第10話:朱音の話を、もう少しだけ
六月は、雨ばかりだった。
商店街のアーケードが雨を遮ってくれるから、店先の人間たちは傘をさす必要がない。でも、湿った空気は防げない。この季節の糸は、水分を含んでぼんやりする。輪郭が滲む。
私はほころび庵の窓で、雨を眺めることが多くなった。
彩音が来たのは、そういう六月の午後だった。
前に来たときより、少し顔が柔らかくなっていた。
三月に初めてここへ来たとき、彩音は張り詰めていた。長い時間をかけて溜め込んできたものを、やっと降ろしに来た、という重さがあった。今日はそれが少し軽くなっている。
でも、銀色の記憶の糸は、まだ震えていた。
「また来てしまいました」
彩音が少し笑いながら言った。
「澄江さんのお話が聞きたくて」
「いつでも来てください」
澄江さんがハーブティーを出した。
「あの日記を読んでから、私も朱音さんのことがずっと気になっていたから。彩音さんが持ってきてくれて嬉しかったわ」
彩音が座った。
私はカウンターの端で、彩音を見ていた。
妹だ。
双子の妹が三十代になっている。前回会ったときからそれほど経っていないのに、毎回そのことに驚く。自分が死んで、時間は流れ、彩音だけが年を取り続けている。
当然のことだ。でも、まだ慣れない。
「朱音さんはどんな子どもだったんですか?」
澄江さんが聞いた。
「手帳の文章を読んで、少し気になって」
彩音が少し考えた。
「変な子でしたよ」
彩音が笑った。
「小さいころから、人の後ろに『糸みたいなものが見える』って言っていて」
私は動かなかった。
「家族は最初、子どもの想像力だと思っていたんですけど、だんだん本気だとわかってきて。お母さんは怖がって、あまり話題にしなかった。私だけが、朱音の話を聞いていました」
「彩音さんは、信じていたんですね」
澄江さんが静かに言った。
「信じていました。だって、朱音が見えると言ったものが、いつも本当だったから」
彩音がハーブティーを両手で持った。
「私達が二十歳の頃、私の友達の恋愛相談に乗ったことがあって。友達には好きな人が二人いて、朱音が『こっちの人の方があなたに合っている』って言ったんです。友達は最初、違う方を選んだんですけど、結局うまくいかなくて、朱音が言った方と付き合って、今も一緒にいます」
澄江さんが「まあ」と言った。
「朱音はいつもそうでした。見えるから、黙っていられない。頼まれてもいないのに首を突っ込んで、お節介と言われて。でも、大体当たってた」
彩音が、少し遠くを見た。
「ただ、自分のことは、全然わからなかったみたいで」
「自分のこと?」
澄江さんが先を促した。
「朱音、ずっと一人だったんです」
彩音が言った。
「人の糸は見えても、自分の糸は見えないって言ってて。自分のことになると、途端に自信がなくなって、引っ込み思案になって」
窓の外を見た。
そうだった。
人の縁の糸は見えた。
中心にいる自分の糸だけは、どこをどう探しても見つけられなかった。自分の手から何が伸びているのか、最後までわからなかった。
「恋人は、いたんですか?」
澄江さんが聞いた。
「一人だけ」
彩音が答えた。
「二十五歳のころ、少しだけ。でも、その人の糸が別の人を向いているのが見えてしまって、自分から別れたって言ってました」
澄江さんが「つらいわね」と言った。
「そうなんです。見えすぎるのも、しんどいんだなって思って」
彩音がハーブティーを一口飲んだ。
「でも、朱音は後悔していなかったと思います。人の役に立てることが嬉しいって、いつも言っていたから。やり残したことはあっただろうけど、好きなことをして生きていたから」
好きなことをして生きていた。
私はその言葉を、静かに受け取った。
そうだろうか。
本当にそうだっただろうか。
やり残したことは、あった。
山ほどあった。
二十八年は短すぎた。
届けられなかった言葉が、まだどこかに残っている気がしていた。
でも。
彩音がそう言うなら、そういうことにしておこうと思った。
しばらく話して、彩音が急に黙った。
ハーブティーの湯気を見つめて、何かを考えていた。
「澄江さん」
彩音がゆっくり言った。
「朱音が死ぬ前日のこと、少し話してもいいですか」
「もちろん」
「朱音と喧嘩をしたんです」
彩音の声が、少し低くなった。
「大した喧嘩じゃないんですけど。朱音が私の就職のことに口を出してきて、私が『お節介はやめて』って言って。朱音が黙って、そのまま帰って。翌日、事故に遭って」
澄江さんが何も言わなかった。
「仲直りできなかった。ごめんって言えなかった。それが、四年間ずっと、引っかかっていて」
彩音の目が潤んでいた。
「朱音のことを考えるたびに、最後に怒った自分の顔が浮かんで。そんな顔で別れてしまったなって」
私は、カウンターから降りた。
彩音の足元まで歩いた。
彩音が私を見た。
私には言葉がない。
あの日のことを、私は覚えている。彩音が「お節介はやめて」と言った。朱音は黙って帰った。怒っていたかというと、怒っていなかった。ただ、少し寂しかった。
でも。
怒っていなかったということを、どうすれば伝えられるのか。
寂しかったけれど、彩音のことが大好きだったということを、どうすれば。
私は彩音の前に座って、まっすぐ彼女を見た。
目だけで、伝わるだろうか。
言葉が一番欲しい夜に、言葉がない。
彩音がしゃがんだ。
私と目線を合わせた。
「ねえ、ムギちゃん」
彩音が静かに言った。
「朱音に会えたら、何を言う?」
私は、彩音を見た。
何を言う。何を言えばいい。
ごめん、とは言わない。謝ることは何もない。
お節介はやめない。猫になってもやめていない。
それが朱音という人間の、どうしようもない性分だった。
ありがとう、は言いたい。信じてくれていた妹に。一番近くで話を聞いてくれていた妹に。
あなたのことが好きだった。今も、好きだ。
でも、そのどれも、声にならない。
私は前足を伸ばした。
彩音の手の甲に、そっと乗せた。
肉球の温度が伝わればいい。それだけでいい。言葉がなくても、温度は伝わる。
彩音が、泣いた。
声を出して、泣いた。
「……会いたいな、朱音」
私は、前足を動かさなかった。
ただ、彩音の手の上に置いたままにした。
澄江さんが黙って、彩音の背中に手を置いた。
六月の雨が、ほころび庵の屋根を静かに叩いていた。
彩音が帰り際、目を拭きながら言った。
「すっきりした。なんかずっと、誰かに言えなかったから」
「いつでも来てください」
澄江さんが言った。
「はい」
彩音が私を見た。
「ムギちゃんも、ありがとう」
彩音がそっと私の頭を撫でた。
私は、今日は目を細めた。
彩音が出て行った。
澄江さんが窓から彩音の後ろ姿を見送りながら言った。
「仲がよかったのね、姉妹」
私は答えなかった。
窓の外、雨の中を歩いていく彩音の背中に、銀色の糸があった。
でも今日は、震えていなかった。
彩音の背中から伸びる銀色の糸の先が、窓際の私の方へ向いていた。
それが何を意味するのか、私にはわからない。
でも、不思議と嫌な気はしなかった。
伝わったかどうかは、わからない。
言葉は届けられなかった。
でも、肉球の温度は、届いたかもしれない。
それでいい。
今日は、それで、十分だ。
雨が、少し弱くなっていた。




