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ほころび庵のムギ〜縁の糸が見える猫〜  作者: ゆも
第二章 残された人たち

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10/21

第9話:偽物の糸使い、商店街で散る

 五月の連休明け、商店街に見慣れない看板が出た。


 ほころび庵から三軒隣の、長らく空き店舗だった場所だ。シャッターに白い布が張られて、金色の文字でこう書いてあった。


『霊視鑑定・天命館 ―本物の霊能者による完全予約制―』


 私はその看板を窓から眺めて、目を細めた。


 金色の文字の趣味の悪さが、まず嫌だった。


 でも、それより気になることがあった。


 看板から、糸が伸びていた。


 黒い糸だ。ヘドロのような、粘度のある黒さの糸が、看板の裏側から商店街の方向へ、べったりと這っていた。


 建物や看板に糸が宿るのは、そこに強い執着がある証拠だ。


 この看板を出した人間の、黒い執着が、すでに滲み出ていた。


 天命館の男が最初にほころび庵に現れたのは、開店から三日後だった。


 四十代くらい、長い黒髪を後ろで束ねて、黒いシャツに銀のアクセサリーをじゃらじゃらつけていた。


 私は男を見た瞬間、糸を確認した。


 霊能者の糸は、複雑に絡み合っていて、色が深い。本物を見たことがある。


 この男の糸は、そのどちらでもなかった。


 ごく普通の、薄い縁の糸が数本。それだけだ。


 そして男の小指から、ヘドロのような黒い糸が伸びていた。看板と同じ色だった。人を食い物にしてきた人間の糸だ。


 偽物だ。一目でわかった。


「霊感もないのに、よく続きましたね」


 男が澄江さんに言った。


 私は男の黒い糸を見た。


 この糸は、放っておいても、そのうち自分に絡みつく。


 そういう糸だ。




 それから一週間で、天命館の評判が商店街に広まった。


 悪い意味で。


 八百屋の常連の主婦が、「悪い霊がついている、お祓いが必要」と言われて三万円を請求されたらしい。精肉店の田中さんの知人は、「特別な護符が必要」と言われて五万円。


 木村さんが「あの店、おかしくないか」と組合で言い始めた。


 でも証拠がなかった。


 私はほころび庵の窓から、天命館の入り口を眺めていた。


 男の黒い糸は、日を追うごとに太くなっていた。食い物にする相談者が増えるほど、糸は太くなる。でも同時に、男自身の小指にも絡みつき始めていた。


 黒い糸は、最終的に自分を縛る。


 私はそれを、ただ見ていた。


 ある日、澄江さんの常連客が天命館に吸い込まれていくのを見た。


 私は窓際で、じっと天命館の方を見た。


 木村さんが通りかかって、私の視線に気づいた。


「ムギ、どうした。そっちが気になるか」


 私は天命館の方を、もう一度まっすぐ見た。


 木村さんが腕を組んだ。


「……そうだな。俺も気になってる」


 木村さんが、組合の方へ歩いていった。


 私が天命館ばかり見ていた日から、木村さんは何度か組合の人間と話していた。




 梅雨の入り口、雨の日だった。


 天命館に、四十代の女性が入っていくのを見た。肩から黒い糸が垂れていた。不安の糸だ。


 私はほころび庵の窓から、天命館を見ていた。


 私が天命館ばかり見ていた日から、木村さんは何度か組合の人間と話していた。


 何を話しているのかは聞こえなかったが、みんな天命館の方を見ていた。




 澄江さんが「ムギちゃん、どうしたの」と言った。


 私は答えなかった。


 ただ、天命館の方を見ていた。


 しばらくして、天命館の窓が少し開いているのに気づいた。


 雨の日に換気をしているらしかった。


 私は、ほころび庵を出た。


 澄江さんが「どこ行くの」と言った。


 猫が外出することに、澄江さんは慣れている。


 天命館の開いた窓から、音もなく入った。


 入った瞬間、男の声が聞こえた。


「あなたの家に、怨霊の気配が視えます。息子さんは取り返しのつかないことになる。費用は今すぐ用意できる十万円でいい。さあ、息子の命と十万円、どちらが大事ですか」


 女性が青ざめていた。


 私は男の小指を見た。


 黒い糸が、さらに太くなっていた。そして、男自身の体に、じわじわと絡みついていた。


 この糸は、もう自分でほどけない。


 私は棚の上に、音もなく乗った。


 棚の端に、書類が積んであった。


 私は書類の端に肉球を置いた。


 少し、押した。


 書類が、棚の端からずり落ちた。


 バサバサと音を立てて、床に散らばった。


 男が振り返った。


「なんだ、猫! どこから入った!」


 男が手を振り払おうとした。


 私は棚から飛び降りた。


 着地の拍子に、男のデスクの上の水晶玉に肉球が当たった。


 水晶玉がころころと転がって、デスクの端から落ちた。


 パリン、と軽い音がした。


 割れた破片が、床に散らばった。


「あ」女性が声を上げた。「ガラス……? 本物の水晶じゃなくて」


 男の顔色が変わった。


 一枚だけひらりと女性の足元へ滑ってきた。

 

女性がしゃがんで、拾い上げた。


「これ……領収書? キャバクラ、三十万円?」


 女性が裏を返した。


 男の字で、メモが書いてあった。


『大島様:息子の不登校に付け込めば、あと二十万は引っ張れる』


「あなた……私を、カモって言ったの?」


 女性の顔が、怒りで真っ赤になった。


 男が「違う、猫が散らかしただけだ、証拠にならない」と叫んだ。


 そのとき、天命館の引き戸が開いた。




「警察なら、もう呼びましたよ」


 木村さんだった。


 後ろに、組合の面々と、制服を着た二人の警察官が控えていた。


「商店街の住民から、不当な高額請求をされたという被害届が複数出ています」警察官が言った。「詐欺の疑いで、署でお話を伺いましょう」


「待て、私は本物の霊能者だ! 触るな、呪われるぞ!」


 男はじゃらじゃらした銀のアクセサリーを振り乱して暴れたが、警察官二人に両脇をがっちり固められた。


「これを見てください。裏に、私のことをカモと書いてあります」


 警察官が領収書を確認した。


 男は商店街の真ん中で、野次馬に囲まれながら、連行されていった。


 天命館は、その日のうちにシャッターが閉まった。


 金色の文字の看板は、雨で右端が剥がれ、みっともなく斜めに傾いたまま、誰にも直されなかった。



 ほころび庵に戻ると、澄江さんが心配そうな顔をしていた。


「ムギちゃん、天命館に入ったの? 木村さんが見てたって」


 私はそっぽを向いた。


「怪我はない?」


 澄江さんが私を抱き上げて、確認した。


「よかった」


 澄江さんが私を膝に乗せた。


「霊感もないのに、って言われたこと、少し傷ついていたから」


 澄江さんが窓の外を見た。


「でも、木村さんたちが動いてくれた。商店街のみんなが、ずっと見ていてくれていたのね」


 私は澄江さんを見た。


 そうだ。


 私がしたのは、棚から落ちて、水晶玉に当たっただけだ。


 書類を床に散らかしただけだ。


 木村さんたちは、私より前から動いていた。被害届も、警察への相談も、全部、商店街の人間たちがやっていた。


 私はきっかけを作っただけだ。


 それだけで、十分だった。


「ムギちゃん」澄江さんが続けた。「ありがとうね」


 私は澄江さんの膝の中で、目を閉じた。


 男の黒い糸は、今頃、完全に自分自身に絡みついているだろう。


 そういう糸だ。


 放っておいても、最後は自分に返ってくる。


 私はそれを、少し早めただけかもしれない。


 夕方、雨が上がった。


 天命館のシャッターの前を、商店街の人々が普通に通り過ぎていった。


 偽物の糸使いは去った。


 あの男は糸を操っていたつもりだった。


 だが、本当に操られていたのは、自分の黒い糸の方だった。



 

 本物の糸は、今日もここにある。


 木村さんと澄江さんの間に、温かいオレンジ色の糸が見えた。


 商店街の人間たちが、今日、同じ方向を向いて動いた。


 その糸が、生まれていた。


 私は窓から、その糸をしばらく眺めた。


 それだけで、十分だった。






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