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ほころび庵のムギ〜縁の糸が見える猫〜  作者: ゆも
第二章 残された人たち

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12/21

第11話:五十年分の、白い糸


 七月に入って、商店街に夏が来た。


 アーケードの外では入道雲が育ち、鮮魚店の前には氷の入った発泡スチロールが並んで、八百屋のスイカが店先に転がり始めた。


 私はほころび庵の窓で、夏の糸を確認していた。


 夏の糸は、少し騒がしい。人間が外に出る季節は、糸が交差する回数が増える。絡まったり、ほどけたり、新しく繋がったりが、冬より忙しい。


 鮮魚店の磯田さんが来たのは、そういう七月の朝だった。


 磯田キヨさんは、七十八歳だった。


 商店街で一番古い店のひとつ、磯田鮮魚店を五十年以上、夫の正一さんと二人で切り盛りしてきた人だ。朝は誰より早く市場に行って、夜は誰より遅く店を閉める。小柄で、日焼けして、声が大きい。商店街の人間なら誰でも知っている顔だ。


 でも今日は、声が小さかった。


 暖簾をくぐるときも、いつものキヨさんじゃなかった。肩が落ちていた。


 私は糸を確認した。


 白い糸が見えた。


 血の縁の糸だ。でも、今まで見てきた白い糸とは少し違った。五十年をかけて編み上げられた白い糸は、太くて、複雑に絡み合っていて、それ自体がひとつの布のようだった。


 その糸の先は、病院の方向を指していた。


「キヨさん、どうしたんですか」


澄江さんが立ち上がった。


「顔色が」


「澄江ちゃん」


キヨさんが言った。


「正一が、倒れたんだよ」


 澄江さんが「まあ」と言った。

今日の「まあ」は、いつもと違う色だった。


「脳梗塞だって。先週。今は病院にいるけど、意識は戻って、リハビリもしてるって言うんだけど」


 キヨさんが椅子に座った。小さな体が、さらに小さく見えた。


「後遺症が残るかもしれないって言われて。右手に、しびれがあるって。正一、ずっと右手で魚を捌いてきたんだよ。それが、もしかしたら、もう」


 キヨさんが口を閉じた。


 澄江さんが黙って、お茶を出した。


 私はカウンターから降りて、キヨさんの足元に座った。


 白い糸が、病院の方へ真っ直ぐ伸びていた。五十年分の糸だ。切れていない。細くもなっていない。ただ、今日は糸の色がいつもより薄かった。不安で、薄くなっていた。




「正一さんと、長いですねえ」


澄江さんが静かに言った。


「五十三年だよ」


キヨさんが言った。


「二十五のときに結婚して、ずっと二人でやってきた。子どもも独立して、今は二人きりで」


「喧嘩はしますか?」澄江さんが聞いた。


 キヨさんが少し笑った。


「毎日してたよ、昔は。あの人、頑固だから。私も頑固だから。毎朝、市場で言い合いして、毎晩、仲直りして」


「今は?」


「今は」


キヨさんが少し考えた。


「喧嘩しなくなったねえ。言わなくてもわかるようになってきたから。目を見れば、何考えてるかわかる」


 澄江さんがにこにこした。


「それは、すごいことですよ」


「そうかねえ」


キヨさんが湯呑みを持った。


「でも、言わなくてもわかるようになったころに、倒れちゃったから。もっと言葉にしておけばよかったかなって、今になって思って」


 私は、キヨさんを見た。


 もっと言葉にしておけばよかった。


 その言葉が、胸のあたりに刺さった。


 言葉がある人間でも、言葉にしないことがある。言葉を持っていても、使わないまま終わることがある。


 猫になって言葉をなくした私より、ずっとたくさんの言葉を持っているのに。


「正一さんは、今、話せますか?」


澄江さんが聞いた。


「話せる。少し呂律が回りにくいけど、話せる」


「じゃあ、言えますよ」


澄江さんが穏やかに言った。


「まだ、言える」


 キヨさんが澄江さんを見た。


「五十三年分、言いたいことが多すぎて、何から言えばいいかわからなくて」


「一つでいいんじゃないですか」

澄江さんが言った。


「一番言いたいことを、一つだけ」




 キヨさんが黙った。


 長い沈黙だった。


 私はキヨさんの白い糸を見ていた。


 病院の方向へ伸びる糸が、さっきより少しだけ色を取り戻していた。澄江さんの言葉で、不安が少し薄らいだのかもしれない。


 でも、キヨさんはまだ迷っていた。


 何を言えばいいか、わからないでいた。


 私はカウンターに戻って、澄江さんの棚を確認した。


 澄江さんが相談者に時々渡す、小さなメモ帳がある。「気持ちを書いてみましょう」と言って渡すやつだ。


 私はそのメモ帳を、肉球でそっと押した。


 カウンターの端から、キヨさんの前へ、すべらせた。


 キヨさんがメモ帳を見た。


「ムギちゃん、気が利くわね」


澄江さんが微笑んだ。


「キヨさん、よかったら。声に出すのが難しければ、書いてみてもいいかもしれない」


 キヨさんが、メモ帳を手に取った。


 澄江さんがペンを差し出した。


 キヨさんが少し考えて、書いた。


 澄江さんには見えたと思う。私には文字は読めない。


 でも、キヨさんの白い糸が、書いている間、少しずつ色を戻していくのが見えた。薄くなっていた白が、元の、温かい白に戻っていく。


 キヨさんがペンを置いた。


 メモ帳を閉じた。


「これを、持っていきます」


キヨさんが言った。


「今日、面会に行くから」


「いってらっしゃい」


澄江さんが言った。



 夕方、店を閉める前に、キヨさんが戻ってきた。


 朝とは全然違う顔をしていた。


「言えたよ」


キヨさんが言った。


「読んでもらった。正一、泣いてた。あんな人が泣くの、五十三年で初めて見た」


 澄江さんが「よかった」と言った。

目が少し潤んでいた。


「『あんたの捌いた魚が、世界一好きだよ』って、それだけ書いたんだ。そしたらあの人、不自由な右手を動かして、私の手をぎゅって握ってさ……」


「私も泣いた。二人でわんわん泣いた。看護師さんに心配されちゃって」


 キヨさんが笑った。


 朝のキヨさんじゃなかった。声が大きくなっていた。肩が上がっていた。


「澄江ちゃん、ありがとうね。それと」


 キヨさんが私を見た。


「ムギちゃんも。メモ帳、ありがとうよ」


 私はそっぽを向いた。


 メモ帳を押しただけだ。礼を言われるほどのことはしていない。


「照れてる」


キヨさんが笑った。


「かわいいねえ」


 かわいくない。


 でも、キヨさんの白い糸が、夕方の光の中で、温かく輝いていた。


 五十年分の白い糸は、今日も切れていなかった。


 それだけで、十分だった。



 キヨさんが帰った後、澄江さんが言った。


「言葉にするって、大事ね」


 私は窓の外を見た。


 夏の夕暮れの商店街に、人が行き交っていた。


 言葉にすること。


 キヨさんは五十三年、言わなくてもわかるようになったと言った。それでも、言葉にしてよかったと、今日の顔が言っていた。


 言葉がある人間は、言葉を使った方がいい。


 私のように、なくしてから気づいても、遅いから。


 でも、なくしても、できることはある。


 メモ帳を一冊、押すだけでも。


 肉球の温度を、届けるだけでも。


 澄江さんが私の隣に座って、一緒に窓の外を見た。


「正一さん、元気になるといいわね」

私は目を細めた。


 磯田鮮魚店の方向に、白い糸が伸びていた。 病院へ続く白い糸は、夕暮れの光の中で静かに輝いていた。


 五十三年分の糸は、今日も切れていない。


 それだけで、十分だった。


 夏の夕暮れが、商店街を橙色に染めていた。


 

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