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ほころび庵のムギ〜縁の糸が見える猫〜  作者: ゆも
第一章 ほころび庵へようこそ

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第4話:半世紀前の赤い糸と、届かなかった謝罪。

十二月の半ば、ほころび庵に珍しい客が来た。


 珍しい、というのは相談の内容ではなく、その人間の糸のことだ。


 二十代の男性だった。背が高く、少し猫背で、コートの袖が少し長い。就活を終えたばかりのような、まだ社会の垢がついていない顔をしていた。


彼の糸は、赤も白も金も、どれも細くて若い。人生がこれから始まる人間の糸だ。


 ただ一本だけ、違う糸があった。


 胸のあたりから伸びる、白に近い、薄い銀色の糸。


 血の縁でも、恋の縁でもない。私がこれまであまり見たことのない色だった。


 強いて言えば、記憶の糸、とでも呼ぶべきものだ。


 その糸は、ほころび庵の奥——澄江さんの方へ、まっすぐ伸びていた。


「あの、突然すみません」


 男性は暖簾をくぐって、入り口で少し迷ってから言った。


「占いをお願いしたいというより……ここのお店の方に、お話を聞いていただきたくて」


 澄江さんが顔を上げた。


 いつものにこにこだった。でも私は知っている。澄江さんの目が、ほんの一瞬、何かを探るように細くなったことを。


「どうぞ、座ってください。お茶でも飲みながら」


 男性が座った。澄江さんが湯呑みを出した。私はカウンターの端で、二人を見ていた。


「祖母の遺品を整理していたんです」


 男性が言った。


「先月亡くなりまして。九十二歳でした。大往生だったんですが、遺品の中に日記が何冊か出てきて」


 澄江さんの手が、湯呑みを持ったまま、止まった。


「その日記に、この店の名前が書いてあったんです。ほころび庵、って。それで、まだ営業されているのかと思って、来てみました」


 沈黙があった。


 澄江さんは何も言わなかった。


 私は澄江さんを見た。笑顔は保っていた。でも顔色が、かすかに、白くなっていた。



 澄江さんがゆっくりと口を開いた。


「……お祖母様のお名前を、聞かせていただけますか」


「桐原幸子といいます」


 澄江さんが目を閉じた。


 一秒。二秒。三秒。


 目を開けたとき、笑顔は消えていた。


 四十年近くほころび庵に通って──

──いや、四年か。

でも私には、澄江さんの笑顔が消えたのを、初めて見た気がした。


「……幸子さんの、お孫さん」


 澄江さんが静かに言った。


「はい。孫の春翔といいます」


「そう」


澄江さんが湯呑みを置いた。


「幸子さんが……亡くなったのね」


「はい」


 また沈黙があった。今度は長かった。


 私は黙って、二人を見ていた。


 澄江さんの胸のあたりに、細い黒い糸があることに、私は気づいていた。ヘドロのような、美咲のりょうくんのような黒さじゃない。もっと古い、乾いた黒さの糸だ。長い年月をかけて、澄江さん自身が作り上げてきた糸だと、今日初めてわかった。


 自分を縛る糸は、他人から来るとは限らない。


 澄江さんが話し始めた。


 ぽつりぽつりと、まるで長い間鍵をかけていた場所の扉を、少しずつこじ開けるように。


「幸子さんが来てくださったのは、もう五十年以上前のことです。私がまだ二十代で、この店を始めたばかりのころ」


 春翔さんが黙って聞いていた。


「幸子さんは、好きな人がいると言って相談に来られました。その人と結ばれるべきかどうか、って。私は……」


 澄江さんが、一度、唇を結んだ。


「若かったんです。自信があったんでしょうね。霊感もないのに、水晶玉を覗いて、『この縁は本物です、背中を押してあげましょう』なんて言ってしまった」


 私は動かなかった。


「その後、幸子さんからしばらくして手紙が来ました。結婚したって。嬉しい報告で。でもその後、また手紙が来て——旦那さんに借金があったとか、他の女の人がいたとか、色々と、辛いことが続いていると」


 澄江さんの声が、少し揺れた。


「返事を書きました。何度も。でも、何年かして、手紙が来なくなった。どうしているかと思って、ここに来てくださるのを待っていたけれど、いらっしゃらなくて。それきりになってしまって」


 澄江さんが、はっきりと言った。


「私が背中を押してしまったから、幸子さんは苦労されたんだと、ずっとそう思ってきました。だから……謝りたかった。ずっと、謝りたかった」



 春翔さんが、鞄から一冊の古い日記を取り出した。


 表紙が日に焼けて、角が擦り切れていた。

長い年月を、誰かが大切に保管していた日記だった。


「これが、祖母の日記です。ほころび庵のことが書いてあったのは、この最初の方で」


 春翔さんがページをめくった。

澄江さんに向けて、そっと置いた。


 私はカウンターから降りた。


 日記が、目の前にある。


 春翔さんが開いたのは、中ほどのページだった。そこには確かに「ほころび庵」の文字と、澄江さんへの複雑な思いが書かれているのだろう。


 でも私は、糸を見ていた。


 日記から、糸が伸びていた。


 薄い銀色の、記憶の糸だ。それは最後のページの方へ向かっていた。


 私は肉球を動かした。


 日記のページを、そっとめくった。最後の方へ。一枚、また一枚。


「あっ、ムギ」


澄江さんが言った。


「いいですよ」


春翔さんが静かに言った。


「……実は、そっちを見てほしかったんです」


 最後から数ページのところで、私は肉球を止めた。


 春翔さんが、澄江さんに向けて日記を回した。


 澄江さんが、そのページを読んだ。


 私には文字は読めない。でも澄江さんの顔を見ていた。


 最初、強張っていた。次に、目が細くなった。それから、唇が震えた。


 澄江さんが泣いた。


 声は出さなかった。でも確かに泣いた。涙が一粒、テーブルの上に落ちた。



 しばらくして、春翔さんが静かに言った。


「祖母は、あの結婚を後悔していなかったそうです。苦労はした、でも、その結婚がなければ父も生まれなかった、自分も生まれなかったって、父から聞きました」


 澄江さんが何も言わなかった。


「日記の最後に書いてあったこと、読んでいただけましたか」


「……ええ」


「澄江さんに会いたかった、もう一度お礼が言いたかった、って書いてありました」


 澄江さんがまた目を閉じた。


「祖母はずっと、澄江さんが気にしているだろうと思っていたみたいです。だから孫の私に、もしほころび庵がまだあったら、行って伝えてほしいって」


 春翔さんが、少し照れたように言った。


「あの占いのおかげで、私はここにいますって」


 私はカウンターの上に戻って、窓の外を見た。


 十二月の商店街に、電球の光がともっていた。


 澄江さんが長い年月をかけて作り上げてきた、乾いた黒い糸。


 それが、今、音もなく、ほどけていくのが見えた。


 ガラスが割れるような派手さじゃなかった。美咲の黒い糸とは違う。ゆっくりと、するすると、まるで固く結ばれた結び目が時間をかけてほどけるように、静かに、消えていった。


 生前、私は言葉で人を救おうとしてきた。時に届いて、時に届かなくて、それでも止められなかった。


 猫になって、言葉をなくした。


 でも今日、私がしたのは、日記のページをめくっただけだ。


 言葉じゃなくても、できることがある。


 それを、また一つ、学んだ気がした。



 春翔さんが帰り際、「また来てもいいですか」と言った。


「もちろんですよ」


澄江さんが言った。


 笑顔だった。でも今日の笑顔は、少しだけ違った。


 鉄壁じゃなかった。隙間があった。その隙間から、温かいものが見えた。


 私はずっと、澄江さんの笑顔が鉄壁だと思っていた。何が来ても崩れない、強固な壁だと。


 でも違った。


 あれは壁じゃなかった。


 自分の言葉で誰かを傷つけることへの、深い、深い恐れだったのだ。だから踏み込まない。だから否定しない。だからただ、受け止める。


 霊感のない占い師が、四十年近くこの店を続けてこられた理由が、今日初めてわかった気がした。




 夜、店を閉めた後、澄江さんが私を膝に乗せた。


 いつもより、少し強く抱いた。


「ムギちゃん」


 澄江さんが言った。


「ありがとうね」


 私はそっぽを向いた。


 礼を言われるほどのことはしていない。日記のページをめくっただけだ。


 でも、澄江さんの膝は温かかった。


 私はそのまま、目を閉じた。


 商店街の電球が、窓の外でひっそりと光っていた。

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