここのことは昔から知ってて」


 澄江さんが、ゆっくりと微笑んだ。


「……そうでしたか」


「母がよく言ってたんですよ。あの占いのおかげで踏み出せたって」


 私は澄江さんを見た。


 澄江さんの目が、少し潤んでいた。


 でも笑顔だった。


 今日の笑顔は、鉄壁じゃなかった。


 あの夜から、澄江さんの笑顔は隙間のある温かい笑顔に少しだけ変わっていた。


「お母様に、よろしく伝えてください」


「はい」


木村さんが頭を下げた。


「ありがとうございました」


 暖簾をくぐって、木村さんが出て行った。


 私は窓から見送った。


 木村さんが商店街を歩いていく。


 その胸から伸びる赤い糸は、真っ直ぐ、迷いなく、美咲の方向へ向かっていた。


 糸の先で何が起きるかは、まだわからない。


 でも、向きは正しい。


 それだけで、十分だ。



 その日の夕方。


 私はいつものように窓から商店街を眺めていた。


 

 八百屋の前で、美咲が笑った。


 木村さんも笑った。


 二人の間の赤い糸は、夕暮れの中で静かに揺れていた。



 私は糸を見た。


 美咲の胸から伸びる赤い糸と、木村さんの胸から伸びる赤い糸が、二人の間でゆっくりと、絡まり始めていた。


 まだ細い。まだほんの入口だ。


 でも、確かに、絡まっていた。


 私は目を細めた。


 糸が絡まり始める瞬間を、何度も見てきた。これがどこへ向かうかは、まだわからない。人間の縁は、視えても、保証はできない。


 それでも。


 この二本の糸は、悪くない。


 むしろ、かなりいい。



 澄江さんが店を閉めながら言った。


「ムギちゃん、今日は木村さんに丸を作ったのね」


 私はそっぽを向いた。


「最近、丸を作ることが増えたわね」


 澄江さんがくすくす笑った。


「最初のころは、バツばかりだったのに」


 私は窓の外を見た。


 一月の商店街に、電球の光がともっていた。


 バツばかり、というのは否定しない。でも。


 バツを作るのは、赤い糸が見えないときだ。


 この商店街に、赤い糸が増えてきた気がする。


 


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