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ほころび庵のムギ〜縁の糸が見える猫〜  作者: ゆも
第一章 ほころび庵へようこそ

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2/21

第1話:その恋、九割九分アウトです。

 十一月の商店街は、銀杏の葉が排水溝を詰まらせていた。


 ほころび庵の前も例外ではなく、澄江さんが毎朝ほうきで掃いてる。ただ、昼には黄色い絨毯が復元されている。


 私はその様子を窓から眺めながら、日課である、今日の糸の具合を確認する。


 通勤途中のサラリーマン、赤い糸が三本。そのうち一本はずいぶん絡まっている。要注意。


 小学生の女の子、白い糸が太くて温かい。いい家庭で育っている。


 自転車で通り過ぎるおじいさん、金の糸が頭上にふわりと浮いている。守られてる人。長生きするだろう。


 ……でかい黒い糸。


 私は目を細めた。


 ほころび庵に向かって歩いてくる、二十代とおぼしき女性。黒いダウンコートに、ピンクのマフラー。見た目は普通だ。むしろ可愛い部類に入る。だがその左肩から引きずられるように垂れた黒い糸が、私にはどうにも気になった。


 黒い糸は、執着と破滅の糸だ。


 あの太さは、かなりまずい。


 女性は迷いなく、ほころび庵の暖簾をくぐった。


「いらっしゃいませ〜」


 澄江さんが水晶玉を磨きながら顔を上げた。


 ほころび庵の内装は、昭和から時間が止まっている。赤いビロードのテーブルクロス、怪しげな水晶玉、壁に掛かったタロットのポスター。


澄江さん本人は霊感の類をまったく持っていないが、四十年近くこの商売を続けてきた経験と、人の話を聞く才能だけで、それなりに繁盛している。


 私は最初、そのことを軽く見ていた。


 でも今は少し違う考えを持っている。霊感がなくても、人の話をちゃんと聞ける人間は、案外少ない。澄江さんのにこにこした顔と相槌の上手さは、立派な才能だ。


 問題は、肝心なところで踏み込めないことだが。


「えっと、恋愛相談なんですけど」


 女性はカウンター越しに座り、マフラーをほどきながら言った。声が明るい。妙に明るい。


「もちろんですよ〜。どうぞ、ゆっくりお話しください」




 澄江さんは水晶玉を覗き込みながら、うーんと唸った。


「う〜ん……そうですねえ、彼のことが好きなんですよねえ」


 私は内心で叫んだ。澄江さん、そこじゃない。甘やかすな。


「はい!大好きです!」


「そうですよねえ〜」


 駄目だ。澄江さんがお家芸の『全肯定モード』に入った。このまま行くと「信じてみましょう」という、地獄への片道切符にハンコを押すような着地になる。


四年間、この人の占いを横で見続けてきたから私にはわかる。澄江さんは優しすぎるのだ。


 私は行動することにした。

 カウンターをすたすたと歩き、女性の目の前まで来て、前足を動かした。


 ×。


 ×。


 ×。


「あっ、猫ちゃん!」


女性の顔がぱっと明るくなった。


「かわいい〜! 何してるの、お手?」


 お手じゃない。バツだ。その男はバツだと爪を立てて言っている。


「ムギちゃんはね〜、賢いんですよ〜」


澄江さんが目を細めた。


「もしかして、背中を押してくれてるのかもしれませんね」


 違う。


 全然違う。


 私は諦めて、テーブルの上のスマートフォンに向かって歩いた。画面には「りょうくん♡」という名前。最後のメッセージは三日前で、既読すらついていない。


 私は肉球でスマートフォンをぐいと押し、その『三日間無視されている現実』が、彼女の視界の真ん中に来るように移動させた。ほら、見ろ。


「あっ、ムギちゃん、スマホ触っちゃ駄目よ〜」


澄江さんが苦笑いした。


「いいんですよ〜! かわいい!」

女性が笑った。


「ねえ、占い師さん。こういう場合、どうしたらいいんですかね。私からもっと歩み寄った方がいいですかね?」


 これ以上どこに歩み寄るんだ?崖から飛び降りる気か。


 私は黒い糸を見た。根元を辿ると、女性の心臓の近くにがっちりと食い込んでいる。これ以上この糸が太くなると、引き剥がすのに本人が相当消耗する。場合によっては、心ごと死ぬ。


 澄江さんが口を開いた。


「そうですね〜、相手の方のこと、もう少し信じてみる、というのも……」


 しまらない占いを強制終了させるため、私は澄江さんの湯呑みに肉球をかけた。


 ごめん、澄江さん。


 


 がしゃん、と派手な音がして、緑茶がビロードのクロスに広がった。


 澄江さんが「あっ」と言って立ち上がり、台拭きを取りに奥へ行った。


 女性と私が、二人きりになった。


 私は女性を見た。女性が私を見た。


「……なんか、ずっと見てるね」


 女性が小さく笑った。


 猫の目で、どこまで伝わるかわからない。


 でも人間として生きていたとき、目だけで伝わることがあると知っていた。

 言葉より先に、目が何かを語ることがある。


 女性の笑顔が、少しだけ揺れた。


「……ねえ」


 彼女が静かに言った。


「私、本当は、わかってるんだよね」


 私は動かなかった。


「うまくいってないって。でも、認めたくないから。認めたら終わりだから」


 黒い糸が、わずかに細くなった気がした。


「台拭き取ってきたわよ〜、ごめんなさいね〜」


澄江さんが戻ってきた。


 女性はすぐに笑顔を作った。


「大丈夫です、猫ちゃんかわいいし!」


 でも、目が少し違った。




 相談が終わって、女性が帰った。


 澄江さんが「ムギちゃん、お茶こぼしちゃ駄目でしょ」と私の額を軽く指で押した。怒ってない。この人が本気で怒ることを、私はまだ見たことがない。


 私は窓際に戻って、女性の後ろ姿を見送った。


 商店街を歩いていく彼女の左肩の黒い糸は、まだある。


 当然だ。たかだか三十分の占いで、どうにかなるものじゃない。


 でも。


 彼女は今日、口に出した。


 「本当は、わかってるんだよね」と。


 言葉にすることと、言葉にしないことは、全然違う。生前、私は学んだ、数少ない確かなことのひとつだ。言葉にした瞬間、勇気を出したら人は変われる。


 今日の私にできたのは、お茶をこぼして、二人きりにして、まっすぐ目を見て、彼女が自分の言葉を口にする隙間を作っただけ。


 伝わったかどうか、わからない。


 次に彼女がどう動くか、わからない。


 それでも、黒い糸はほんの少し細くなった。


 

窓の外では銀杏の葉が一枚、くるくると落ちていった。


 言葉が通じなくても、できることはある。


 たぶん。少しずつ。


 彼女がまた来るかどうか、私にはわからない。


 でも、黒い糸はまだここに繋がっている。


商店街の方角へ、細くしぶとく伸びたままだ。





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