第47話:商店街の、これから
三月に入って、商店街の端に、工事の囲いが現れた。
再開発の工事が、始まっていた。
完全な取り壊しではない。
咲子さんたちが動いてくれたおかげで、商店街を残しながら、周辺に新しい建物を建てる計画になった。
でも、工事の音は聞こえた。
毎朝、遠くからトンネルの向こうのような音が響いてきた。
商店街の人間たちは、最初は少し緊張していた。でも、一週間も経つと、慣れてきた。
木村さんが「工事の兄ちゃんたち、野菜でも持っていくか」と言い始めた。
磯田さんが「お前はすぐそういうことをする」と笑った。
そういう商店街だった。
私は窓から、工事の囲いを眺めていた。
糸を確認した。
灰色の糸は、完全に消えていた。
代わりに、あの温かい色の糸が、商店街のあちこちで光っていた。
工事が始まってから、その糸は変わっていた。
不安の色ではなく、期待の色に近づいていた。
変化を、受け入れ始めていた。
咲子さんが来たのは、三月の半ばだった。
今日は、仕事帰りの顔だった。
「澄江さん、こんにちは」咲子さんが言った。
「いらっしゃい」
澄江さんが顔を上げた。
「工事、始まりましたね」
「はい」
咲子さんが座った。
「ご迷惑をかけています」
「迷惑じゃないわよ」
澄江さんが言った。
「音には慣れたし、木村さんなんか、工事の人たちと仲良くなってるし」
咲子さんが「まあ」と笑った。
「工事、どのくらいかかりますか」
澄江さんが聞いた。
「来年の春には、新しい建物が完成する予定で」
咲子さんが言った。
「商店街の周りに、マンションと小さなオフィスビルができます。ただ、商店街自体は残ります」
「そう」
澄江さんが窓の外を見た。
「来年の春ね」
「新しい住民が増えます」咲子さんが続けた。
「商店街にも、新しいお客さんが来るかもしれない」
澄江さんが「まあ」と言った。
「ほころび庵にも、新しい相談者が来るかもしれないですね」咲子さんが言った。
「そうかもしれないわね」澄江さんが笑った。
「ムギちゃんも、忙しくなるかも」
私はそっぽを向いた。
忙しくなっても、構わない。
「旦那さんとは、どうですか」
澄江さんが聞いた。
「おかげさまで」
咲子さんが言った。
「二人で動いたことで、なんか、前より話せるようになって」
「よかったじゃないですか」
「あの件がなかったら、ずっと同じままだったかもしれなくて」
咲子さんが続けた。
「夫も、実は商店街のことが気になっていたって、後から教えてくれて」
「言ってくれればよかったのに」
澄江さんが言った。
「お互い、言えなかったんです」
咲子さんが笑った。
「でも、言えてよかった」
私は咲子さんを見た。
咲子さんの糸が、今日は穏やかだった。
白い糸が、夫の方向へ温かく伸びていた。
二人で動いた縁が、糸に残っていた。
「朱音さんに言われた言葉、今でも覚えています」
咲子さんが言った。
「名前が変わっても、あなたはあなたです、って」
「ええ」
澄江さんが頷いた。
「あの言葉があったから、今の私がいる気がして」
咲子さんが続けた。
「朱音さんに、ちゃんと報告できた気がして」
私は棚を見た。
朱音のノートが、そこにあった。
咲子さんの名前が、最後のページに書いてあった。
その後がわからない。気になっている。いつか確かめたい。
確かめられた。
幸せになれていた。
そして今、商店街を守る側に立っていた。
縁は、消えない。
夕方、澄江さんが窓の外を見ながら言った。
「来年の春、商店街が変わるのね」
私は澄江さんを見た。
「怖いかというと、そうでもないのよ」
澄江さんが続けた。
「変わっても、ここはここだから」
私は窓の外を見た。
工事の囲いの向こうで、夕暮れの光が広がっていた。
木村さんが店を閉めていた。磯田さんが正一さんと並んで暖簾を下ろしていた。芹奈さんが買い物袋を持って歩いていた。
いつもの商店街だった。
工事の音が聞こえても、変わらなかった。
「ムギちゃんが来てから、商店街も色々あったわね」
澄江さんが言った。
「美咲ちゃんが来て、再開発の噂が出て、咲子さんが動いてくれて」
澄江さんが私を見た。
「全部、縁がつながっていたのね」
私は澄江さんを見た。
そうだ。
全部、つながっていた。
ほころび庵に来た人間たちの縁が、商店街を守った。
朱音が残した縁が、咲子さんを通して、この場所へ戻ってきた。
縁は、消えない。
形を変えても、時間が経っても。
夜、窓から商店街を眺めた。
工事の囲いが、夜の中に静かに立っていた。
来年の春、新しい建物ができる。
新しい住民が来る。
新しい相談者が、暖簾をくぐるかもしれない。
私はその糸を、まだ視ていない。
まだ生まれていない縁だから、視えない。
でも、生まれるだろう。
ほころび庵がここにある限り、縁は生まれ続ける。
澄江さんがここにいる限り。
私がここにいる限り。
工事の音が止んで、商店街が静かになっていた。
でも、糸は光っていた。
赤い糸、白い糸、あの温かい色の糸。
全部、今日も、あった。
切れていなかった。
明日も、あるだろう。
それだけで、十分だった。




