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ほころび庵のムギ〜縁の糸が見える猫〜  作者: ゆも
第一章 ほころび庵へようこそ

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4/21

第3話:条件全部クリアなのに、なぜ幸せじゃないんでしょうか問題


 十二月に入って、商店街のアーケードに電球の飾りがついた。


 夕方になると橙色の光がともって、八百屋も鮮魚店も精肉店も、全部が少しだけよそ行きの顔になる。


私はその様子を窓から眺めながら、今日の糸の具合を確認する。これが日課だ。


 美咲を見かけたのは、その夕方だった。


 ピンクのマフラーは変わらない。

でも歩き方が違った。

あの男と一緒にいたころの、どこか足元を確かめるような歩き方じゃなく、商店街の電球を見上げながら、普通に、軽やかに歩いていた。


 胸から伸びる赤い糸は、あの日よりも太くなっていた。


 私は糸の先を目で追った。商店街をまっすぐ、八百屋の前を通り過ぎて……いや、待て。通り過ぎない。八百屋の店先で美咲が足を止めた。みかんを手に取って、値札を見て、それから顔を上げた。


 木村さんが出てきた。米俵を担ぐ腕で、みかんの入った袋を手渡した。何か言った。美咲が笑った。


 赤い糸が、ぴん、と張った。


 ……気のせいかもしれない。


 私は視線を窓の外から戻した。


 まあ、それはまだ先の話だ。今日の私には、別の仕事がある。




 ほころび庵に、A4の紙を持った女性が来たのは、その翌日だった。


 三十二、三歳だろうか。紺のトレンチコートに、革のトートバッグ。髪はきっちりまとめられている。見るからに仕事ができそうで、実際できるのだろうと思わせる種類の人間だ。


「恋愛相談、というか……婚活の相談なんですが」


 女性はカウンターに座るなり、持ってきたA4の紙をテーブルに広げた。


 私は目を細めた。


 紙には、表が作られていた。縦軸に名前イニシャル、横軸に年収・学歴・年齢・身長・趣味・コミュニケーション能力(五段階評価)・総合スコア。


 ……表だ。人間を評価する表だ。


「今、婚活アプリで何人かと並行してやり取りしてるんですが、なかなか決め手がなくて。客観的に見ていただこうと思って、データにまとめてきました」


 澄江さんが「まあ、丁寧ですねえ」と言った。褒めているのか困惑しているのか、にこにこしているので判断がつかない。


「Aさんは年収一千二百万で、外資系なんですが、メッセージが少し事務的で。Bさんは年収八百万なんですが、学歴が私より低くて、長期的に話が合うかどうか不安で。Cさんは条件は一番いいんですが、なんか……」


 女性が口を止めた。


「なんか?」


澄江さんが先を促した。


「なんか、一緒にいると疲れるんですよね。なんでですかね。条件は一番いいのに」


 私は糸を確認した。


 Aさん、Bさん、Cさん。写真を横に並べた女性の指先から、三人の方向へ糸を辿った。


 ……ない。


 三人とも、一本も繋がっていない。縁の糸は、意志や条件では動かない。どれだけ総合スコアが高くても、糸は正直だ。


 私はため息をついた。猫のため息は人間には聞こえないが、ついた。


 そして、女性の手元を見た。


 小指から、太い赤い糸が伸びていた。


 テーブルの上に広げたA4の表を横切って、トートバッグをすり抜けて、ほころび庵の壁を貫いて、どこか遠くへ。


 私は糸の方向を確認した。


 ……会社の方角だ。




「で、どう思いますか」


女性が澄江さんに聞いた。


「客観的に見て、やっぱりCさんが一番いいですかね。スコア的には」


「う〜ん」


澄江さんが水晶玉を覗いた。


「この中で、一番ほっとする方は?」


「ほっとする?」


女性が首を傾げた。


「そういう基準で考えたことなかったです。でも……」


 また口が止まった。


「でも?」


「職場に、なんか、すごくほっとする人がいるんですよね。関係ないですけど」


 来た。


 私は耳をぴんと立てた。


「同期なんですけど。なんか私が忙しいと、黙って缶コーヒー置いといてくれたりして。先週締め切りがやばかったとき、私より先に退社したと思ってたら、翌朝来たらデスクに『お疲れ様です、食べてください』ってコンビニのおにぎりとメモが置いてあって」


 女性が、ちょっと笑った。


「あの人、そういうとこあるんですよ。なんか、ほっとくれないっていうか。気づくと気にかけてくれてて。でも全然タイプじゃないんですよね、外見も年収も私の条件には入らないし、出世もそんなにしてなくて、正直パッとしないし」


 パッとしない、と言いながら、声が柔らかかった。


「なんか急に関係ない話しちゃいましたね、すみません」女性が咳払いをした。


「えっと、Cさんなんですが」


 私は動くことにした。


 女性のトートバッグは、椅子の背にかけてあった。ファスナーが少し開いている。


 私はカウンターから降りて、バッグに近づいた。鼻先をファスナーの隙間に差し込んだ。中を確認した。


 財布、手帳、ペンケース、折りたたみ傘、そして。


 くしゃっと折れた、コンビニのレシートほどの大きさの紙。


 私は肉球を差し込んで、引っ張り出した。


「あっ、ちょっと、ムギちゃん」


澄江さんが苦笑いした。


「え、何……」


女性がバッグを見た。


 紙がテーブルの上に落ちた。


 女性の顔色が変わった。


 手書きの文字で、こう書いてあった。


『締め切り終わったら、ちゃんとご飯食べてね。/田中』



 女性がその紙を見つめたまま、動かなくなった。


 十秒ほどの沈黙だった。


「……捨てられなかったんですよね」


 女性が静かに言った。


「なんでか捨てられなくて、ずっとバッグの中に入れたままで。自分でも気持ち悪いなと思って」


 私はテーブルの上に座って、女性を見た。


 小指の赤い糸は、今、真っ直ぐ張っていた。会社の方向へ。田中さんとかいう男の方向へ。


「その田中さんって方」


澄江さんがにこにこしながら言った。


「素敵な方なんですねえ」


「素敵かどうかはわからないです」


女性が即座に言った。


「パッとしないし、年収も私より低いし」


 でも、紙を丁寧に折りたたんだ。


「ただ……なんか、一緒にいると疲れないんですよ。Cさんとは、一緒にいると疲れるのに」


 私は前足を動かした。


 テーブルの上で、静かに、マルを作った。


「あっ」


澄江さんが声を上げた。


「ムギちゃんが丸を作った! 初めて見ました」


 女性が私を見た。


 私は澄江さんに向かってではなく、まっすぐ女性に向かって、もう一度、マルを作った。


 はっきりと。


 女性の目が、少し潤んだ。


「……猫に言われるとは思わなかった」


 彼女は小さく笑って、田中さんのメモを、今度は丁寧にトートバッグの内ポケットにしまった。


 外ポケットじゃなく、内ポケットに。



 女性が帰り際、テーブルの上のA4の表を見た。


 少し考えて、それを二つに折って、澄江さんに差し出した。


「これ、捨てていただいていいですか」


「よろしいんですか?」


「いいです」


女性がきっぱり言った。


「なんか、これ見てたら、大事なもの見えなくなりそうで」


 澄江さんがにこにこしながら受け取った。


 女性が出て行った後、澄江さんはその紙をゴミ箱に入れながら「ムギちゃん、今日は丸を作ったのね」と言った。


「珍しいこともあるものねえ」


 珍しくはない、と私は思う。ただ、マルを作る機会が、今まであまりなかっただけだ。


 私はバツを作ることの方が多い。黒い糸の方が、目につきやすいから。


 でも、赤い糸だって視える。


 ちゃんと、視えている。


 夕方、窓から外を見た。


 美咲が八百屋の前を通りかかった。木村さんが何か声をかけた。美咲が笑いながら振り返った。


 赤い糸が、また少し太くなった気がした。


 ……まあ、それはまだ先の話だ。


 今日はマルを一個作って、よく働いた。


 私は丸まって、目を閉じた。


 人間は、視えているものを見ない。


 節穴め、と思う。


 でも、気づいたときの顔が——


思いの外、悪くない。


 


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