第49話:澄江さんとムギと夜
縁人が生まれた日から、一週間が経った。
商店街は、また静かな日常に戻っていた。
木村さんが店を開けて、磯田さんが魚を並べて、芹奈さんが買い物に来て、工事の音が遠くから聞こえてくる。
いつもの朝だった。
でも、少し違った。
何かが、満ちていた。
新しい命が来て、商店街に縁が一本増えた。その重みが、空気に残っていた。
私は窓から、商店街を眺めていた。
今日は相談者が来ない予感がした。
そういう日がある。
糸がゆったりとしている日、人はほころび庵に来ない。
今日は、そういう日だった。
澄江さんが、ゆっくりとお茶を入れた。
私の隣に座って、窓の外を見た。
「静かね」
澄江さんが言った。
私は澄江さんを見た。
「こういう日、好きよ」
澄江さんが続けた。
「何もない日が、最近は特に好きで」
私は窓の外を見た。
澄江さんの糸が、今日は穏やかだった。
白い糸が、温かく光っていた。
疲れの色は、先月より薄くなっていた。
ゆっくりするようになってから、澄江さんの糸は少しずつ明るくなっていた。
しばらく、二人で窓の外を見ていた。
澄江さんがぽつりと言った。
「ムギちゃんが来てから、この店、変わったわね」
私は澄江さんを見た。
「最初は、猫がいるだけだと思っていたけど」
澄江さんが続けた。
「気づいたら、ムギちゃんがいることで、変わっていたことがたくさんあって」
「どんなふうに?」とは聞けない。
でも、澄江さんは続けた。
「前は、もっと、引いていた気がして」
澄江さんが言った。
「相談者が来ても、聞くだけで。踏み込めなくて」
私は澄江さんを見た。
「でも、ムギちゃんが背中を押すから。メモ帳を出したり、丸を作ったり、木村さんを呼びに行ったり」
澄江さんが少し笑った。
「私も、言えるようになってきた気がして。ムギちゃんがやるなら、私も、って」
私はそっぽを向いた。
そんなつもりはなかった。
ただ、放っておけなかっただけだ。
「春江さんに、昔は怖かったって言われたでしょう」
澄江さんが続けた。
「あのころの私、少し戻ってきた気がして。でも、あのころとは違って、ちゃんと聞いてから、言えるようになった気がして」
私は澄江さんを見た。
そうかもしれない。
澄江さんは変わった。
私も、変わった。
どちらが先かは、わからない。
澄江さんが窓の外を見たまま、静かに言った。
「ムギちゃん、あと何年できるかしら、この仕事」
私は、澄江さんを見た。
澄江さんが続けた。
「体のことを考えると、ずっとは無理だと思って。健二も心配してくれているし、木村さんも気にかけてくれているし」
澄江さんが湯呑みを持った。
「でも、やめたくないのよ」
静かな声だった。
「ここが好きで。来てくれる人たちが好きで。話を聞くのが好きで。ムギちゃんといるのが好きで」
澄江さんが私を見た。
「だから、できる限り、続けたいと思って。でも、できる限り、というのが、どこまでなのか、最近考えることがあって」
私は澄江さんをまっすぐ見た。
答えはなかった。
わからなかった。
未来は、視えない。
でも、今日、澄江さんはここにいる。
それだけは、確かだった。
「ムギちゃんは、どう思う?」
澄江さんが聞いた。
私は少し考えた。
それから、前足を動かした。
○(マル)を作った。
「続けていい、ってこと?」
私はもう一度、○(マル)を作った。
澄江さんが、少し笑った。
「そうね。ムギちゃんがいる限り、続けられる気がするわね」
澄江さんがお茶を飲みながら言った。
「ムギちゃんが来て、もうすぐ六年ね」
私は澄江さんを見た。
「あの梅雨の夜、段ボールの横で鳴いていたのを見つけたとき」
澄江さんが続けた。
「こんなに長くいてくれるとは思っていなかったけど」
澄江さんが私を見た。
「不思議な子だとは、思っていたのよ、最初から」
私はそっぽを向いた。
「目が違ったから。ただの迷い猫の目じゃなくて、何かを考えている目で」
澄江さんが少し間を置いた。
「誰だったのかは、わからないけれど」
澄江さんが静かに言った。
「ムギちゃんはムギちゃんよ。それだけは、ずっと変わらないから」
私は、澄江さんを見た。
澄江さんは、正体を確認しなかった。
聞かなかった。
ただ、ムギちゃんはムギちゃん、と言った。
それが、この人だった。
四十年、人の話を聞いてきた人間の、優しさだった。
夜、澄江さんが店を閉めた。
奥の部屋に入る前に、私を見た。
「ムギちゃん」
私は澄江さんを見た。
「来てくれて、ありがとうね」
澄江さんが言った。
「あの梅雨の夜に、ここに来てくれて、ありがとう」
私は、そっぽを向いた。
目が、少し熱くなった。
「おやすみ、ムギちゃん」
澄江さんが奥の部屋に入った。
私は窓際に残って、夜の商店街を見た。
糸が、夜の中で静かに光っていた。
赤い糸、白い糸、あの温かい色の糸。
全部、あった。
澄江さんの糸も、奥の部屋から、温かく伸びていた。
来てくれて、ありがとう。
澄江さんがそう言った。
私は、この場所に来てよかった、と思った。
梅雨の夜、ずぶ濡れで鳴いていた自分を、澄江さんが拾った。
タオルで包んで、「麦みたいな色だから、ムギ」と名付けた。
あのとき、澄江さんの手が温かかった。
今も、温かい。
それだけで、十分だった。
四月の夜が、ほころび庵を静かに包んでいた。
工事の音は止んでいた。
商店街が、眠っていた。
私は丸まって、目を閉じた。
ここにいる。
それだけだ。




