第11話:五十年分の、白い糸
七月に入って、商店街に夏が来た。
アーケードの外では入道雲が育ち、鮮魚店の前には氷の入った発泡スチロールが並んで、八百屋のスイカが店先に転がり始めた。
私はほころび庵の窓で、夏の糸を確認していた。
夏の糸は、少し騒がしい。人間が外に出る季節は、糸が交差する回数が増える。絡まったり、ほどけたり、新しく繋がったりが、冬より忙しい。
鮮魚店の磯田さんが来たのは、そういう七月の朝だった。
磯田キヨさんは、七十八歳だった。
商店街で一番古い店のひとつ、磯田鮮魚店を五十年以上、夫の正一さんと二人で切り盛りしてきた人だ。朝は誰より早く市場に行って、夜は誰より遅く店を閉める。小柄で、日焼けして、声が大きい。商店街の人間なら誰でも知っている顔だ。
でも今日は、声が小さかった。
暖簾をくぐるときも、いつものキヨさんじゃなかった。肩が落ちていた。
私は糸を確認した。
白い糸が見えた。
血の縁の糸だ。でも、今まで見てきた白い糸とは少し違った。五十年をかけて編み上げられた白い糸は、太くて、複雑に絡み合っていて、それ自体がひとつの布のようだった。
その糸の先は、病院の方向を指していた。
「キヨさん、どうしたんですか」
澄江さんが立ち上がった。
「顔色が」
「澄江ちゃん」
キヨさんが言った。
「正一が、倒れたんだよ」
澄江さんが「まあ」と言った。
今日の「まあ」は、いつもと違う色だった。
「脳梗塞だって。先週。今は病院にいるけど、意識は戻って、リハビリもしてるって言うんだけど」
キヨさんが椅子に座った。小さな体が、さらに小さく見えた。
「後遺症が残るかもしれないって言われて。右手に、しびれがあるって。正一、ずっと右手で魚を捌いてきたんだよ。それが、もしかしたら、もう」
キヨさんが口を閉じた。
澄江さんが黙って、お茶を出した。
私はカウンターから降りて、キヨさんの足元に座った。
白い糸が、病院の方へ真っ直ぐ伸びていた。五十年分の糸だ。切れていない。細くもなっていない。ただ、今日は糸の色がいつもより薄かった。不安で、薄くなっていた。
「正一さんと、長いですねえ」
澄江さんが静かに言った。
「五十三年だよ」
キヨさんが言った。
「二十五のときに結婚して、ずっと二人でやってきた。子どもも独立して、今は二人きりで」
「喧嘩はしますか?」澄江さんが聞いた。
キヨさんが少し笑った。
「毎日してたよ、昔は。あの人、頑固だから。私も頑固だから。毎朝、市場で言い合いして、毎晩、仲直りして」
「今は?」
「今は」
キヨさんが少し考えた。
「喧嘩しなくなったねえ。言わなくてもわかるようになってきたから。目を見れば、何考えてるかわかる」
澄江さんがにこにこした。
「それは、すごいことですよ」
「そうかねえ」
キヨさんが湯呑みを持った。
「でも、言わなくてもわかるようになったころに、倒れちゃったから。もっと言葉にしておけばよかったかなって、今になって思って」
私は、キヨさんを見た。
もっと言葉にしておけばよかった。
その言葉が、胸のあたりに刺さった。
言葉がある人間でも、言葉にしないことがある。言葉を持っていても、使わないまま終わることがある。
猫になって言葉をなくした私より、ずっとたくさんの言葉を持っているのに。
「正一さんは、今、話せますか?」
澄江さんが聞いた。
「話せる。少し呂律が回りにくいけど、話せる」
「じゃあ、言えますよ」
澄江さんが穏やかに言った。
「まだ、言える」
キヨさんが澄江さんを見た。
「五十三年分、言いたいことが多すぎて、何から言えばいいかわからなくて」
「一つでいいんじゃないですか」
澄江さんが言った。
「一番言いたいことを、一つだけ」
キヨさんが黙った。
長い沈黙だった。
私はキヨさんの白い糸を見ていた。
病院の方向へ伸びる糸が、さっきより少しだけ色を取り戻していた。澄江さんの言葉で、不安が少し薄らいだのかもしれない。
でも、キヨさんはまだ迷っていた。
何を言えばいいか、わからないでいた。
私はカウンターに戻って、澄江さんの棚を確認した。
澄江さんが相談者に時々渡す、小さなメモ帳がある。「気持ちを書いてみましょう」と言って渡すやつだ。
私はそのメモ帳を、肉球でそっと押した。
カウンターの端から、キヨさんの前へ、すべらせた。
キヨさんがメモ帳を見た。
「ムギちゃん、気が利くわね」
澄江さんが微笑んだ。
「キヨさん、よかったら。声に出すのが難しければ、書いてみてもいいかもしれない」
キヨさんが、メモ帳を手に取った。
澄江さんがペンを差し出した。
キヨさんが少し考えて、書いた。
澄江さんには見えたと思う。私には文字は読めない。
でも、キヨさんの白い糸が、書いている間、少しずつ色を戻していくのが見えた。薄くなっていた白が、元の、温かい白に戻っていく。
キヨさんがペンを置いた。
メモ帳を閉じた。
「これを、持っていきます」
キヨさんが言った。
「今日、面会に行くから」
「いってらっしゃい」
澄江さんが言った。
夕方、店を閉める前に、キヨさんが戻ってきた。
朝とは全然違う顔をしていた。
「言えたよ」
キヨさんが言った。
「読んでもらった。正一、泣いてた。あんな人が泣くの、五十三年で初めて見た」
澄江さんが「よかった」と言った。
目が少し潤んでいた。
「『あんたの捌いた魚が、世界一好きだよ』って、それだけ書いたんだ。そしたらあの人、不自由な右手を動かして、私の手をぎゅって握ってさ……」
「私も泣いた。二人でわんわん泣いた。看護師さんに心配されちゃって」
キヨさんが笑った。
朝のキヨさんじゃなかった。声が大きくなっていた。肩が上がっていた。
「澄江ちゃん、ありがとうね。それと」
キヨさんが私を見た。
「ムギちゃんも。メモ帳、ありがとうよ」
私はそっぽを向いた。
メモ帳を押しただけだ。礼を言われるほどのことはしていない。
「照れてる」
キヨさんが笑った。
「かわいいねえ」
かわいくない。
でも、キヨさんの白い糸が、夕方の光の中で、温かく輝いていた。
五十年分の白い糸は、今日も切れていなかった。
それだけで、十分だった。
キヨさんが帰った後、澄江さんが言った。
「言葉にするって、大事ね」
私は窓の外を見た。
夏の夕暮れの商店街に、人が行き交っていた。
言葉にすること。
キヨさんは五十三年、言わなくてもわかるようになったと言った。それでも、言葉にしてよかったと、今日の顔が言っていた。
言葉がある人間は、言葉を使った方がいい。
私のように、なくしてから気づいても、遅いから。
でも、なくしても、できることはある。
メモ帳を一冊、押すだけでも。
肉球の温度を、届けるだけでも。
澄江さんが私の隣に座って、一緒に窓の外を見た。
「正一さん、元気になるといいわね」
私は目を細めた。
磯田鮮魚店の方向に、白い糸が伸びていた。 病院へ続く白い糸は、夕暮れの光の中で静かに輝いていた。
五十三年分の糸は、今日も切れていない。
それだけで、十分だった。
夏の夕暮れが、商店街を橙色に染めていた。




