第12話:祭りの夜に、一人だけ
─────七月の夜
商店街の夏祭りは、毎年七月の最終土曜日に開かれる。
アーケードに提灯が下がって、各店が軒先に屋台を出して、子どもから老人まで浴衣姿が行き交う。
磯田さんは正一さんの退院を祝って今年は特別に大きなイカ焼きを焼いていて、木村さんは美咲と並んで冷やしトマトを売っていた。
ほころび庵も、澄江さんが小さな提灯を軒先に飾った。
私は窓から、祭りの夜の糸を眺めていた。
夏祭りの糸は、特別だ。
浮かれた夜は、糸が緩む。
赤い糸が交差する回数が増えて、金の糸が輝いて、白い糸が温かくなる。
人間が素直になりやすい夜だ。
だから私は、この夜が少し好きだった。
そして、だからこそ。
その相談者の糸が、余計に目についた。
暖簾をくぐったのは、祭りの賑わいが最高潮の、夜八時過ぎだった。
二十代後半だろうか。浴衣ではなく、地味なグレーのワンピースを着ていた。髪を下ろして、化粧は薄い。祭りの喧騒から逃げ込んできたような顔をしていた。
糸を確認した。
透明に近い糸だけが、ぼんやりと揺れていた。
孤独の糸だ。
人と人との間に縁がなくなると、糸は透明に近づいていく。この女性の糸は、ほとんど透明だった。
でも、完全には透明になっていなかった。
かろうじて、見える。
それはまだ、誰かと繋がりたいという気持ちが残っている証拠だと、私は思っている。
「いらっしゃいませ」
澄江さんが顔を上げた。祭りの夜も、澄江さんは店を開けている。
「こういう夜に来る人の方が、本当に困っている人だから」というのが理由だ。
女性が少し驚いた顔をした。
「開いてて、よかった」
小さな声だった。
「どうぞ、座ってください」
女性が座った。
店の外から、祭りの音が聞こえてきた。
太鼓の音、笑い声、子どもの歓声。
その賑やかさが、この女性の静けさを余計に際立たせた。
「相談というか、ただ、誰かと話したくて。来てしまいました」と女性が言った
澄江さんが「それで十分ですよ」と言った。
「祭り、嫌いなんですか?」
澄江さんが穏やかに聞いた。
「嫌いじゃないです。ただ、一人だと、来づらくて」
「一人暮らしですか?」
「はい。この街に越してきて、まだ半年で。知り合いも少なくて」
澄江さんがハーブティーを出した。
「仕事は?」
「リモートワークなので、ほとんど家にいて。スーパーとコンビニ以外、あまり外に出なくて」
女性が湯呑みを持った。
「今日、祭りの音が聞こえてきて、窓から見てたんです。みんな楽しそうで。でも、一人で行く勇気が出なくて。そしたら、この店の提灯が見えて、なんとなく入ってしまいました」
「お名前、聞いていいですか」
澄江さんが言った。
「日向芹奈、です」
「芹奈さん」
澄江さんが繰り返した。
「いい名前ね」
芹奈さんが、少し照れた。
透明の糸が、ほんの少しだけ、動いた気がした。
私はカウンターの端で、芹奈さんを見ていた。
澄江さんが話を聞いていた。芹奈さんが、少しずつ話していた。
窓の外で、祭りの光が揺れていた。
私は窓と、芹奈さんを、交互に見た。
澄江さんが私の視線に気づいた。
目が合った。
澄江さんが少し考えて、芹奈さんに言った。
「よかったら、外でお茶しませんか。今夜だけ、外に席を出しているので」
芹奈さんが少し驚いた顔をした。
「いいんですか?」
「もちろん。こういう夜は、外で見た方が、祭りが綺麗だから」
三人で、軒先のテーブルに座った。
私も当然、ついていった。芹奈さんの膝の上に、遠慮なく乗った。
「わあ」
芹奈さんが言った。
「外から見ると、全然違う」
提灯の橙色、浴衣の色とりどり、イカ焼きの煙、太鼓の音。祭りが目の前に広がっていた。
芹奈さんの透明の糸が、光の中で、かすかに揺れていた。
そのとき、声がした。
「澄江さん、今夜は外かい!」
磯田キヨさんだった。
イカ焼きを二本持って、通りかかったところだった。
「お客さんにも、どうぞ。今年は特別に大きく焼いたんだよ」
キヨさんが芹奈さんを見た。笑顔だった。
「あら、若い子。祭り、楽しんでる?」
「あ、はい、ええと」
芹奈さんが少し戸惑った。
「遠慮しないで食べなさい。うちのイカ焼きは五十年の味だから」
キヨさんがイカ焼きを芹奈さんの手に押しつけて、行ってしまった。
芹奈さんが、イカ焼きを持ったまま、少し呆然としていた。
それから、一口食べた。
「おいしい」
「でしょう」
澄江さんが笑った。
しばらくして、冷やしトマトを売り終えた美咲が、木村さんと一緒に通りかかった。
「澄江さん、今夜は外ですか」
美咲が言った。それから芹奈さんを見た。
「こんばんは」
「こんばんは」
芹奈さんが、少しぎこちなく答えた。
「浴衣じゃないんですね」
美咲が言った。
「私も最初の年、一人で来られなくて。商店街の人に引っ張り出してもらったんです」
芹奈さんが美咲を見た。
「来年は、一緒に来ませんか」
美咲が笑った。
「浴衣で」
芹奈さんが、少し目を丸くした。
「私、この辺りに越してきたばかりで、知り合いがほとんどいなくて」
「私もそうだったんですよ。でも、この商店街って、気づいたら居場所になってるんです。不思議なんですけど」
木村さんが「そうだな」と頷いた。
二人がまた祭りの中へ戻っていった。
芹奈さんが、その後ろ姿を見ていた。
太鼓の音が遠くなってきたころ、芹奈さんが言った。
「来てよかったです」
「また来てください」
澄江さんが言った。
「祭りじゃなくても、開いてるから」
「はい」
芹奈さんが私を見た。
「ムギちゃんも、いますよね」
私はそっぽを向いた。
いる。毎日いる。
「なんか、看てくれてる気がして」
芹奈さんが言った。
「猫なのに」
澄江さんが「そうでしょう」と笑った。
芹奈さんが帰り際、商店街をもう一度見回した。
提灯の光の中、まだ人が行き交っていた。
「来年は浴衣で来たいな」
芹奈さんが小さく言った。
来年、という言葉だ。
半年前に越してきて、知り合いもいなくて、今夜一人で窓から祭りを眺めていた人が、来年という言葉を口にした。
私は芹奈さんの糸を確認した。
透明だった糸の中に、淡い色が灯っていた。
何色なのか、まだ私にもわからなかった。
今まで見てきた糸の色とは、少し違う。赤でも白でも金でも銀でもない。
ただ、孤独の色ではなかった。
それだけは、確かだった。
澄江さんが提灯を片付けながら言った。
「来年、浴衣で来てくれるといいわね」
私は夜の商店街を見た。
祭りの光が、少しずつ消えていく。
でも芹奈さんの糸は、さっきより確かに色づいていた。
まだ何色かわからない、でも孤独ではない、その糸が、商店街の方へ、ほんの少し伸び始めていた。
夏の夜が、静かに更けていった。
芹奈さんは、もう俯くことなく商店街の光の中へ歩いていった。
胸元の糸はまだ細かった。
でも、もう透明ではなかった。
来年の夏までには、どんな色になるのだろう。
私は提灯の残り火を眺めながら、少しだけ楽しみにした。




