第2話:その恋、本日未明に強制終了です
数日後の午後、あの女性が来た。
私はピンクのマフラーが商店街の入り口に見えた瞬間に気付いた。ああ、戻ってきたか、と。
細くはなっていたが切れてはいない黒い糸。
だが問題は、彼女の隣にいる男だった。
三十前後だろうか。細身で髪をきっちり整えていて、コートは高そうだ。一見すると感じのいい青年に見えるかもしれない。
でも私には男の全身から垂れ下がる糸が視えた。
黒い、どころではなかった。ヘドロだ。腐った沼の底から引き上げたような、粘度のある黒さで、引きずるように地面を這っていた。
私はこれほど質の悪い糸を、生前でも、数えるほどしか見たことがない。
これが、美咲の「運命の人」だという、りょうくん。
私は静かに、爪を研いだ。
「す、すみません澄江さん、この間来た美咲です。彼が……その、一緒に来るって言い張って」
暖簾をくぐった美咲が、申し訳なさそうに肩をすくめた。
男は美咲の言葉を遮るように店内を見回した。赤いビロードのテーブルクロス、水晶玉、タロットのポスター。その全部を、値踏みするような目で眺めた。
「へえ、ここ?」
男が言った。
「随分ボロいね」
澄江さんのほうきを持つ手が、一瞬止まった。
「ようこそいらっしゃいました。どうぞお座りください」
澄江さんはにこにこしたまま言った。
どんな言葉も笑顔で受け止める。それが澄江さんの強さでもあり、弱さでもある。
男は勧められた椅子に、足を組んで座った。
「霊感商法って、マジ勘弁してよ。俺、こういうの信じないんで」
「まあまあ」
澄江さんが湯呑みを出した。
「美咲もさ」
男は隣の美咲を顎でしゃくった。
「お前ホント騙されやすいよなー。だからこういう店に来ちゃうんだよ」
美咲が小さな声で「そんなことないよ」と言った。
私はカウンターの端で、男を見ていた。
糸が、ひどい。
美咲の左肩の黒い糸が、男の方へ向かって伸びている。そして男の右手から、別の黒い糸が伸びていた。それは美咲の方向ではなく、美咲の財布の方向を向いていた。
人間の糸は、その人間の本音を映す。
男の糸は、一本も美咲に向いていなかった。
男はポケットから、最新型のスマートフォンを取り出してテーブルに置いた。
私はそれを見た瞬間、あ、と思った。
そのスマートフォンから、細い黒い糸が一本、美咲の方へ伸びていた。
糸は物にも宿る。
人間の執着が強ければ、物にも糸がつく。あのスマートフォンは、美咲のお金で買われている。
証拠が、目の前にある。
「で、何を聞きたいんですか」
男がスマートフォンをいじりながら言った。
澄江さんの方も美咲の方も見ていない。
「俺は別に相談ないんで。こいつが何か聞きたいんでしょ」
「彼のこと、もっと信じていいのかなって思って」
美咲が小さな声で言った。
「信じる信じないって、そういうの占いで決めんの?なんか怖いね」
男が鼻で笑った。
澄江さんがうーんと水晶玉を覗き込んでいる。
私は静かにカウンターから降り、音もなくテーブルの横まで歩いた。
そして男の足元に近づき、できるだけ愛想よく、「にゃーお」と鳴いた。
猫生で最大級に媚びた声だったと思う。
屈辱だったが、仕方ない。
男が視線だけ下に落とした。
「うわ、寄るなよ。あっちに行け」
私はかまわずすり寄った。
前足を男の膝に乗せて、できるだけ無害な顔をした。
「猫が苦手なんですか? ムギちゃん、おいで」
澄江さんが苦笑いしながら私を呼んだ。
男が舌打ちして手を払いのけた瞬間、私は跳んだ。
テーブルの上に着地し、スマートフォンの画面に前足を乗せた。
男がさっきスマートフォンを操作したとき、私はその指の軌跡を見ていた。ロックの解除パターン。左上から右下へ、L字に二回。
前足を、動かすと画面が光った。
「おい」
男の声が一段低くなった。
「何してんだよ、猫」
私はかまわず、画面をスワイプした。
メッセージアプリ。グループトーク。
名前は「リゾートメンバー」。
タップ。
音量は、さっき男がスピーカーで音楽を流していたときのまま、最大だった事で、静かなほころび庵に、男の締まりのない声が響き渡った。
『あいつ(美咲)マジちょろいわ。ビジネスの資金って言えばいくらでもカード切るし。今度の沖縄旅行、お前の分の航空券もあいつの金で買ったからな(笑)』
続けて、女の笑い声。
『え、まじで? やば(笑) ほんとちょろいよね』
ほころび庵が、凍りついた。
澄江さんが水晶玉から顔を上げた。
美咲が、テーブルの一点を見つめたまま、動かなくなった。
男が立ち上がった。
「ちょ、待って、これは違くて」
私はスマートフォンをさらに奥へ押した。
男が手を伸ばしたが、私はスマートフォンをカウンターの端まで追いやり、最後にもう一押しした。
スマートフォンが、カウンターの裏の狭い隙間に、すとんと落ちた。
男が私を睨んだが、すぐに表情を切り替えた。
笑顔になった。
私はその笑顔を知っていた。
前回、美咲が話していた、「彼なりの理由」を語るときの顔だ。
「美咲、聞いて。あれは冗談で言っただけだから」
美咲が動かなかった。
「俺がお前のこと、どれだけ大事に思ってるか知ってるだろ。全部お前のためにやってることで」
私は美咲を見た。
美咲の顔が、微かに揺れた。
以前の美咲なら、ここで「そうかな」と思った。
「私が疑いすぎなのかな」と思った。
男の言葉を、また飲み込んだ。
でも。
「誤解だから。ちゃんと説明するから、な?」
男が美咲の肩に手を置こうとした。
美咲が、その手を払った。
静かに、でも確かに、払った。
「美咲?」
美咲が、男を見た。
前回、あの子は言った。「本当はわかってるんだよね」と。あのとき口に出した言葉が、ずっと彼女の中にあったはずだ。小さな炎みたいに、消えずに。
今、その炎が、静かに燃え上がっていた。
「同じ言葉、何回聞いたかな」
美咲が静かに言った。
「冗談だって。お前のためだって。誤解だって」
男が口を開いた。
「だから——」
「もういい」
たった三文字だった。
でも、その声は、今まで聞いたどの美咲の声とも違った。謝るときの細い声でも、気丈に振る舞うときの張り詰めた声でもなかった。
ただ、静かで、真っ直ぐな声だった。
自分で決めた人間の声だった。
男の顔が歪み、?そして手を上げた。
私は天井近くの棚から、すでに助走をつけていた。
「シャーッ!!!」
男の顔面に、正確に着地した。鼻頭に、本日最高の爪を立てた。
「ぎゃあああああっ!!!」
男がのけぞった。私は軽やかに着地した。
玉響堂の薄い壁の向こうで、足音がした。
「澄江さん!? 大丈夫か!?」
八百屋の木村さんだった。後ろに精肉店の店主、商店街組合の面々、そして制服を着た二人の警察官が控えていた。
「警察なら、もう呼びましたよ」木村さんが言った。
男は引きずられていった。カードの不正利用と、暴行未遂と、鼻の傷の手当てのために。
情けない声を上げながら、商店街の外へ消えていった。
美咲は泣いていた。声を出さずに、でも確かに泣いていた。
澄江さんが黙って隣に座って、背中に手を置いた。何も言わなかった。
しばらくして、美咲が顔を上げた。
目が赤かった。でも、どこかすっきりした顔だった。
彼女は私を見た。
「猫ちゃん」
私はカウンターの上から、彼女を見返した。
「……ううん」
美咲が小さく笑った。
「占い師さん。ありがとう」
私はフンと鼻を鳴らして、毛繕いを再開した。
ありがとう、と言われる筋合いはない。
スマートフォンを落として、爪を立てただけだ。
自分で「もういい」と言ったのは、美咲だ。
黒い糸を砕いたのも、美咲だ。
私はおまけに過ぎない。
美咲が帰り際、商店街をもう一度見回した。
美咲の左肩に絡みついていた黒い糸は、ほとんど消えていた。
胸の奥には髪の毛ほど細い一本だけ残っていたが、もう彼女を縛れる太さではなかった。
代わりに、胸のあたりから細い赤い糸が一本伸びていた。
まだ頼りないほど細い糸だった。
どこへ繋がっているのか、私にもわからない。
でも、前を向いていた。
それで十分だった




