第3話:条件全部クリアなのに、なぜ幸せじゃないんでしょうか問題
十二月に入って、商店街のアーケードに電球の飾りがついた。
夕方になると橙色の光がともって、八百屋も鮮魚店も精肉店も、全部が少しだけよそ行きの顔になる。
私はその様子を窓から眺めながら、今日の糸の具合を確認する。これが日課だ。
美咲を見かけたのは、その夕方だった。
ピンクのマフラーは変わらない。
でも歩き方が違った。
あの男と一緒にいたころの、どこか足元を確かめるような歩き方じゃなく、商店街の電球を見上げながら、普通に、軽やかに歩いていた。
胸から伸びる赤い糸は、あの日よりも太くなっていた。
私は糸の先を目で追った。商店街をまっすぐ、八百屋の前を通り過ぎて……いや、待て。通り過ぎない。八百屋の店先で美咲が足を止めた。みかんを手に取って、値札を見て、それから顔を上げた。
木村さんが出てきた。米俵を担ぐ腕で、みかんの入った袋を手渡した。何か言った。美咲が笑った。
赤い糸が、ぴん、と張った。
……気のせいかもしれない。
私は視線を窓の外から戻した。
まあ、それはまだ先の話だ。今日の私には、別の仕事がある。
ほころび庵に、A4の紙を持った女性が来たのは、その翌日だった。
三十二、三歳だろうか。紺のトレンチコートに、革のトートバッグ。髪はきっちりまとめられている。見るからに仕事ができそうで、実際できるのだろうと思わせる種類の人間だ。
「恋愛相談、というか……婚活の相談なんですが」
女性はカウンターに座るなり、持ってきたA4の紙をテーブルに広げた。
私は目を細めた。
紙には、表が作られていた。縦軸に名前、横軸に年収・学歴・年齢・身長・趣味・コミュニケーション能力(五段階評価)・総合スコア。
……表だ。人間を評価する表だ。
「今、婚活アプリで何人かと並行してやり取りしてるんですが、なかなか決め手がなくて。客観的に見ていただこうと思って、データにまとめてきました」
澄江さんが「まあ、丁寧ですねえ」と言った。褒めているのか困惑しているのか、にこにこしているので判断がつかない。
「Aさんは年収一千二百万で、外資系なんですが、メッセージが少し事務的で。Bさんは年収八百万なんですが、学歴が私より低くて、長期的に話が合うかどうか不安で。Cさんは条件は一番いいんですが、なんか……」
女性が口を止めた。
「なんか?」
澄江さんが先を促した。
「なんか、一緒にいると疲れるんですよね。なんでですかね。条件は一番いいのに」
私は糸を確認した。
Aさん、Bさん、Cさん。写真を横に並べた女性の指先から、三人の方向へ糸を辿った。
……ない。
三人とも、一本も繋がっていない。縁の糸は、意志や条件では動かない。どれだけ総合スコアが高くても、糸は正直だ。
私はため息をついた。猫のため息は人間には聞こえないが、ついた。
そして、女性の手元を見た。
小指から、太い赤い糸が伸びていた。
テーブルの上に広げたA4の表を横切って、トートバッグをすり抜けて、ほころび庵の壁を貫いて、どこか遠くへ。
私は糸の方向を確認した。
……会社の方角だ。
「で、どう思いますか」
女性が澄江さんに聞いた。
「客観的に見て、やっぱりCさんが一番いいですかね。スコア的には」
「う〜ん」
澄江さんが水晶玉を覗いた。
「この中で、一番ほっとする方は?」
「ほっとする?」
女性が首を傾げた。
「そういう基準で考えたことなかったです。でも……」
また口が止まった。
「でも?」
「職場に、なんか、すごくほっとする人がいるんですよね。関係ないですけど」
来た。
私は耳をぴんと立てた。
「同期なんですけど。なんか私が忙しいと、黙って缶コーヒー置いといてくれたりして。先週締め切りがやばかったとき、私より先に退社したと思ってたら、翌朝来たらデスクに『お疲れ様です、食べてください』ってコンビニのおにぎりとメモが置いてあって」
女性が、ちょっと笑った。
「あの人、そういうとこあるんですよ。なんか、ほっとくれないっていうか。気づくと気にかけてくれてて。でも全然タイプじゃないんですよね、外見も年収も私の条件には入らないし、出世もそんなにしてなくて、正直パッとしないし」
パッとしない、と言いながら、声が柔らかかった。
「なんか急に関係ない話しちゃいましたね、すみません」女性が咳払いをした。
「えっと、Cさんなんですが」
私は動くことにした。
女性のトートバッグは、椅子の背にかけてあった。ファスナーが少し開いている。
私はカウンターから降りて、バッグに近づいた。鼻先をファスナーの隙間に差し込んだ。中を確認した。
財布、手帳、ペンケース、折りたたみ傘、そして。
くしゃっと折れた、コンビニのレシートほどの大きさの紙。
私は肉球を差し込んで、引っ張り出した。
「あっ、ちょっと、ムギちゃん」
澄江さんが苦笑いした。
「え、何……」
女性がバッグを見た。
紙がテーブルの上に落ちた。
女性の顔色が変わった。
手書きの文字で、こう書いてあった。
『締め切り終わったら、ちゃんとご飯食べてね。/田中』
女性がその紙を見つめたまま、動かなくなった。
十秒ほどの沈黙だった。
「……捨てられなかったんですよね」
女性が静かに言った。
「なんでか捨てられなくて、ずっとバッグの中に入れたままで。自分でも気持ち悪いなと思って」
私はテーブルの上に座って、女性を見た。
小指の赤い糸は、今、真っ直ぐ張っていた。会社の方向へ。田中さんとかいう男の方向へ。
「その田中さんって方」
澄江さんがにこにこしながら言った。
「素敵な方なんですねえ」
「素敵かどうかはわからないです」
女性が即座に言った。
「パッとしないし、年収も私より低いし」
でも、紙を丁寧に折りたたんだ。
「ただ……なんか、一緒にいると疲れないんですよ。Cさんとは、一緒にいると疲れるのに」
私は前足を動かした。
テーブルの上で、静かに、マルを作った。
「あっ」
澄江さんが声を上げた。
「ムギちゃんが丸を作った! 初めて見ました」
女性が私を見た。
私は澄江さんに向かってではなく、まっすぐ女性に向かって、もう一度、マルを作った。
はっきりと。
女性の目が、少し潤んだ。
「……猫に言われるとは思わなかった」
彼女は小さく笑って、田中さんのメモを、今度は丁寧にトートバッグの内ポケットにしまった。
外ポケットじゃなく、内ポケットに。
女性が帰り際、テーブルの上のA4の表を見た。
少し考えて、それを二つに折って、澄江さんに差し出した。
「これ、捨てていただいていいですか」
「よろしいんですか?」
「いいです」
女性がきっぱり言った。
「なんか、これ見てたら、大事なもの見えなくなりそうで」
澄江さんがにこにこしながら受け取った。
女性が出て行った後、澄江さんはその紙をゴミ箱に入れながら「ムギちゃん、今日は丸を作ったのね」と言った。
「珍しいこともあるものねえ」
珍しくはない、と私は思う。ただ、マルを作る機会が、今まであまりなかっただけだ。
私はバツを作ることの方が多い。黒い糸の方が、目につきやすいから。
でも、赤い糸だって視える。
ちゃんと、視えている。
夕方、窓から外を見た。
美咲が八百屋の前を通りかかった。木村さんが何か声をかけた。美咲が笑いながら振り返った。
赤い糸が、また少し太くなった気がした。
……まあ、それはまだ先の話だ。
今日はマルを一個作って、よく働いた。
私は丸まって、目を閉じた。
人間は、視えているものを見ない。
節穴め、と思う。
でも、気づいたときの顔が——
思いの外、悪くない。




