第48話:新しい命が来た
四月の朝、木村さんが走ってきた。
八百屋のエプロンをつけたまま、走ってきた。
私は窓から、その姿を見た瞬間、何かが起きたとわかった。
木村さんが走ることは、めったにない。
でも今日は、走っていた。
しかも、顔が、笑っているのか泣いているのかわからない顔をしていた。
暖簾が勢いよく開いた。
「澄江さん!」
澄江さんが「まあ、どうしたの」と立ち上がった。
「生まれました」
木村さんが言った。声が、震えていた。
「昨夜、生まれました」
澄江さんが「まあ!」と言った。
「男の子です」
木村さんが続けた。
「三千二百グラム、元気で、美咲も元気で」
澄江さんが「よかった」と言った。目が、潤んでいた。
木村さんが、大きな手で顔を覆った。
「泣くな」
磯田さんの声が聞こえた。
いつの間にか、磯田さんが暖簾の外に立っていた。
「泣いてない」
木村さんが言った。
どう聞いても、泣いていた。
それから、一時間もしないうちに、商店街全体に広まった。
木村さんが、走りながら教えて回ったからだ。
磯田さんが「よかったなあ」と言った。正一さんが「おめでとう」と言った。
精肉店の田中さんが「おい木村、今日の仕入れどうするんだ」と言った。
木村さんが「後でやる」と言った。
芹奈さんが窓から顔を出した。
「生まれたんですか!」と言った。
未来さんも、たまたま商店街に来ていて、「おめでとうございます!」と言った。
春翔が通りかかって、事情を聞いて、「よかった」と言いながら目を細めた。
商店街が、朝から賑やかだった。
私は窓から、その様子を見ていた。
糸を確認した。
木村さんの糸が、今日は今まで見た中で一番輝いていた。
赤い糸が、美咲の方向へ、太く温かく。
そしてその糸の中に新しい命の光が、先月より大きくなっていた。
この光が今日世界に生まれた。
新しい命の糸は、これから少しずつ伸びていく。
どこへ向かうかは、まだわからない。
でも、生まれた。
それだけで、十分だった。
五日後、美咲が赤ちゃんを抱いて、ほころび庵に来た。
木村さんが隣にいた。
布に包まれて、美咲の腕の中で、目を閉じていた。
「澄江さん、会わせたくて」
美咲が言った。
「まあ」
澄江さんが立ち上がった。
「見せて見せて」
美咲が赤ちゃんを澄江さんに向けた。
澄江さんの顔が、柔らかくなった。
「かわいい」
澄江さんが言った。
「本当に、かわいいわね」
「澄江さんに、一番最初に見せたかったんです」
美咲が言った。
「ここで、一番最初に相談して、ここから始まったから」
澄江さんが「まあ」と言った。目が、また潤んでいた。
「名前、決まりましたか」
澄江さんが聞いた。
「縁に人、と書いて、えんとと読みます」
木村さんが言った。
澄江さんが「まあ」と言った。
縁人
私は、その名前を聞いた。
この商店街で、たくさんの縁が生まれた。
その縁の中から、また新しい命が生まれた。
その子の名前が、縁人だった。
美咲が赤ちゃんを、そっとカウンターの前に近づけた。
「ムギちゃん、会わせたかったんだ」
美咲が言った。
私はカウンターから降りた。
赤ちゃんの前まで歩いた。
赤ちゃんが、目を開けた。
小さな目が、私を見た。
私は、赤ちゃんを見た。
糸を確認した。
まだ細い。でも、確かにあった。
赤い糸、白い糸。まだどこへ向かうかわからない、細くて柔らかい糸が、この小さな体からいくつか伸び始めていた。
その中に、私の方向へ伸びる、細い糸があった。
今日、初めて生まれた糸だ。
私とこの子の、縁の始まりだった。
「なんか、ムギちゃんを見て、笑った」
美咲が言った。
「まだ笑えないわよ、この月齢では」
澄江さんが言った。
「でも、笑った気がした」
美咲が笑った。
木村さんが「俺にも笑ってくれ」と言った。
誰も見ていなかったが、私は前足を動かした。
○(マル)を作った。
この子の縁が、たくさん生まれますように、という意味で。
その日の午後、ほころび庵に人が集まってきた。
誰かが呼んだわけでもなかった。
磯田さんが「赤ちゃんを見せてもらいに来た」と言いながら入ってきた。正一さんも一緒だった。
「まあ、かわいいなあ」
磯田さんが言った。
「うちの孫に似てる」
「全員似てるって言うじゃないですか」
木村さんが笑った。
芹奈さんが「おめでとうございます」と言いながら来た。未来さんも一緒だった。
「かわいい」
芹奈さんが目を細めた。
「名前は何ですか」
「縁人です」
美咲が言った。
「縁人」
芹奈さんが繰り返した。
「素敵な名前」
春翔が「お祝いです」と言いながら、菓子折りを持ってきた。
「気を使わなくていいのに」
木村さんが言った。
「気を使いたいんです」
春翔が笑った。
澄江さんが「狭いけど、みんな座って」と言って、お茶を出し始めた。
ほころび庵が、人でいっぱいになった。
私は窓際に移動した。
ほころび庵の中を見た。
澄江さんが、お茶を出しながら笑っていた。
美咲が、赤ちゃんを抱きながら、みんなに囲まれていた。
木村さんが、照れながら、でも嬉しそうだった。
磯田さんと正一さんが、並んで座っていた。
芹奈さんと未来さんが、隣り合って赤ちゃんを見ていた。
春翔が、菓子折りの包みを解いていた。
糸を確認した。
赤い糸、白い糸、あの温かい色の糸。
ほころび庵の中に、たくさんの糸が交差していた。
全部が、この場所に集まっていた。
由奈さんが言っていた。縁の糸が層になっている、と。
今日の層は、今まで一番厚かった。
新しい命が来た日に、商店街の縁が、ここに集まった。
夕方、人が帰り始めた。
最後に美咲と木村さんが帰った。
「澄江さん、ありがとうございました」
美咲が言った。
「最初に来た日から、ずっとありがとうございました」
「こちらこそ」
澄江さんが言った。
「美咲ちゃんが来てくれて、よかった」
美咲が私を見た。
「ムギちゃんも、ありがとう」
私はそっぽを向いた。
木村さんが「ムギ、よろしく頼む」と言った。
私は木村さんを見た。
よろしく頼む。
縁人の縁の糸が、これからどこへ伸びていくか、私には視えない。
でも、見守ることはできる。
それだけだ。
澄江さんが店を閉めながら言った。
「縁人か」
私は澄江さんを見た。
「いい名前ね」
澄江さんが続けた。
「この商店街で生まれた子の名前として、これ以上ないわね」
私は窓の外を見た。
四月の夜、商店街が静かになっていた。
でも、糸は光っていた。
新しい命の糸が、今日から、この商店街に加わった。
縁人という名前の、小さな糸が。
これからどこへ伸びていくか、まだわからない。
でも、始まった。
それだけで、十分だった。




