エピローグ〜〜今日も、ここにいる
五月の朝、商店街に風が吹いた。
アーケードの外では、新緑が揺れていた。
桜は散って、葉桜になっていた。
工事の囲いは、今日も静かに立っていた。来年の春には、新しい建物が完成する。
でも今日は、まだ静かな朝だった。
私はほころび庵の窓際で、今日の糸の具合を確認していた。
いつものように。
木村さんが店を開けた。
磯田さんが魚を並べた。
芹奈さんが買い物袋を持って歩いていた。
美咲が、縁人を抱いて、店先に立っていた。
縁人は美咲に抱っこされ、寝ていた。
商店街の糸が、朝の光の中で、静かに輝いていた。
赤い糸、白い糸、あの温かい色の糸。
全部、あった。
今日も、あった。
私は窓から、商店街を眺めながら、糸を辿った。
木村さんと美咲の赤い糸が、縁人の光を包んでいた。
磯田さんと正一さんの白い糸が、五十年分の重みで輝いていた。
芹奈さんの糸は、あの祭りの夜からずっと色づいていた。未来さんとの縁の糸も、温かかった。
春翔の赤い糸が、さきさんの方向へ真っ直ぐに伸びていた。
健二さんの白い糸が、遠くからこの場所へ向かっていた。神楽さんの糸も、一緒に。
彩音の銀色の糸は、今日も消えていなかった。隣に、細い赤い糸が寄り添っていた。
璃子さんの糸が、この商店街の方向へ、細く伸び始めていた。
咲子さんの糸が、遠くでも温かく輝いていた。
美羽さんの糸が、少しずつほどけながら、前を向いていた。
雅紀さんの糸が、松田さんとの間で、少し双方向になっていた。
全部の糸が、この場所から、それぞれの方向へ伸びていた。
ほころび庵を中心に、商店街に、糸の地図が広がっていた。
澄江さんが、ゆっくりとお茶を入れた。
私の隣に座った。
「今日も、いい天気ね」
澄江さんが言った。
私は澄江さんを見た。
澄江さんの糸を確認した。
白い糸が、温かく光っていた。
金の糸が、頭上にふわりと浮いていた。
守られている。
健二さんの方向へ、太い白い糸が伸びていた。
神楽さんの方向にも、細いが温かい糸が生まれていた。
木村さんたちへの縁の糸が、商店街のあちこちへ伸びていた。
疲れの色は、まだあった。
でも、一年前よりずっと薄くなっていた。
ゆっくりするようになってから、澄江さんの糸は少しずつ明るくなっていた。
「ムギちゃん」
澄江さんが言った。
私は澄江さんを見た。
「今日も、よろしくね」
私はそっぽを向いた。
よろしくも何も、私はここにいる。
それだけだ。
澄江さんが棚を見た。
朱音のノートと、彩音の手紙が、並んでいた。
「朱音さん」
澄江さんが静かに言った。
「今日も、ここにいるわよ」
私は棚を見た。
ノートから、銀色の糸が伸びていた。
彩音の方向へ。咲子さんの方向へ。律子さんの方向へ。
朱音が残した縁の糸が、今日も、それぞれの場所で光っていた。
朱音は二十八年しか生きられなかった。
でも、残したものは、消えなかった。
人の中に、言葉の中に、縁の中に、残り続けた。
私は、花村朱音として生きた記憶を持ったまま、ムギとして、ここにいる。
どちらも、本当のことだ。
どちらかを捨てなくていい。
朱音だった記憶を持ったまま、ムギとして生きていい。
それが、この五年で辿り着いた答えだった。
午後、暖簾が揺れた。
璃子さんだった。
「こんにちは」
璃子さんが言った。
「また来てしまいました」
「いらっしゃい」
澄江さんが顔を上げた。
「どうぞ」
璃子さんが座った。
「仕事、続けることにしました」
璃子さんが言った。
「自分で決めました」
「まあ」
澄江さんが言った。
「うまくいかないことは、まだあるかもしれない。でも、やめたいわけじゃないって、ちゃんとわかったから」
璃子さんが私を見た。
「ムギちゃんが○(マル)を作ってくれたの、覚えていますか」
私はそっぽを向いた。
「あれから、ずっと考えて。猫に背中を押されたんだから、やるしかないなって」
璃子さんが笑った。
私は、璃子さんの糸を確認した。
薄い灰色の糸は、消えていた。
赤い糸が、今日は輝いていた。
仕事の方向へ、真っ直ぐに。
自分で決めた人間の糸は、こういう色をする。
何度見ても、この色が好きだった。
璃子さんが帰った後、澄江さんが言った。
「よかったわね」と。
私は窓から璃子さんの後ろ姿を見た。
商店街を歩いていく璃子さんの赤い糸が、春の光の中で輝いていた。
また一人、自分で決めた人間が、この場所から歩き出した。
私はその糸を眺めながら、思った。
放っておけない。
それは変わっていない。
猫になっても、言葉をなくしても、変わっていない。
人の糸が視えるたびに、体が動いてしまう。
メモ帳を押したり、丸を作ったり、木村さんを呼びに行ったり。
それが、ムギという猫の、どうしようもない性分だった。
夕方、澄江さんが店を閉めた。
暖簾をしまいながら、商店街を見た。
木村さんが店を閉めていた。磯田さんが正一さんと並んでいた。芹奈さんが歩いていた。美咲が縁人を抱いて、木村さんの隣に立っていた。
「ムギちゃん」
澄江さんが言った。
私は澄江さんを見た。
「明日も、よろしくね」
私はそっぽを向いた。
明日も、ここにいる。
それだけだ。
夜、窓から商店街を見た。
糸が、夜の中で静かに光っていた。
赤い糸、白い糸、金の糸、銀色の糸、あの温かい色の糸。
全部、あった。
切れていなかった。
縁は、消えない。
形を変えても、時間が経っても、消えない。
人の中に、言葉の中に、この場所に、残り続ける。
私はそれを、花村朱音として二十八年知っていた。
ムギとして、五年かけて、また確かめた。
同じことだった。
どちらの目で見ても、縁は消えなかった。
澄江さんが眠った。
私は窓際で、夜の商店街を見ていた。
静かだった。
でも、糸は光っていた。
明日、また誰かが来る。
暖簾をくぐって、座って、話す。
澄江さんが聞いて、お茶を出す。
私が糸を視て、肉球で丸を作ったり、メモ帳を押したり、ただ隣にいたりする。
そうやって、縁が生まれる。
それだけのことが、この場所では続いていく。
ほころび庵の暖簾が、夜の風に、静かに揺れた。
商店街の糸が、夜の中で、静かに光り続けた。
私は目を閉じた。
今日も、ここにいた。
明日も、ここにいる。
それだけで、十分だった。
――「肉球で視える運命」完――
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
途中、いろいろあったので書き直し出来ませんでしたが、いつか再び書きたくなったら書き直しします。




