第46話:自分で選んだ人たちへ
二月に入って、商店街に節分の飾りがついた。
木村さんが飾った。去年も一昨年も同じ鬼の飾りだ。磯田さんが「また同じやつか」と言って、木村さんが「文句あるか」と言う。今年もそのやり取りがあった。
彩音が来たのは、そういう二月の午後だった。
あれから、四ヶ月が経っていた。
朱音への手紙を預けて、「私、もう大丈夫だよ」と言って帰った日から。
今日の彩音は、前回と全然違う顔をしていた。
明るかった。
前を向いていた。
糸を確認した。
銀色の記憶の糸は、今日も消えていなかった。
でも、震えていなかった。
落ち着いていた。
そして、細い赤い糸が、前回より太くなっていた。
温かい色をしていた。
「澄江さん、こんにちは」
彩音が言った。
「いらっしゃい」
澄江さんが顔を上げた。
「今日は、明るい顔ね」
「そうですか」
彩音が照れた。
「報告があって来ました」
「どうぞ」
澄江さんがハーブティーを出した。
「付き合うことにしました。またちゃんと、自分で決めて」
澄江さんが「まあ」と言った。
「前回は、違うかもしれない、って言ったじゃないですか」
彩音が続けた。
「それから少し距離を置いて。ちゃんと自分の気持ちを確認して。それで、もう一度、自分で決めました」
「前とは違うの?」
澄江さんが聞いた。
「前は、なんか、流れで決めた気がして」
彩音が言った。
「今回は、ちゃんと自分で考えて、この人がいいと思って、決めた」
私は彩音を見た。
赤い糸が、今日は迷いなく前を向いていた。
前回は揺れていた。でも今日は、真っ直ぐだった。
自分で決めた人間の糸は、こういう色をする。
「もう一つ、話してもいいですか」
彩音が言った。
「どうぞ」
「先週、夢を見て」
彩音が言った。
「朱音の夢なんですけど、いつもと違って」
「どんな夢?」
「朱音が、笑っていて」
彩音が言った。
「後ろ姿じゃなくて、こっちを向いて、笑っていて。何も言わなかったけど、なんか、よかったな、って顔をしていて」
澄江さんが「そうだったの」と言った。
「起きてから、なんか、泣いていて」
彩音が続けた。
「でも、悲しくなくて。なんか、ほっとして、泣いていて」
「よかったわね」
澄江さんが静かに言った。
「はい」
彩音が頷いた。
「朱音も、よかったって思ってくれている気がして。私が自分で決めたことを」
私は棚を見た。
朱音が書いたノートと、彩音が書いた手紙が、並んでいた。
朱音がいつも言っていた言葉を、彩音は自分のものにした。
あなたはどうしたいの?
彩音は今、その問いに、自分で答えられるようになっていた。
話が一段落して、澄江さんがハーブティーのお替わりを出した。
「澄江さん」
彩音が言った。
「最近、ここに来る人たち、どうですか」
「どうって?」
澄江さんが首を傾げた。
「朱音がここに来たかったのは、こういう場所だから、って思って」
彩音が言った。
「ここって、人が自分で選ぶ場所だなって、なんとなく感じて」
澄江さんが「まあ」と言った。
「来る人みんな、最終的に自分で決めているじゃないですか。澄江さんが答えを出すんじゃなくて」
「そうかしら」
澄江さんが少し照れた。
「そうですよ」
彩音が言った。
「朱音も、きっとそういう場所が好きだったと思う。答えを教えてもらうんじゃなくて、自分で考えられる場所が」
私は彩音を見た。
そうだ。
美咲は自分で「もういい」と言った。
律子さんは自分で決めた。
健二さんは自分で決めると言った。
奈緒さんは走る足が答えを知っていた。
彩音は、朱音を探すのをやめて、自分で選んだ。
みんな、最後は自分で選んだ。
ほころび庵は、その隙間を作っただけだ。
澄江さんがお茶を出して、話を聞いて。
私が肉球でメモ帳を押して、丸を作って、ただ隣にいた。
それだけだ。
でも、その「それだけ」が、この場所だった。
「澄江さん」
彩音が言った。
「朱音の手帳、ここにありますよね」
「ええ」
澄江さんが棚を見た。
「一つ、お願いがあって」
彩音が言った。
「手帳に書いてあった相談者の方たち、その後どうなったか、澄江さんが知っている人は知っていますよね」
「少しだけ」
「みんな、幸せになれていますか」
彩音が聞いた。
澄江さんが少し考えた。
「全員は知らないけれど」
澄江さんが言った。
「知っている方たちは、それぞれの道を歩いているわよ」
「それで、十分です」
彩音が言った。
「朱音が気にかけていた人たちが、それぞれの道を歩いている。それだけで、十分だと思う」
私は彩音を見た。
最初にここに来たとき、彩音は朱音を探していた。
今日の彩音は、朱音が残したものを信じていた。
その違いが、糸に出ていた。
銀色の記憶の糸が、今日は震えていなかった。
落ち着いていた。
朱音が残した縁を、信じている人間の糸だった。
彩音が帰り際、私を見た。
「ムギちゃん」
私はカウンターから降りて、彩音の前まで歩いた。
「またお姉ちゃんの夢を見たら、報告しに来ます」
彩音が言った。
私はそっぽを向いた。
「あと」
彩音が続けた。
「彼氏のことも、報告しに来ます。うまくいっても、そうじゃなくても」
私は彩音を見た。
「なんでかわからないけど、あなたに言いたくなるから」
彩音が小さく笑った。
「ずっと、ここにいてね」
私はそっぽを向いた。
でも、目が少し熱くなった。
猫の涙は誰も気づかない。
それでいい。
彩音が出て行った。
澄江さんが棚のノートと手紙を見た。
「朱音さん」
澄江さんが静かに言った。
「彩音さん、ちゃんと前を向いているわよ」
私は棚を見た。
ノートから、銀色の糸が伸びていた。
彩音の背中へ向かって。
記憶の糸は、消えない。
でも今日のその糸は、震えていなかった。
落ち着いていた。
まるで、うなずいているみたいだった。




