第2話:その恋、本日未明に強制終了です
数日後の穏やかな午後。あのピンクのマフラーが商店街の入り口に見えた瞬間に、私はすぐに気づいた。
(ああ、戻ってきたか)と。
以前よりは随分と細くなってはいたものの、彼女の左肩には、未だに切れてはいない黒い糸が絡みついている。
だが、今回の本当の問題は、彼女のすぐ隣を歩いている男だった。
年齢は三十前後だろうか。細身で髪をきっちりと整えており、羽織っているコートも一目で上等だと分かるシロモノだ。一見すると、爽やかで感じのいい青年に見えるかもしれない。
けれど、私には男の全身から泥泥と垂れ下がる糸が、明確に視えていた。
黒い、なんてレベルではなかった。それはさながらヘドロだった。腐った沼の底から引き上げてきたような、異様な粘度を持つどす黒さで、引きずるように地面を這い回っている。
私は人間として生きていた二十八年間でも、これほど質の悪い、邪悪な糸を数えるほどしか見たことがない。
――これが、美咲の言う「運命の人」であり、あの『りょうくん』か。
私は静かに、キャットタワーの麻縄で爪を研いだ。
「す、すみません澄江さん、この間お邪魔した美咲です。彼が……その、どうしても一緒に来るって言い張って」
暖簾をくぐった美咲が、ひどく申し訳なさそうに身を縮こまらせた。
男は美咲の言葉を遮るように、無遠慮な視線で店内を見回した。あちこち色あせた赤いビロードのテーブルクロス、怪しげな水晶玉、ピン留めされたタロットのポスター。そのすべてを、小馬鹿にするように値踏みする。
「へえ、ここ?」
男が鼻で笑った。
「随分ボロい店だね」
澄江さんの竹ほうきを持つ手が、ほんの一瞬だけ止まった。
「ようこそいらっしゃいました。どうぞ、お掛けくださいねぇ」
澄江さんはいつものように、穏やかににこにこしたまま言った。どんな悪意も笑顔で受け止めてしまう。それが澄江さんの強さであり、同時に決定的な弱さでもあった。
男は勧められたパイプ椅子に、偉そうに深く足を組んでドカ座りした。
「ぶっちゃけ、霊感商法ってマジ勘弁してほしいわ。俺、こういうオカルトって一切信じないタプなんで」
「まあまあ」
澄江さんが温かいお茶の入った湯呑みを差し出す。
「っていうか美咲さぁ」
男は隣の美咲を不躾に顎でしゃくった。
「お前ホント騙されやすいよなー。頭が悪いっていうか。だからこんな怪しい店に引っかかるんだよ」
美咲が消え入りそうな小さな声で、「そんなことないよ……」と俯いた。
私は受付カウンターの端から、男をじっと凝視していた。
――糸が、本当にひどい。
美咲の左肩の黒い糸は、健気に男の方へと伸びている。しかし、男の右手から伸びている別の黒い糸は、美咲の心なんかこれっぽっちも向いていなかった。それはまっすぐに、美咲のカバンの中にある「財布」の方向を貪欲に睨みつけていた。
人間の糸は、その人間の本音を百パーセント具現化する。
男の糸は、ただの一本も美咲自身に向いていなかった。
男はポケットから、傷一つない最新型のスマートフォンを取り出すと、テーブルの上に無造作に放り出した。
私はそれを見た瞬間、(あ、ビンゴだ)と思った。
そのスマートフォンから、細い黒い糸が一本、美咲の方へ向かって卑しく伸びていたのだ。
糸は、人の執着が強ければ「物」にも宿る。あの最新型の端末は、間違いなく美咲のお金で買い与えられたものだ。
――証拠なら、目の前に転がっている。
「で? 何を聞きたいわけ?」
男はスマートフォンを片手でいじりながら言った。澄江さんの方も、隣の美咲の方も、一切見ていない。
「俺は別に相談なんてないから。こいつが何かつまんないこと聞きたいんでしょ」
「……彼のこと、もっと信じていいのかなって思って」
美咲が、絞り出すような声で言った。
「信じる信じないって、そういう大事なこと占いで決めちゃうわけ? なんかスピ入ってて怖いねー」
男がクスクスと鼻で笑った。
澄江さんがうーんと困ったように水晶玉を覗き込んでいる。
私は静かにカウンターから飛び降り、音もなくテーブルの真横まで歩み寄った。
そして、男の足元にそっと近づき、これまでの猫生の中で最大級に媚びを売った声で、可憐に鳴いてみせた。
「にゃあ〜お……」
虫唾が走るほどの屈辱だったが、背に腹は代えられない。
男が視線だけを冷淡に下に落とした。
「うわ、寄るなよ。汚ねえな、あっち行けよ」
私は構わず、すりすりと男のズボンの裾に身体を擦り付けた。それから前足を男の膝にちょこんと乗せ、できる限り無害な「可愛い猫ちゃん」の顔を作った。
「おや、猫ちゃん苦手ですか? ムギちゃん、おいで」
澄江さんが苦笑いしながら私を呼ぶ。
男が舌打ちをして、鬱陶しそうに私の身体を払いのけようとした――その瞬間、私は跳んだ。
電光石火の早業でテーブルの上に着地し、スマートフォンの画面に迷わず両前足を押し当てた。
男がさっき端末を操作したとき、私はその指の軌跡を文字通り血眼で盗み見ていたのだ。ロックの解除パターンは、左上から右下へ、L字に二回。
肉球を正確に滑らせると、カチリと小気味よい音を立てて画面が明るく光った。
「おい」
男の声が、一瞬で低く据わった。
「何してんだよ、その糞猫」
私は構わず、素早い猫パンチで画面をスワイプした。メッセージアプリを開き、直近で通知が来ていたグループトークを選択する。
グループ名は『リゾートメンバー』。
迷わず、タップ。
男がさっきまでスピーカーで音楽を流していたせいで、端末の音量は「最大」に設定されていた。それが、最大の勝機だった。
静まり返ったほころび庵の店内に、男のあの締まりのない下品な音声メッセージが、大音量で鳴り響いた。
『――あいつマジちょろいわ。ビジネスの準備資金って言えば、いくらでもカード切るし。今度の沖縄旅行、お前の分の航空券もあいつの金で決済したからな(笑)』
続けて、下品な女の笑い声。
『え、マジで? やばっ(笑) ほんと都合のいい女だよねー』
ほころび庵の空気が、一瞬で完全に凍りついた。
澄江さんが、ゆっくりと水晶玉から顔を上げた。その目は、いつもの仏のような優しさが完全に消え失せていた。
美咲は、テーブルの上のスマートフォンの一点を見つめたまま、ピクリとも動かなくなった。
男が慌てて立ち上がった。
「ちょ、待てよ美咲! これは違くて、その……!」
私はすかさず、スマートフォンを肉球でさらに奥へと全力で押し出した。
男が必死に手を伸ばしたが一歩遅い。私はスマートフォンをカウンターの端まで一気に滑らせ、最後にもう一押し、強烈な猫パンチを見舞った。
スマートフォンは、カウンターの裏の、大人の手では絶対に届かない狭い隙間へと、すとんと綺麗に落ちていった。
「この、畜生が……!」
男が般若のような顔で私を睨みつけたが、次の瞬間には、美咲に向かってハッと表情を切り替えた。
へらへらとした、いつもの「優しい彼氏」の笑顔だ。
私は、その笑顔の正体を嫌というほど知っていた。
前回、美咲が必死に庇っていた「彼なりの優しい理由」を語るときの、嘘塗れの顔だ。
「美咲、落ち着いて聞いて? あれはただの冗談、男同士のくだらない見栄だから。な?」
美咲は微動だにしない。
「俺がお前のこと、どれだけ特別に思ってるか知ってるだろ? 全部、俺たちの将来のためにやってることでさ――」
私は美咲の横顔を見つめた。
彼女の瞳が、微かに揺れている。
もし、数日前の美咲なら、この甘い言葉に縋って「そっか、私の勘違いだよね」と言い訳を受け入れていただろう。「私が彼を疑いすぎたんだ」と、自分を納得させていただろう。
男の言葉を、また涙と一緒に飲み込んでいたはずだ。
でも――。
「誤解だから。家帰ったらちゃんと説明するから、な?」
男が、美咲の華奢な肩に馴れ馴れしく手を置こうとした。
ビシッ、と激しい音が響いた。
美咲が、その手を思い切り振り払ったのだ。
静かに、けれど明確な拒絶を込めて。
「美咲……?」
美咲がゆっくりと顔を上げ、男を真っ直ぐに見据えた。
あの子は前回、私に向かって確かに言ったのだ。『本当は、分かっているんだよね』と。あのとき自ら絞り出した言葉が、数日間のあいだ、彼女の胸の奥で小さな種火のように消えずに灯り続けていたのだ。
今、その種火が、烈火となって燃え上がっていた。
「……同じ言葉、今までに何回聞いたかな」
美咲の声は、驚くほど静かだった。
「冗談だって。お前のためだって。誤解だって」
男が焦って口を開く。
「だから、話を――」
「もう、いい」
たった、四文字だった。
けれどその声は、今まで聞いたどの美咲の声とも違っていた。許しを請うような細い声でも、無理に虚勢を張った歪な声でもない。
ただただ静かで、どこまでも硬質な、自分の足で立つことを決めた人間の声だった。
男の顔が、一瞬で醜く歪んだ。逆上した男が、美咲に向かって乱暴に手を振り上げた。
――待ってました。
私は、天井近くの神棚の上の棚から、すでに完璧な助走をつけていた。
「シャーッッッ!!!!」
弾丸のように跳躍し、男の顔面のド真ん中に正確に着地。
そのまま、鼻頭と両頬に向けて、本日最高の本気の爪を鋭く突き立ててやった。
「ぎゃあああああああああっっっ!!!!」
男が悲鳴を上げて派手にのけぞる。私は空中で身を翻し、ビロードのテーブルの上へ軽やかに着地した。
その瞬間、ほころび庵の薄い壁の向こうから、凄まじい足音が響いてきた。
「澄江さん!? 大丈夫か!?」
勢いよく飛び込んできたのは、隣の八百屋の木村さんだった。その後ろには精肉店の店主、商店街組合の面々、そして――背後に控えていた、制服姿の二人の警察官。
「警察なら、ムギちゃんが暴れる前からもう呼んでおきましたよ!」
木村さんが力強く怒鳴った。どうやら、大音量の音声メッセージは、薄い壁を突き抜けて商店街の面々にも丸聞こえだったらしい。
男はカードの不正利用、および美咲への暴行未遂、そして自業自得の鼻の傷の手当てのために、ガッチリと警察官に両脇を固められて引きずられていった。
商店街の外へ消えていくその背中からは、情けない悲鳴だけが虚しく響いていた。
店内には、静寂が戻った。
美咲は、声を上げて泣いていた。肩を激しく震わせ、堰を切ったように、でもどこか清々しい涙を流していた。
澄江さんが黙って彼女の隣に座り、その背中にそっと、温かい手を添えた。余計な慰めの言葉なんて、何一つ言わなかった。
しばらくして、美咲がゆっくりと顔を上げた。
その目は真っ赤に腫れていたけれど、驚くほどすっきりとした、美しい大人の顔をしていた。
彼女は、カウンターの上から静かに見下ろす私に視線を向けた。
「猫ちゃん……」
私は黙って彼女を見返した。
「……ううん」
美咲は小さく、本当に愛おしそうに微笑んだ。
「占い師さん。……ありがとうございました」
私はフンと鼻を鳴らし、何事もなかったかのように前足の毛繕いを再開した。
お礼を言われる筋合いなんてない。私はただ、スマホを落として、クズの顔面に爪を立てただけだ。
最後に自分の意志で「もういい」と告げたのは、他の誰でもない、美咲自身だ。
あの強固だった黒い糸を、その手で跡形もなく粉砕したのも、美咲だ。
私はほんの少し、お節介なキッカケを差し出したおまけに過ぎない。
帰り際、美咲は商店街の入り口でもう一度振り返り、深く一礼した。
彼女の左肩をあれほど重く縛りつけていた黒い糸は、もう綺麗さっぱり消滅していた。
胸の奥に、ほんの髪の毛ほどの細い名残が一本だけ残っていたけれど、もう彼女を縛りつけるような力はどこにもない。風が吹けば切れるような代物だ。
代わりに。
彼女の胸のあたりから、新しく、鮮やかな細い赤い糸が一本、まっすぐに伸びていた。
まだ生まれたばかりの、頼りないほど繊細な糸だ。その先が一体どこの誰に繋がっているのか、今の私にはまだ分からない。
けれど、その糸はしっかりと、前を向いていた。
彼女の歩む、新しい未来の方角を、確かに指し示していた。
――うん、それで十分だ。
窓の外では、十一月の高い青空が広がっていた。
私はクッションの上で気持ちよさそうに丸くなり、喉を鳴らした。言葉が通じなくたって、この小さな肉球で、変えられる運命が確かにある。
商店街の路地を歩いていく美咲の後ろ姿には、もう迷いはなかった。




