第14話:横取りは、猫が許さない(ムギ無双回)
九月に入って、商店街に金木犀の香りが漂い始めた。
どこに植わっているのか見当たらないのに、秋になると必ずこの香りがする。
私は毎年それが不思議で、でも猫になってからは、鼻が良くなったせいか、商店街の裏の空き地に一本だけある金木犀の木を特定した。
誰も気づいていない場所で、毎年ひっそりと咲いている。
そういう、目立たないけれど確かにある、という存在が、私は嫌いじゃない。
桐原春翔が来たのは、そういう九月の昼下がりだった。
前回、来たときより、少し大人になっていた。
あのときはまだ就活を終えたばかりの、スーツに着られているような頼りない顔をしていたが、今日は社会人の垢が少しついて、精悍な顔つきになっている。
私はカウンターの端から、彼の糸を確認した。
赤い糸が、一本。細いが、芯があって真っ直ぐだ。
でも、その美しい糸の根元に、ねっとりとした別の糸が絡みついていた。
薄い黒——いや、泥のような濁った灰色だ。
「いらっしゃい、春翔さん」
澄江さんが顔を上げた。すっかり顔なじみの笑顔だ。
「澄江さん、こんにちは」
春翔が律儀に頭を下げた。
「ムギさんも、お久しぶりです」
ムギさん、という呼び方は春翔だけだ。最初から私を人間と同等に扱っている。
悪い気がしないどころか、少し誇らしい。
「今日はどうしたんですか?」
澄江さんが温かいハーブティーを出した。
「相談があって」
春翔が耳まで真っ赤にして、少し照れた。
「その……恋愛の、相談です」
「まあ! どんな方ですか?
澄江さんが我が事のように嬉しそうに言った。
「職場の先輩なんですが」
春翔が言った。
「同じ部署で、一年上で。仕事がすごくできて、でも、さばさばしてて、僕みたいな新人の話も真剣に聞いてくれて。一緒にいると、すごく落ち着くんです」
恋心を語るにつれて、彼の赤い糸がぽうっと優しく輝いた。
「ただ、問題があって……」
春翔の顔が、急激に曇った。
「最近、うちの会社に他社からヘッドハンティングされて入ってきた男がいて。その男が、彼女に猛アタックしているんです」
「どんな人なんですか、その方は」
澄江さんが聞いた。
「外資系から転職してきた、三十五歳のシニアマネージャーです。欧州車に乗っていて、見た目もモデルみたいに良くて、話も上手くて、年収は僕の数倍……」
春翔が完全に気後れして俯いた。
「正直、僕なんかじゃ、足元にも及ばないハイスペックなんです」
「先輩は、その方のことをどう思っているんでしょう?」
「それがわからなくて。ただ、仕事の立場上、断りにくいみたいで、ランチに誘われたりしていて……。でも、なんか、その男が嫌なんです。うまく言えないんですが、言葉の端々に棘があるというか、人間を『品定め』しているような、信用できない感じがして」
私は春翔の赤い糸に絡みついた、濁った灰色の糸をじっと見つめた。
糸を辿る。その出所は、春翔自身の嫉妬や猜疑心ではなかった。
どこか遠く、彼の会社の方向から伸びて、春翔の縁の糸を意図的に締め付け、絡め取ろうとしている。外から押し付けられた「悪意」の糸だ。
この糸の色、そして他人の心をじわじわと侵食していく不快な感覚は、以前、叩き潰した霊感商法の詐欺師の糸に、酷く酷く似ていた。
自己顕示欲の塊で、人を操ることに長けた人間の糸だ。
春翔の「なんか信用できない」という直感は、百パーセント正しい。
─────その時だった。
ほころび庵の引き戸が、乱暴にガラガラと音を立てて開いた。
夏の残りの熱気と共に、香水の匂いを漂わせて入ってきた男がいた。
三十代半ば。仕立ての良い高級スーツを着こなし、髪を完璧にセットしている。
顔立ちは確かに整っているが、薄い唇が傲慢そうに歪んでいた。
男は狭い店内を見回し、春翔の姿を捉えると、わざとらしく目を見開いた。
「おや、桐原くんじゃないか。奇遇だね、こんな寂れた路地裏の占いの店にいるなんて」
男はそう言いながら、春翔の許可も得ずにその隣の椅子を引き、我が物顔で腰掛けた。
奇遇、なわけがない。男の胸元から伸びる灰色の糸は、明確な意志を持って春翔を追ってきたのだ。
おそらく、週末に春翔がどこへ行くのか、あらかじめ探りを入れて尾行してきたのだろう。
休日にわざわざマウンティングを仕掛けに来る執念深さに、私は内心で呆れ果てた。
「どうぞ、座ってください」
澄江さんがいつも通りの穏やかな声で男に椅子を勧めた。
男は澄江さんを一瞥すると、小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「ああ、失礼。私は成瀬といいます。桐原くんの上司……と言っても、彼のような新人の面倒を直接見る立場ではありませんがね。今日はちょっとした『お遊び』のつもりで立ち寄らせてもらいました」
「どんなご相談ですか?」
澄江さんがお茶を出しながら尋ねる。成瀬はその湯呑みに触れようともせず、足を組んでポケットから最新型のスマートフォンを取り出し、机に置いた。
「恋愛相談、ですかね」
成瀬は滑らかな声で、確信に満ちた口調で言った。
「今、職場で狙っている女が一人いまして。仕事ができて、さばさばしていて、私のパートナーにふさわしい。まあ、すでに外堀は埋めてあるので、落とすのは時間の問題なんですが。今日はその『答え合わせ』に来たんですよ」
春翔の身体が、怒りと屈辱で小刻みに震え始めた。
成瀬はそれを見て愉しむように、さらに言葉を重ねる。
「ただね、彼女の周りに、分をわきまえない羽虫のような男がまとわりついていてね。大した学歴もなく、年収も私の足元にも及ばない若造が、健気にアプローチしているのが滑稽で。ねえ、占い師さん。こういう『スペック的に勝負にならないガキ』を、一瞬で諦めさせる良い方法は無いですかね?」
成瀬はあからさまに春翔を横目で睨みつけ、鼻で笑った。
春翔は拳を握りしめ、顔を真っ赤にして唇を噛み締めている。
私はカウンターの上から成瀬の糸を凝視した。
絶句した。この男から伸びる赤い糸は、なんと三本もあった。そしてそれぞれが、全く違う方向の女性へと伸びている。春翔の想い人である「先輩」への糸は、そのうちのたった一本。しかも、最も細く、濁っている。
本気でも何でもない。ただのトロフィー(戦利品)として、彼女を自分のコレクションに加えようとしているだけだ。
そして何より、この男は今、スマートフォンで「誰か」とリアルタイムで連絡を取り合っていた。画面がこちらを向いた瞬間、私はすべてを察した。
成瀬は、春翔を精神的に追い詰めるための「決定打」を放とうとしていた。
「ほら、桐原くん。君がどれだけ惨めな現実を突きつけられているか、見せてあげよう」
成瀬はそう言って、スマートフォンの画面をわざと春翔の方へ向けて机に置いた。そこには、複数の女性とのチャット画面が並んでいた。
男の油断。それが最大の隙だ。
私はカウンターから、音もなくテーブルへと飛び降りた。
「おっと、なんだこの野良猫は」
成瀬が顔を顰める。
構うものか。
私は成瀬の手が動くより早く、鋭い爪を一本だけ突き出し、画面のスクロールバーを高速でスワイプした。肉球ではない、爪による正確な操作だ。
開かれたのは、先輩女性である「さきちゃん♡」とのチャット画面。そこには、成瀬が送信しようとしていた【下書きメッセージ】がデカデカと表示されていた。
春翔の目が、そして澄江さんの目が、その画面に釘付けになる。
『今日、例の占い屋で桐原と鉢合わせたわ。予想通りダサい店にいた。あいつの目の前でさきちゃんを口説く相談をして、現実を教えてやるよ。どうせガキはスペック負けして勝手に諦める。そしたら来週の沖縄旅行、予定通り行こうね。もちろん費用は全額俺持ち(笑)あ、そういえば先週の合コンで知り合ったみほって子も沖縄行きたいってうるさくてさ〜(笑)』
ほころび庵の中が、凍りついたように静まり返った。
「な……ッ!?」
成瀬の顔から、一気に血の気が引いた。
「おい、何を勝手に……!」
「読みました」
澄江さんの声が、いつもと違っていた。
低く、地響きのような迫力があった。
顔は微笑んでいるが、目は一切笑っていない。
四十年の修羅場をくぐってきた占い師の、鉄壁の威圧感だ。
「しっかり、読ませていただきましたよ」
「返せ!」
成瀬が慌ててスマートフォンを掴もうと手を伸ばした。
させるわけがない。
私は成瀬の手が届く直前、前足の肉球でスマートフォンを思いきりスライドさせた。
パシィィン! と良い音が響き、スマートフォンは滑るようにテーブルを駆け抜け——カウンターの裏にある、あの「開かずの隙間」へと、すとんと綺麗に落ちて消えた。
前回の時と、全く同じ、完璧なホールインワンだ。
「あっ! おい! 俺のスマホをどこへやった! 弁償しろ!」
成瀬が椅子を蹴立てて立ち上がり、私を捕まえようと怒号を上げた。
「まあまあ」
澄江さんがその体躯の間に、すっと割って入った。小柄な身体からは想像もつかない重圧で成瀬を押し返す。
「当店での暴れ行為は、猫であっても許しませんよ」
その時、店の引き戸が再び開いた。
「澄江さん、頼まれてた今朝の新鮮なキュウリ、持ってきたよ——」
八百屋の木村さんだった。
米俵を軽々と担ぐ百八十センチの巨体が、怒り狂う成瀬と、怯まない澄江さん、そして呆然とする春翔の姿を捉えた。
木村さんは二秒で状況を察し、成瀬をギロリと睨みつけた。
「おい、あんた。うちの澄江さんに何か用かい?」
丸太のような腕を組んだ木村さんの威圧感は、本物の熊のようだった。
成瀬は木村さんと澄江さんの迫力に完全に呑まれ、ガチガチと歯を鳴らした。
「い、いや……失礼した。スマホは後で取りに来る!」
男は捨て台詞を残し、尻尾を巻いた犬のように、足早に店から逃げ出していった。
しばらくの間、遠ざかる成瀬の足音だけが響いていた。
木村さんが「変なのが来たらすぐ呼びなよ」と言って野菜を置いて去っていくと、春翔がようやく深く息を吐き出した。
「僕……自分の直感を信じて良かったんですね」
「ええ」
澄江さんが言った。
「あなたの感覚は、最初から正しかったわ。人をスペックという数字でしか見られない哀れな男の言葉に、耳を傾ける必要なんてありません」
春翔は少しだけ拳を緩めたが、まだどこか自信なさげに呟いた。
「でも、僕には彼のようなお金も、地位もありません。本当に、先輩に選んでもらえるでしょうか……」
私は春翔の目の前にトコトコと歩み寄り、両前足を胸の前で大きく交差させた。
×(バツ)。
春翔が目を見開く。
「バツ……?」
私はもう一度、力強く×を作った。
それから、成瀬が座っていた椅子を不機嫌そうに後ろ足で蹴る仕草をした。
そんなくだらない数字は、縁の糸には関係ない。
あの男の三本の濁った糸を見るがいい。あんなもの、ただのハリボテだ。
「スペックなんか関係ない、ってことですか?」
春翔が尋ねる。
私は今度、首を縦に振りながら、前足で大きく綺麗な○(マル)を作った。
春翔の顔に、ようやくいつもの、誠実で温かい笑顔が戻った。
「ありがとうございます、ムギさん。あなたにそう言われると、どんなに偉い人の言葉よりも、ずっと信じられる気がします」
私はふいっとそっぽを向いた。
当たり前だ。私は元・プロの霊能者だ。あなたの糸は真っ直ぐで、とても綺麗だ。自信を持って戦ってきなさい。
「先輩に、今夜、ちゃんと僕の気持ちを伝えてみます。沖縄旅行の話も、ちゃんと釘を刺しておきます」
春翔は力強く頷き、ほころび庵を後にした。
暖簾をくぐっていく彼の背中を見送る。
その赤い糸からは、成瀬の放った灰色の呪縛が綺麗さっぱり消え去り、夕暮れの光の中で、眩しいほど真っ直ぐに「さきさん」の方向へと伸びていた。
夕方、澄江さんがカウンターの隙間から、長い物差しを使って成瀬のスマートフォンを引っ張り出した。画面には、成瀬の悪事がこれでもかと表示されたままだ。
「これ、どうしましょうか、ムギちゃん」
私は窓の外を顎でしゃくった。
「そうね。持ち主の素性も分かっているし、交番に『落とし物』として届けておきましょう。警察の方から、ご丁寧に会社の方へ連絡が行くように手配してね」
澄江さんがいたずらっぽく微笑んだ。この人のこういう容赦のないところが、私は大好きだ。
会社に警察から連絡が行けば、あの男の社内での立場も、先輩女性への言い訳も、すべて終わりを迎えるだろう。
私は窓際で丸くなり、静かに目を閉じた。
金木犀の甘く切ない香りが、秋の冷ややかな風に乗って、ほころび庵を優しく満たしていく。
今日もよく働いた。
肉球の感覚が、とても心地よかった。




