第13話:息子の糸
八月の半ば、澄江さんに手紙が来た。
郵便受けから取り出した封筒を見た瞬間、澄江さんの手が止まった。私は窓から見ていたから、わかった。
封筒を持ったまま、澄江さんはしばらく動かなかった。
それから、奥の部屋に入った。
私はそっとついていった。
澄江さんが封筒を開けた。便箋が一枚。短い文章だった。澄江さんが読んだ。
読み終えて、便箋をテーブルに置いた。
澄江さんの白い糸が、今日は普段より複雑に絡まっていた。血の縁の糸が、遠くへ遠くへ、細く伸びていた。
息子だ、と私は思った。
澄江さんに息子がいることは、知っていた。
四年間、一度も会いに来なかった。澄江さんも、話題にしなかった。ほころび庵に来る常連客は澄江さんの身の上をある程度知っているようだったが、私の前では誰も息子の話をしなかった。
ただ、糸を見れば、わかる。
澄江さんの白い糸の中に、一本だけ、遠くへ伸びている糸があった。細くて、でも切れていない。時々、その糸が震えることがあった。特に、夜。
その糸が今日、便箋一枚で動いていた。
「ムギちゃん」
澄江さんが言った。
「健二が、来るって」
翌週の日曜日、健二さんが来た。
四十代前半だろうか。背が高くて、澄江さんの面影があった。でも、澄江さんと違って、笑顔が少なかった。
糸を確認した。
白い糸が、澄江さんの方へ伸びていた。太い。でも、絡まっていた。長い年月をかけて、複雑にもつれた糸だ。
そして、もう一本。
健二さんの胸のあたりから、別の糸が伸びていた。
薄い黒だった。
ヘドロのような、美咲のりょうくんのときの黒さじゃない。もっと古い、乾いた黒さだ。澄江さんが長年抱えていたものと、同じ種類の黒だった。
自分を縛る糸。
澄江さんと健二さんが、同じ種類の糸を持っていた。
「久しぶりね」
澄江さんが言った。
「ああ」
健二さんが言った。
二人が向かい合って座った。私はカウンターの端で、二人を見ていた。
澄江さんがお茶を出した。健二さんが受け取った。
しばらく、沈黙があった。
親子の沈黙だ。言いたいことが多すぎて、どこから言えばいいかわからない種類の沈黙。
「仕事は?」澄江さんが先に口を開いた。
「まあまあだ」
健二さんが言った。
「会社、少し落ち着いてきた」
「そう。よかった」
また沈黙。
「店は?」
健二さんが聞いた。
「変わらずよ。常連さんが来てくれるから」
「そうか」
二人の白い糸が、絡まったまま、震えていた。
お茶を半分飲んだところで、健二さんが言った。
「母さん、俺、ずっと言えなかったことがあって」
澄江さんが顔を上げた。
「父さんが死んだとき、母さんが店を続けることに、反対したよな」
澄江さんが「ええ」と静かに言った。
「俺は、あのとき、母さんに店を畳んで欲しかった。父さんが死んで、母さんまで失ったら困るって思ってたから」
健二さんが湯呑みを置いた。
「でも母さんは、続けた。それが、ずっと引っかかってて。俺より店を選んだって、思ってた」
澄江さんが何も言わなかった。
「大人げないのはわかってる。もういい歳だし、母さんの人生だし。でも、ずっと言えなくて、それで連絡もしづらくなって」
健二さんが少し俯いた。
「なんで今日、来たかというと」
健二さんが顔を上げた。
「商店街で詐欺師が捕まったって、木村さんから聞いて。母さんが狙われてたって。それで、なんか、急に怖くなって」
澄江さんの目が、少し潤んだ。
「健二」
「心配してる。それだけ言いたくて、来た」
また沈黙があった。
「……健二、ごめんね」
澄江さんが、ぽつりと言った。
「あのとき、お父さんが死んで、私は頭が真っ白で……。店を心配する常連さんの言葉に縋るしかなくて、あなたを傷つける言葉を言ってしまった。私の言葉が足りなかったせいで、寂しい思いをさせたわね」
澄江さんの黒い糸が、強く震えた。
何かを思い出しているのだろう。
また沈黙があった。
今度は、さっきとは違う沈黙だった。
言いたいことを言った後の、静かな沈黙。
でも、まだ足りない気がした。
澄江さんの薄い黒い糸が、まだほどけていなかった。健二さんの黒い糸も、まだ残っていた。
二人とも、まだ言えていないことがある。
私はカウンターから降りた。
澄江さんの棚を見た。
澄江さんが相談者に見せるタロットカードがある。澄江さん自身は霊感で読むわけではないが、カードを見ながら話すと、相談者が話しやすくなる、という使い方をしている。
私は適当にカードの束を引っ掻いた。
一枚が滑り出た。
澄江さんと健二さんが、カードを見た。
「星のカードね」
澄江さんが少し笑った。
タロットの星は、希望と再生の札だ。
澄江さんは霊感で読まないが、四十年の経験でカードの意味は知っている。
「ムギちゃんが引いた」
澄江さんが小さく笑った。
偶然出てきたのは星のカードだった。
健二さんがカードを見た。それから私を見た。
「この猫、変わってるな」
「変わってるわよ」
澄江さんが言った。
「でも、大体当たるの」
健二さんが、少し笑った。
初めて見た、健二さんの笑顔だった。
澄江さんの笑顔に、似ていた。
「母さん、俺、また来ていいか」
と健二さんが言った。
澄江さんが「もちろん」と言った。今度は、声が少し震えていた。
「今度は、ちゃんと連絡してから来る」
「連絡なんてしなくていい。いつでも来なさい」
健二さんが頷いた。
健二さんが帰った後、澄江さんが長い息をついた。
私はカウンターの上で、澄江さんを見た。
澄江さんの黒い糸が、ほどけていた。
完全にではない。
でも、さっきより確かに薄くなっていた。健二さんの黒い糸も、帰り際には少し薄らいでいた。
一度では、四十数年分のわだかまりはほどけない。
でも、始まった。
私は窓の外を見た。
八月の夕暮れが、商店街を橙色に染めていた。
澄江さんの白い糸の中の、遠くへ伸びていた一本が、今日は少し、こちらへ向かっていた。
息子の糸が、戻り始めていた。
それだけで、十分だった。




