第1話:その恋、九割九分アウトです。
十一月の商店街は、銀杏の葉が排水溝を詰まらせていた。
ほころび庵の前も例外ではなく、澄江さんが毎朝ほうきで掃いてる。ただ、昼には黄色い絨毯が復元されている。
私はその様子を窓から眺めながら、日課である、今日の糸の具合を確認する。
通勤途中のサラリーマン、赤い糸が三本。そのうち一本はずいぶん絡まっている。要注意。
小学生の女の子、白い糸が太くて温かい。いい家庭で育っている。
自転車で通り過ぎるおじいさん、金の糸が頭上にふわりと浮いている。守られてる人。長生きするだろう。
……でかい黒い糸。
私は目を細めた。
ほころび庵に向かって歩いてくる、二十代とおぼしき女性。黒いダウンコートに、ピンクのマフラー。見た目は普通だ。むしろ可愛い部類に入る。だがその左肩から引きずられるように垂れた黒い糸が、私にはどうにも気になった。
黒い糸は、執着と破滅の糸だ。
あの太さは、かなりまずい。
女性は迷いなく、ほころび庵の暖簾をくぐった。
「いらっしゃいませ〜」
澄江さんが水晶玉を磨きながら顔を上げた。
ほころび庵の内装は、昭和から時間が止まっている。赤いビロードのテーブルクロス、怪しげな水晶玉、壁に掛かったタロットのポスター。
澄江さん本人は霊感の類をまったく持っていないが、四十年近くこの商売を続けてきた経験と、人の話を聞く才能だけで、それなりに繁盛している。
私は最初、そのことを軽く見ていた。
でも今は少し違う考えを持っている。霊感がなくても、人の話をちゃんと聞ける人間は、案外少ない。澄江さんのにこにこした顔と相槌の上手さは、立派な才能だ。
問題は、肝心なところで踏み込めないことだが。
「えっと、恋愛相談なんですけど」
女性はカウンター越しに座り、マフラーをほどきながら言った。声が明るい。妙に明るい。
「もちろんですよ〜。どうぞ、ゆっくりお話しください」
澄江さんは水晶玉を覗き込みながら、うーんと唸った。
「う〜ん……そうですねえ、彼のことが好きなんですよねえ」
私は内心で叫んだ。澄江さん、そこじゃない。甘やかすな。
「はい!大好きです!」
「そうですよねえ〜」
駄目だ。澄江さんがお家芸の『全肯定モード』に入った。このまま行くと「信じてみましょう」という、地獄への片道切符にハンコを押すような着地になる。
四年間、この人の占いを横で見続けてきたから私にはわかる。澄江さんは優しすぎるのだ。
私は行動することにした。
カウンターをすたすたと歩き、女性の目の前まで来て、前足を動かした。
×。
×。
×。
「あっ、猫ちゃん!」
女性の顔がぱっと明るくなった。
「かわいい〜! 何してるの、お手?」
お手じゃない。バツだ。その男はバツだと爪を立てて言っている。
「ムギちゃんはね〜、賢いんですよ〜」
澄江さんが目を細めた。
「もしかして、背中を押してくれてるのかもしれませんね」
違う。
全然違う。
私は諦めて、テーブルの上のスマートフォンに向かって歩いた。画面には「りょうくん♡」という名前。最後のメッセージは三日前で、既読すらついていない。
私は肉球でスマートフォンをぐいと押し、その『三日間無視されている現実』が、彼女の視界の真ん中に来るように移動させた。ほら、見ろ。
「あっ、ムギちゃん、スマホ触っちゃ駄目よ〜」
澄江さんが苦笑いした。
「いいんですよ〜! かわいい!」
女性が笑った。
「ねえ、占い師さん。こういう場合、どうしたらいいんですかね。私からもっと歩み寄った方がいいですかね?」
これ以上どこに歩み寄るんだ?崖から飛び降りる気か。
私は黒い糸を見た。根元を辿ると、女性の心臓の近くにがっちりと食い込んでいる。これ以上この糸が太くなると、引き剥がすのに本人が相当消耗する。場合によっては、心ごと死ぬ。
澄江さんが口を開いた。
「そうですね〜、相手の方のこと、もう少し信じてみる、というのも……」
しまらない占いを強制終了させるため、私は澄江さんの湯呑みに肉球をかけた。
ごめん、澄江さん。
がしゃん、と派手な音がして、緑茶がビロードのクロスに広がった。
澄江さんが「あっ」と言って立ち上がり、台拭きを取りに奥へ行った。
女性と私が、二人きりになった。
私は女性を見た。女性が私を見た。
「……なんか、ずっと見てるね」
女性が小さく笑った。
猫の目で、どこまで伝わるかわからない。
でも人間として生きていたとき、目だけで伝わることがあると知っていた。
言葉より先に、目が何かを語ることがある。
女性の笑顔が、少しだけ揺れた。
「……ねえ」
彼女が静かに言った。
「私、本当は、わかってるんだよね」
私は動かなかった。
「うまくいってないって。でも、認めたくないから。認めたら終わりだから」
黒い糸が、わずかに細くなった気がした。
「台拭き取ってきたわよ〜、ごめんなさいね〜」
澄江さんが戻ってきた。
女性はすぐに笑顔を作った。
「大丈夫です、猫ちゃんかわいいし!」
でも、目が少し違った。
相談が終わって、女性が帰った。
澄江さんが「ムギちゃん、お茶こぼしちゃ駄目でしょ」と私の額を軽く指で押した。怒ってない。この人が本気で怒ることを、私はまだ見たことがない。
私は窓際に戻って、女性の後ろ姿を見送った。
商店街を歩いていく彼女の左肩の黒い糸は、まだある。
当然だ。たかだか三十分の占いで、どうにかなるものじゃない。
でも。
彼女は今日、口に出した。
「本当は、わかってるんだよね」と。
言葉にすることと、言葉にしないことは、全然違う。生前、私は学んだ、数少ない確かなことのひとつだ。言葉にした瞬間、勇気を出したら人は変われる。
今日の私にできたのは、お茶をこぼして、二人きりにして、まっすぐ目を見て、彼女が自分の言葉を口にする隙間を作っただけ。
伝わったかどうか、わからない。
次に彼女がどう動くか、わからない。
それでも、黒い糸はほんの少し細くなった。
窓の外では銀杏の葉が一枚、くるくると落ちていった。
言葉が通じなくても、できることはある。
たぶん。少しずつ。
彼女がまた来るかどうか、私にはわからない。
でも、黒い糸はまだここに繋がっている。
商店街の方角へ、細くしぶとく伸びたままだ。




