第9話:偽物の糸使い、商店街で散る
五月の連休明け、商店街に見慣れない看板が出た。
ほころび庵から三軒隣の、長らく空き店舗だった場所だ。シャッターに白い布が張られて、金色の文字でこう書いてあった。
『霊視鑑定・天命館 ―本物の霊能者による完全予約制―』
私はその看板を窓から眺めて、目を細めた。
金色の文字の趣味の悪さが、まず嫌だった。
でも、それより気になることがあった。
看板から、糸が伸びていた。
黒い糸だ。ヘドロのような、粘度のある黒さの糸が、看板の裏側から商店街の方向へ、べったりと這っていた。
建物や看板に糸が宿るのは、そこに強い執着がある証拠だ。
この看板を出した人間の、黒い執着が、すでに滲み出ていた。
天命館の男が最初にほころび庵に現れたのは、開店から三日後だった。
四十代くらい、長い黒髪を後ろで束ねて、黒いシャツに銀のアクセサリーをじゃらじゃらつけていた。
私は男を見た瞬間、糸を確認した。
霊能者の糸は、複雑に絡み合っていて、色が深い。本物を見たことがある。
この男の糸は、そのどちらでもなかった。
ごく普通の、薄い縁の糸が数本。それだけだ。
そして男の小指から、ヘドロのような黒い糸が伸びていた。看板と同じ色だった。人を食い物にしてきた人間の糸だ。
偽物だ。一目でわかった。
「霊感もないのに、よく続きましたね」
男が澄江さんに言った。
私は男の黒い糸を見た。
この糸は、放っておいても、そのうち自分に絡みつく。
そういう糸だ。
それから一週間で、天命館の評判が商店街に広まった。
悪い意味で。
八百屋の常連の主婦が、「悪い霊がついている、お祓いが必要」と言われて三万円を請求されたらしい。精肉店の田中さんの知人は、「特別な護符が必要」と言われて五万円。
木村さんが「あの店、おかしくないか」と組合で言い始めた。
でも証拠がなかった。
私はほころび庵の窓から、天命館の入り口を眺めていた。
男の黒い糸は、日を追うごとに太くなっていた。食い物にする相談者が増えるほど、糸は太くなる。でも同時に、男自身の小指にも絡みつき始めていた。
黒い糸は、最終的に自分を縛る。
私はそれを、ただ見ていた。
ある日、澄江さんの常連客が天命館に吸い込まれていくのを見た。
私は窓際で、じっと天命館の方を見た。
木村さんが通りかかって、私の視線に気づいた。
「ムギ、どうした。そっちが気になるか」
私は天命館の方を、もう一度まっすぐ見た。
木村さんが腕を組んだ。
「……そうだな。俺も気になってる」
木村さんが、組合の方へ歩いていった。
私が天命館ばかり見ていた日から、木村さんは何度か組合の人間と話していた。
梅雨の入り口、雨の日だった。
天命館に、四十代の女性が入っていくのを見た。肩から黒い糸が垂れていた。不安の糸だ。
私はほころび庵の窓から、天命館を見ていた。
私が天命館ばかり見ていた日から、木村さんは何度か組合の人間と話していた。
何を話しているのかは聞こえなかったが、みんな天命館の方を見ていた。
澄江さんが「ムギちゃん、どうしたの」と言った。
私は答えなかった。
ただ、天命館の方を見ていた。
しばらくして、天命館の窓が少し開いているのに気づいた。
雨の日に換気をしているらしかった。
私は、ほころび庵を出た。
澄江さんが「どこ行くの」と言った。
猫が外出することに、澄江さんは慣れている。
天命館の開いた窓から、音もなく入った。
入った瞬間、男の声が聞こえた。
「あなたの家に、怨霊の気配が視えます。息子さんは取り返しのつかないことになる。費用は今すぐ用意できる十万円でいい。さあ、息子の命と十万円、どちらが大事ですか」
女性が青ざめていた。
私は男の小指を見た。
黒い糸が、さらに太くなっていた。そして、男自身の体に、じわじわと絡みついていた。
この糸は、もう自分でほどけない。
私は棚の上に、音もなく乗った。
棚の端に、書類が積んであった。
私は書類の端に肉球を置いた。
少し、押した。
書類が、棚の端からずり落ちた。
バサバサと音を立てて、床に散らばった。
男が振り返った。
「なんだ、猫! どこから入った!」
男が手を振り払おうとした。
私は棚から飛び降りた。
着地の拍子に、男のデスクの上の水晶玉に肉球が当たった。
水晶玉がころころと転がって、デスクの端から落ちた。
パリン、と軽い音がした。
割れた破片が、床に散らばった。
「あ」女性が声を上げた。「ガラス……? 本物の水晶じゃなくて」
男の顔色が変わった。
一枚だけひらりと女性の足元へ滑ってきた。
女性がしゃがんで、拾い上げた。
「これ……領収書? キャバクラ、三十万円?」
女性が裏を返した。
男の字で、メモが書いてあった。
『大島様:息子の不登校に付け込めば、あと二十万は引っ張れる』
「あなた……私を、カモって言ったの?」
女性の顔が、怒りで真っ赤になった。
男が「違う、猫が散らかしただけだ、証拠にならない」と叫んだ。
そのとき、天命館の引き戸が開いた。
「警察なら、もう呼びましたよ」
木村さんだった。
後ろに、組合の面々と、制服を着た二人の警察官が控えていた。
「商店街の住民から、不当な高額請求をされたという被害届が複数出ています」警察官が言った。「詐欺の疑いで、署でお話を伺いましょう」
「待て、私は本物の霊能者だ! 触るな、呪われるぞ!」
男はじゃらじゃらした銀のアクセサリーを振り乱して暴れたが、警察官二人に両脇をがっちり固められた。
「これを見てください。裏に、私のことをカモと書いてあります」
警察官が領収書を確認した。
男は商店街の真ん中で、野次馬に囲まれながら、連行されていった。
天命館は、その日のうちにシャッターが閉まった。
金色の文字の看板は、雨で右端が剥がれ、みっともなく斜めに傾いたまま、誰にも直されなかった。
ほころび庵に戻ると、澄江さんが心配そうな顔をしていた。
「ムギちゃん、天命館に入ったの? 木村さんが見てたって」
私はそっぽを向いた。
「怪我はない?」
澄江さんが私を抱き上げて、確認した。
「よかった」
澄江さんが私を膝に乗せた。
「霊感もないのに、って言われたこと、少し傷ついていたから」
澄江さんが窓の外を見た。
「でも、木村さんたちが動いてくれた。商店街のみんなが、ずっと見ていてくれていたのね」
私は澄江さんを見た。
そうだ。
私がしたのは、棚から落ちて、水晶玉に当たっただけだ。
書類を床に散らかしただけだ。
木村さんたちは、私より前から動いていた。被害届も、警察への相談も、全部、商店街の人間たちがやっていた。
私はきっかけを作っただけだ。
それだけで、十分だった。
「ムギちゃん」澄江さんが続けた。「ありがとうね」
私は澄江さんの膝の中で、目を閉じた。
男の黒い糸は、今頃、完全に自分自身に絡みついているだろう。
そういう糸だ。
放っておいても、最後は自分に返ってくる。
私はそれを、少し早めただけかもしれない。
夕方、雨が上がった。
天命館のシャッターの前を、商店街の人々が普通に通り過ぎていった。
偽物の糸使いは去った。
あの男は糸を操っていたつもりだった。
だが、本当に操られていたのは、自分の黒い糸の方だった。
本物の糸は、今日もここにある。
木村さんと澄江さんの間に、温かいオレンジ色の糸が見えた。
商店街の人間たちが、今日、同じ方向を向いて動いた。
その糸が、生まれていた。
私は窓から、その糸をしばらく眺めた。
それだけで、十分だった。




